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異能短編

宿屋主人乃悪友乃日記。

作者: 留龍隆

「宿屋主人乃気苦労日記。」の番外編です。本編未読の方にはあまりオススメしません。

Don't try to be a hero.


Take yourself as it is.


And…………






        *




 ぴちゃ、と水の音が跳ねる。彼は目を覚ました。

「……む。もう朝か」

 がさごそと新聞紙を身体から払い落とし、ベンチの上で体を起こす。新聞紙の影から出てきたのは橙色の、フードがついたダッフルコートを着た人影。前の合わせを紐とトッグルで留めたそれは、やたらともっそりした厚手のもの。彼はごそごそとポケットに手を突っ込み、身震いした。もう冬に入ったこの時季に、三方の壁と天井しかないバスの停留所で寝るという暴挙に出たためだろう。

 そんな彼は大きく伸びをして手をポケットから出し、小さめの酒瓶のふたを開ける。中身を一口、二口と口に含み、一気に飲み込んだ。そしてむせた。すると顔には赤みがさして、先ほどまでのような青白さは失せる。アルコール度数の高い酒を呑んだのだ。

「あー……身体の節々が、痛いな」

 彼はそう言いつつ、手首から紐ゴムを取って肩まである茶髪を一括ひとくくりに束ねる。髪を払った下に見える目はもともと死んだ魚のようなそれだというのに、寝不足なのかクマまであった。

 そして枕代わりにしていたつばの広い、からすが羽を広げたような形の帽子をかぶり、トランクを携えて外に出た。停留所の外は昨夜から降り出したのか雪模様で、田んぼの水際は白く凍っている。視界の果てまで、そんな風景が広がっていた。民家は少ない。

 トランクからサンドイッチを取り出す。包みをほどいてそれを頬張り、胸ポケットから取り出した眼鏡をかけて、空いた手に持った地図を見やった。どこを示したものかわからないほど、細かく分岐して入り乱れた道を描いた地図。その上で彼は赤い点を探し、そこからさらに指先で道をなぞり、ぐにゃぐにゃと地図上をさまよわせた。やがてサンドイッチを食べ終えて、その場から歩き出す。

 数歩進んだところで、彼の姿は虚空に掻き消えた。


          *


「え、煙草が切れたん? もともと吸ってたっけ?」

 少女は大きなまなこをぱちくりさせて問いかける。目の前には、むすっとした少年が一人。彼はとんとんと格子戸を指先で叩きつつ、不機嫌を隠さずに答えた。

「最近吸ったらハマったんだ。いいからよこしてくれないか、いらいらしてるんだ」

 短めに刈った黒髪と黒目、灰色のどてらを着たごくごく普通の少年。年の頃は十五、六くらいだろうか。背丈は少女と同じくらいで、左眼をふさいでいる傷の縫い痕だけが、微妙に浮いた雰囲気を出していた。片目だけで威圧する彼にすごまれて、少女はころころと笑う。

宗一そういちったら大人ぶっちゃってまーあ。別にいいんけどね」

「すまないな。銘柄はこれにしてくれ」

 懐から取り出されたそのパッケージにはアルファベットが並んでいたが、あいにくと英語に疎い沙羅はその一瞬では名前を覚えきれなかった。だが、頼むぞ、と念押しされると聞きなおしにくく、結局うろ覚えのまま会話を続ける。

「……しかしまったく、毎日つまらないな。そうした娯楽でもなければやってられん」

「そりゃあ、宗一はそんなところにいるんからね」

「少し交代してほしいくらいだ」

「それは無理」

 べ、と舌を突き出す少女。薄紫の瞳を細めて笑い、そのたびに長めで背にかかる黒髪が揺れた。宗一は太い木の格子こうしで出来た牢の中から、そんな彼女を見て苦笑した。

 牢屋と言っても、狭い小部屋のようなものではない。二人の立つ場所は村はずれにある高く、長い塀の前。区画を分けるためのようなそれの中央に、大きな門と一体化した格子戸があるのだ。それを挟んで、二人は話していた。

