あそぶためにある高い音
随筆です。
結構過激かもですね。
本心だったり、本心だったり。
間違えないように、ミスしないように。芸術の本質は、そこにあるはずなのに、近代的な流行がそれらを否定し、自分たちだけが正しいと勢力を増し、肥えていく。
不平等で不正確という世界に産み落とされながらも、真実を追求し、正しさを見つけるためだけに生きる者は、少なからずとも必ずいる。不思議と世間はそれらを決して非難せず、かと言って保護するわけでもなく、ただただまっすぐな評価をする。
「乱れたこの世」と「美しい作品」は、皮肉にも同じ時に存在している。それらを区別するのは、本当に清い心の持ち主と、勝手なほどにのうのうと生きている一部の老人と成上がりものだけだと、人間という生き物は間接的に我らに伝えている。
かといって、評価する権利が我らにないわけではない。選挙の票格差のように、評価の重みが違うのだ。「信用」と呼ばれる城に守られた彼らの言動は、何故か簡単に崩れ、それよりも早く修復される。
「信用」は、本当は早く築かれてはいけないものだ。そうであろう。値崩れと同じように、「信用」の重みが人によって変わってきてしまったら、「信用」の価値自体が消えてしまう。
「信用」を崩さないように、間違えないように、ミスしないようにと、そうやって生きていくのが正しい、ただそれだけなのに。信用されなくなった「信用」は、理解されなくなった正しい、規則正しい芸術と同じように消え去っている。
「なるほど、これが予言された『世界の終わり』か。」と、自ら命を絶つものが、社会に訴えかけている。そんな犠牲はいらないはずなのに、無視されるはずなのに、間接的に、いや彼らにとっては最大限直接的に、支配階級へ声を荒らげている。
血まみれになったこの大きな世界で、やっと真意に気づく者が現れたと思えば、それは物理的に排除される。握る権力を「芸術」という形に変え、正当化させるため、理想と地位のみを高くし、上から人を見る。彼らに志は、一切ない。
反対的に欲望は驚くほどに溢れ出る。我らとは違い、それを満たすために日々を費やす。適当なまでに世界を破滅させ、悲しむ人を横目に見ながら、それを踏み、遊んで暮らす。
それを放置して良いのか。良いのか、良いのか。我らの権利を否定され、意味のない増税を繰り返され、高くなりつつある離職率を放置し、彼らは笑って息をする。我らの渋い顔のため息は捨てられ、それは音にすらならず、無音の世界へ突き落とされる。
一部の人間が遊んで一生を終えるため。そんな生き方に逆らう高い志は、それを音に、声にしようと日々耐える者がもっている。あわよくば、その立場を逆転させるために。
自らが遊んで、楽しく、幸せに暮らすために。
自分だけが、良くなるために。
特定の個人・団体を批判しているわけではありません。
特定の個人・団体を批判しているわけではありません。
大事なことなので、コピペで2回言いました。
色々とおかしいんですけどそれはまぁ御愛嬌です。