雨の花海棠(1)
側室たちの呼び方を「姨娘」に変更致しました。
花海棠が雨に濡れる。
雨の中、輿が潭国公府の正門に停まった。
軒下には使用人らが数人、不安そうな表情を浮かべている。そこから、ひそひそと「不憫ね」とか「お可哀想」っと哀愁を込めた声が聞こえてきた。
雨音で輿に乗っていた鄭瑛には聞こえていなかったが、小窓から見えた使用人の表情を見て不安が増していく。
瑛は潭国公府に正妻として嫁いできたのだ。正妻として嫁ぐのには何の文句はないが、夫である潭国公・馮曦には彼女が嫁ぐ前に迎えた妻妾がいたのである。
特に董姨娘こと董蓉という女性が潭国公府の奥向きを仕切ってきた。姨娘とは妾のこと表す言葉だ。また、潭国公との間には庶長子・馮桓をもうけていた。噂では「董奥様」、「大夫人」と呼ばれていると聞いた。
それほど厚遇をしても潭国公は彼女を正妻にはしなかった。彼の叔母で皇帝の側室である馮元妃の影響があったからだ。元妃は正一品の位階で「副后」の意味を込めて馮元妃のために作られたものだった。
妾に留まっている董蓉には姉がいた。馮元妃と同じく皇帝の側室で正二品「修儀」の位階をもつ董修儀だ。董一族は彼女が栄達すると同じように栄華を極めている。馮元妃はそれが気にいらなかった。ならば、自分は自身を支持する宛国公の爵位を賜っている鄭一族から正妻を迎えるように甥の潭国公へと伝えていたのだ。
馮元妃には皇太子の生母としての地位があるが、若く寵愛を賜っている董修儀が皇子を産む可能性もある。董一族の栄華のおこぼれに預かりたい者もでてくる。
そして、董修儀が皇子を産んだら、その皇子を皇太子として推すだろう。馮元妃にはそれが一番、許せないことだった。
雨で冷える中、輿は正門から内院へと向かった。
その日は真紅の婚礼衣装を纏って新郎である潭国公と天地へ夫婦になった申告をする。しかし、潭国公は夜に訪れることはなかった。出鼻をくじかれた気持ちになったが、長年仕えてきた妾たちへの情が深かったのだろう。
いつまでも消えない灯りを見て控えていた使用人たちが無駄口をたたく。
「やはり、董奥様が一番なのね…」
「長い間、お仕えしてきて若様もいるじゃない」
「奥様に同情するわ」
扉の向こうで耳をすませていた瑛は使用人らの言葉を聞いて自然と涙がこぼれ落ちてきた。
瑛は実家である宛国公府で何不自由もなく育ってきた。しかし、それは自分が正妻の娘であるからだ。そう思ったのは庶出の兄弟、姉妹たちを厳しく叱りつける祖母を見てからだ。
(私は特別じゃない。正妻の娘だからよ)
そして舞い込んできた縁談はちまたでは難儀と言われるものだった。
次の日、正殿に向かうと妾たち、使用人らが彼女を出迎えた。その中に潭国公はいなかった。
鄭瑛は既に潭国公と距離があることを悟った。
(潭国公は正妻として董蓉を迎えたかったのね…だから、私には目もくれない…)
だが、鄭瑛は悲しい顔を見せなかった。気丈に振る舞うことにした。ここで悲しい顔をしたり、潭国公を求めるような発言をしたりしたら、きっと愛情だけで生きている妾たちと変わらないと思ったからだ。
紫檀の椅子に瑛が腰をかけると侍女頭が彼女に向かって深々と一礼をする。
「奥様、これから侍女や侍従に何なりとお申し付けください」
侍女頭が頭をあげたのと同時に柔らかい桃色の衣装を着た女性が一歩前に出てきて瑛に頭を下げる。
この女性はどこか挑発的な瞳をしていた。瑛は直ぐにこの女性が董蓉だと気づいた。
「あなたが董姨娘?」
「さようでございます。董蓉と申します。長年、潭国公にお仕えしておりますの。どうか実の妹だと思って仲良くしていただけると幸いでございますわ」
董蓉は頭を上げる。顔に目をやると薄化粧であったが、美しさが際立っていた。白い肌、淡い紅色の唇、柳葉のような眉…艶のある髪には流行りの双髻にして玫瑰の簪が挿してある。
「董姨娘、早速で悪いのだけど長く潭国公府にいるのだから皆さんを紹介してくださる?」
すると董蓉はひらりと身を翻して控えている妾たちに顔を向けた。その中には瑛に好意的な眼差しを向ける者、不機嫌そうな表情を浮かべている者…自分が嫁いだことで妾たちに変化が起きていると彼女らの態度で感じた。