「でも、こんな変わらない毎日っていうのんも、それはそれで悪くないんじゃない? と、あたしなんかは思う」

沙羅さら。そうは言うがな、こっちは娯楽だけじゃなく、女の子も少ないんだ。わびしいものがあるだろう。男女の付き合いで、選り好みが出来んなど」

 問われて、考え込む沙羅。だが軽い調子でぽんと手を打ち、宗一の顔を指差しながら言う。

「妥協すればいいんじゃん?」

「妥協は人生を貶める」

 一瞬、難題に苦悩する哲学者じみた表情を浮かべて、宗一は呟く。沙羅はしらけた様子で、肩をすくめた。

「なーにカッコつけたこと言っちゃってんの。なら、試しに理想像を言ってみたらいいんよ」

「……わかった。ならば正直に要望を述べよう。料理上手で気立てが良くて勉学も優秀で性格もよく、それでいて胸のある女の子とかがいい」

 しれっと、手際よく並べ立てる。あまりにも詳細に述べられて、沙羅はげんなりした。

「そんな化物いるん?」

「どっかには居る。主に書物の中とかな」

 たまに出かける書店で見る、漫画を売る場の隣辺りにある薄めで挿絵の多くついた本を沙羅は思い出す。なるほど、表紙を飾る女の子の絵柄は宗一の要望に似たものだ。だが、どこで宗一はそんな本を手に入れたのやら、と、頭を押さえた沙羅は湿度の高い目で見る。

「そんな女の子を夢想するんのが趣味だっけ、宗一」

「最近読み始めたんだ」

「趣味の幅広げるのんが最近の趣味?」

「そういうことにしておこう」

 がっくりと肩を落とした沙羅に、くつくつと含み笑いを漏らしてみせる宗一。なにやら趣味が増えたためか、普段より明るい。そう感じて、まあそれもいいかと微笑んだ。そんな二人の間を北風が吹きぬけ、その風が鐘楼しょうろうから鳴り響く音を運ぶ。思わず沙羅は袖を抱き込んだ。

 ――かん、かん、かん。短く、拍子を取って音が抜けていく。

「あ、っと。もうこんな時間。そろそろ戻らないと怒られちゃうんね」

「普通ここまで来てこっちの一族と話す奴はいないからな」

「三十年に一度、そっちがこっちの人をめとる時以外はね」

「もうすぐ、その儀式の時期だったな」

 軽く、賛同を求めるような宗一に、沙羅は複雑な表情を返した。急に塞ぎこんでしまった彼女の態度に宗一は少し動揺して、しかし声をかけようかと思った時には、向こうから再び切り出された。

「……そっちの“選者”って、今回は宗一に、なるんかな?」

「ああ、年齢的にはおそらくな。それがどうした?」

「なんでもない」

 鐘楼からの音が、次第に間隔を狭めていく。その音に沙羅は舌打ちして、くるりと後ろを向いた。髪の分け目に、光る何かがある。だが宗一は何も言わず、一歩だけ格子戸から離れる。今まで格子の上に置かれていた手が離れたためか、子犬ほどの大きさの南京錠がこすれる音がした。じゃらりと、沙羅との間で金物の音。視線を流すように沙羅は振り向いて、軽く手を上げた。

「じゃ、また明日ね」

「ああ」

 走り始めた沙羅の姿が丘の向こうに消えるまで、宗一はそこに立っていた。乾いた風が、正面から吹く。節約して半分しか吸っていなかった煙草を、取り出してくわえた。ライターで点す火は、冬の空気を吸い込んで勢いよく燃える。静かに深く吸うと、まだ慣れていない肺は吸い込んだ煙にいぶされて、宗一は顔をしかめた。ぷかぷかと、ふかす程度の吸い方に切り替えて歩き出す。

 脳裏に、先ほど見た沙羅の頭に生えていた、二本の角を思い出しながら。



 しばらく並木道を歩くと、殺風景な村が見えてきた。中央の通りをとりまくように家が立ち並び、棚田と畑が広がっている。その横で家畜をいくらか飼っているが、数は少ない。そんな風景は発展が遅いというより、発展を留められたように見えた。写真のように、固定された町並み。さほど広くはないそこを歩いて、山の方へと向かう。

 ぱたぱたと斜面を道から外れて歩くと、村の奥にあるやしろに辿りつく。寺社に似た雰囲気のそこは、建てられてからどれだけの年月が過ぎたのか、朽ちかけて骸のような様相を呈している。だがその中から感じられる禍々(まがまが)しい念は、そこをただの廃屋ではないと確信させるに足るものだった。お堂の扉を開けると、薄暗い中で白く光るものが見える。

 面だ。仮面が、壁一面に掛けてある。質素なものから豪奢ごうしゃに飾り立てられたものまで、数十点。そのいずれもが、芸術的な価値がありそうな美しいものだった。

 どことなく冷たさを感じさせる薄い面は、さまざまな肌を形として描く。その上、固定された顔のはずが、角度により様々な感情を魅せる。誰かの一瞬の表情を切り取って、誇張して作られたようなそれは、社と同じく年月を伝えてくるのだ。

「……面とは“化 ”面。“仮 ”のおもてでありながら本質に至る。儀式のためのそれであり、神仏や精霊、獣への信仰からの一体感を増し、それそのものに“化す ”ためのもの。すなわち、ここにあるもの全てが何者か、ということか」

 ぶつぶつと独りごちて、狭いお堂の中をゆっくりと歩き回り、四方だけでなく天井まで覆い尽くしている面を、眺め回す。面には無いはずの目から視線を感じるその空間は、居心地悪い他人の家のようだった。

 探すうちに、宗一は壁の一部に隙間を見つけた。そこだけが、面を飾られておらず引っ掛けるための釘を露出させている。赤く錆びた釘を撫でながら、宗一は物思いにふけるような顔をした。仮面のような、冷たい顔を。

 しばらく仮面とにらみ合いをしてから、社の奥にあった仮面についての伝承などを読む。大体は宗一の考えの中にあった事柄が書いてあったが、いくつか、この村の外にある普通の考えとは、違う点も存在した。特に、仮面に人格を認め、長く付けていると身体を奪われるやもしれない、という記述に、宗一は思うところがあった。その後も様々な伝承、説話などを伝えるその巻物を眺め、どっぷりと思考に浸かる。

 長々と宗一は社で時間を過ごした。ようやく外に出て空を見上げた時、夕晴れが見えないと思っていたら、曇っている。分厚くたちこめた雲は、じっとりと湿った綿のように重たく頭上に垂れ込めている。

「今夜は雪か」

 またも独りごちて、宗一はお堂を出た――その時、がさりと近くの茂みが音を立てる。ぴくりと警戒して、その方向をじろりと睨む。だがそうすること数秒で、止まったまま牽制しあうような膠着は、唐突に終わる。カマをかけたのか、宗一は視認出来ていない相手に溜め息をついてみせたのだ。途端に、気配の色が変わる。

「……なんだ、おまえか」

 あきれたような宗一の声に、数瞬の間を置いて。茂みから、影が歩いてきた。


          *


 ずるりと、空間の隙間から男は這い出る。歪んだ景色は、しかし彼が足まで引き抜くと、波紋を空気に残して跡形もなく消え去る。ぽんぽんと膝を払って、彼は辺りを睥睨へいげいした。

「さて、仕切りなおしなのだよ」

 ぐにゃぐにゃとあちらこちらに移動して、ようやく彼は目的地に到着した。人を少しずつ惑わし、違う道を辿らせる結界を避けるように移動してきたために、思っていたよりもずっと長い時間をかけてしまったらしい。朝出発したというのに既に日は高く昇り、懐中時計を見ると正午を過ぎていた。

「『神隠し』の結界。予想以上に手間取ってしまったな」

 大きなフレームの眼鏡のブリッジを押し上げながら彼は村の入り口を通り、それなりに活気付いた村内を進む。数日前にも訪れた場所だが、見慣れているわけではない。閉鎖された場というのは部外者には居心地悪く、少しばかり疎外感を覚えさせられる。

 それより何より彼が嫌だったのは、目立たざるを得ないことだ。出来る限り人目につかない場所を選んでも、どこからか視線が降ってきているように感じる。今すぐ襲われるとかそういうことは無いとわかっていても、警戒されているというのは不愉快だった。彼は素早く、村内を通り過ぎようとする。

「おや、どうされましたかな」

 しかし、郵便局の角を曲がろうとしたところで、人に出くわした。愛想の良い笑みを浮かべた老人は、能面の翁にそっくりな顔をしている。老人は少し首をかしげて、出くわした彼の名前を思い出そうとする。やがて得心したような笑みを浮かべ、名を呼んだ。

「辻堂さん。あなた、辻堂つじどうさんでしょう。この前買い付けに着ていらっしゃった」

 名前を言い当てられ、辻堂はなにやら微妙な表情になった。だがすぐさま営業用の笑顔に切り替えて、明るく応対してみせる。

「いや、この前訪れた時に買い忘れた品物があったのですよ。それを買いにちょっと」

「そうでしたか。あー、それでしたら田所さんのところで買うといい。あそこならこの村のものは大体揃ってますぞ。一度来ただけですし、村内はよくわからんでしょうから、道順をお教えしましょうか?」

 有無を言わさぬ語調に、辻堂は半笑いでうなずかざるを得ない。つらつらとそこまでの道のりを説明する老人。辻堂は時折相槌を打つように聞き役に甘んじていたが、目は冷ややかだった。その理由としては、これは老人特有の性質によるところが大きい。ずばり、話が長いからだ。右往左往、散々回り道をして、本題から逸れたり戻ったりを繰り返す。急いでいる時に時間を食うことほど、いらだちを覚えることはない。辻堂の相槌は、だんだん素っ気無く、冷たいものになっていく。

「……ですから、途中はこの道先にある塀を伝っていくのですが。途中にある門にはくれぐれも近づかんでくだされ。向こうにいる“仮面の一族 ”は、他人になりすます能力を持ってますからな。おや、これはさっきも言いましたかな? えー、それで、ですな……」