妾たちには正妻として嫁いできた瑛に色々な感情を抱いているのだろう。負の感情や、その反対もあるだろう。
「瑛、生きている人間が一番、怖いのよ。人間には感情がある。良くも悪くも、色々な感情を抱いてあなたに近づいてくるのよ」
瑛は母のこの言葉を思い出した。
心の底で抑えてきた正体不明の感情が現れ始めていた。妾たちは自分に取り入ったり、陰で貶したり…ただ、純粋な交流を持ちたいということもあるだろう。それが人間が織り成す感情だ。
瑛は女の世界に身を置くことが、いかに覚悟のいることだと感じた。それと同時に「恐れ」が顔を出す。正体不明の感情と「恐れ」に心が乱され始めている。内心で呟く。
(なんだか怖い…この先、やっていける?いや……なんとか平常心を保たないと。気をしっかり持って)
「奥様……?奥様……?」
董蓉の問いかけで我に戻った。瑛の暗い表情を見て彼女は勝ち誇ったようにくすりと笑った。
「奥様、皆さんご挨拶をしたくて待っていますわ。こちらの蓁姨娘から紹介いたします」
董蓉が手を差し向けたのは淡い水色の衣装を着た穏やかな雰囲気の妻妾だった。瑛に柔和な笑みをみせて深々と一礼をした。すかさず董蓉が一言つけ加える。
「蓁姨娘は潭国公の三女の生母です」
「秦氏がご挨拶を申し上げます。誠心誠意、奥様にお仕えいたします」
「楽にして。娘は心の拠り所になるでしょう。気兼ねなく遊びにいらして。次は?」
「陳姨娘ですわ。こちらは雁門郡公の孫娘です。潭国公府と雁門郡公は長い付き合いですの。奥様、粗相のないように……」
「董姨娘、正妻でもないのに正妻のわたくしに指図するのかしら?」
(董蓉は偉そうに何でも言ってくるのね…)
すると陳姨娘が吐き捨てるように言ってきた
「奥様を思ってのことですわ。名門の潭国公府の正妻が粗相なんて……恥にしかなりませんもの」
陳姨娘の言動は明らかに瑛を敵視してのものであった。陳姨娘の主人は瑛ではなく、董蓉なのであろう。
「董姨娘も陳姨娘も、お優しい方なのね。でも、わたくしはそんなに優しくはないのよ?」
陳姨娘の顔色が変わる。そして尋ねた。
「そう……おっしゃいますと……?」
「本当なら、罰を与えたいところだけれど輿入れ翌日にあなた方を罰したら幸先が悪いわ」
口ではそう言っているが、袖に隠れた握りこぶしは小刻みに震えている。瑛はそれを悟られないように董蓉と陳氏を見つめた。董蓉が陳姨娘に言う。
「陳姨娘、奥様に無礼よ」
「董姐様、申し訳ありません」
「謝る相手は奥様よ。そうですわよね?奥様」
陳姨娘は乱雑な所作で瑛に頭を下げた。それにしても董蓉は鼻につく女だ。何もかもがわざとらしい。
「董姨娘、次はどなたかしら?」
「張姨娘ですわ。長女と次女を産んでいますわ」
董蓉は一歩後ろに控えていた張氏に目線をやる。それを見た張氏はその場で頭を下げる。
「潭国公の長女は聡明で次女は愛嬌のある娘たちと聞いているわ。今度、お茶を一緒にいかが?」
「ありがとうございます。奥様のお気遣いに感謝いたします」
瑛は張姨娘に笑みを投げかけた。
(事前に聞いておいてよかった…)
瑛は内心で安堵する。しかし、その様子を見て陳姨娘が小さく呟いた。
「態度があからさまだわ……」
董蓉は瑛が顔を向ける前に陳姨娘の腕を掴んで険しい口調で小声で忠告する。
「我慢しなさい…」
「は、はい」
「奥様、以上でございます」
「ありがとう。今度は実家から連れてきた女中を紹介するわ」
瑛が言うと侍女の春蘭と冬梅が董蓉らの前に歩み寄って深々と頭を下げた。
「春蘭と冬梅は双子よ。2人とも気が利いて使える子たちなの」
「皆様、春蘭でございます」
「妹の冬梅でございます」
瓜二つの顔に妾たちは見分けがつかないようだった。2人は似ていないと言うが、とても似ている。瑛は見分け方として春蘭の右目の下にホクロを目印にしていた。
「さようでございますか。使える侍女たちで良かったですわ。もし、使用人が必要なら仰ってくださいね」
「何をいうの?使用人の人事は正妻の権限よ」
瑛は椅子から立ち上がり、正殿を後にした。
本当は「姨娘」を使えば良いんだよね…っと思いながら書きました。そのうち、直すかもしれません。