 いらいらとした感情を隠し切れず、辻堂の指先は自分の太腿を忙しなく叩き、話を急かすようにその動きは段々早くなる。老人は気づかないようだったが、淀んだ瞳には憎しみの感情さえ、見えた。片手が、強く握り締められる。

「……ということなのですな。まあ、田所さんにはよろしく言っといてください」

 だが、そうこうしているうちに説明は終わった。拳を解いた辻堂は荒く、溜め息をつく。

「そうでしたか。お心遣い感謝します」

 丁寧に頭を下げて、足早にその場を去る。老人は少し傷ついたような顔をしていたが、真っ向から無視した。買い付けに来ていたのは嘘ではないし、ボロを出さない自信もあったのだが――それでも、離れたかった。

「……やはりこの村の人間は好かんね。いやはや、早いところ戻りたいものだよ」

 辻堂はちらりと後ろを振り返り、見間違いじゃないことを確かめる。

 後ろ向きに去ってゆく老人の頭には、鈍く光る二本の角があった。

「鬼の一族、か」

 吐き出すように忌々しげにその名称を呟き、足音も激しく辻堂は歩いていった。

 鬼。ポピュラーに過ぎる、昔話では大抵悪役を担う存在。けれど日本における鬼の元となる中国での鬼とは日陰の精霊であり、決して悪い存在として疎まれているわけではなかった。

 だがこと日本においては、鬼とは日陰者。実際には未開の山人さんじんたちのことを指していた例もあるらしいが、基本的には大江山の酒呑童子しゅてんどうじのように悪しきものとして認知されていることが多い。そしてここは、そうした鬼の一族が住まう村なのだ。外界とも結界により隔絶し、似ているようで独自の風習などが息づいた土地を守りつつ生きている。それは、人間とは違う生き物ということ。さっき会話している間も、辻堂は老人の目の奥でなにやら不気味な光が宿っていることを感じていた。

「もしかしたら、食われるところだったのかもしれんね。ああおそろしや、食べられるなんて体験は女の子からならどんと来いなのだが……私は相変わらずそういうことには縁が無いのだよなぁ……」

 緊迫した状況下にもかかわらず、辻堂は以前、大学のコンパで全敗したことを思い出した。

「そういえばあの時哀しみの八つ当たりで携帯電話を叩き割ってから、まだ買ってなかったのかね。誰かから、特にあのストーカーから連絡がきたりしないのは、助かるといえば助かるのだが」

 なんとなく溜め息をつく。それから気合を入れなおし、村はずれに向かって歩みを進める。懐中時計で時間を確かめながら。

「鍵、を手に入れなくてはならない。決起の時は近い、それまでには扉を開け放たなくては」

 ポケットに手を入れる辻堂。こつ、と指先に触れた硬いものを、急ぎ足で進みながら引っ張り出す。手の中にあったのは、細かい作業用と見えるポケットナイフ。刃を出してみると、きちんと手入れされているらしく鋭く研ぎ澄まされていた。

「これは脅しに使うとするかね」

 軽く投げて弄ぶナイフ。トランクの端からは、なんらかの術式で編まれたと見える、荒縄も飛び出していた。先のセリフと合わせて穏やかならざる空気が流れ始める。ただ、荒縄をつかむ手は、少し震えていた。

 はっと、乱れる指先を見やる。己でも気づかなかった恐れに気づいた辻堂は、その手で近くの木の幹を殴りつけた。拳頭から、血が滲み出すまで、幾度も。

「私は躊躇わない。例え、友を裏切るとしても」

 言葉尻をすぼめそうになる。再び、殴りつけた。今度は、震えが収まるまで。

「……躊躇わない」

 拳が痛む。言葉は、繰り返すほど薄くなるように思われたが、

「裏切る」

 繰り返さなければ震えは止まらなかった。


          *


「はあー」

 半纏の前を合わせながら白い吐息をひとつ。憂鬱そうな面持ちの沙羅は、自宅の引き戸をがらりと開けた。村の中で一番大きなその家は高台に位置し、見やる彼方には、昨日も宗一と話をしていた門の辺りが見える。

「もうすぐ儀式の時期なんよね」

 言葉にして、また大きく嘆息。昨夜のうちに降り積もったらしい雪を、ぎゅむぎゅむと踏みしめながら緩やかな坂を下る。止まると、つま先からじわじわと凍えてきそうだった。

「あたしを、選んでくれるんかな。宗一は、どう思ってんかな」

 考え事をしながら歩く。けれどその思考はここ最近ずっと続けては堂々巡りしてきたもので、つまりは袋小路であることがわかっていた。それでもその思考を続けてしまうのは――すなわち、どうにかして答えを、あるいは可能性を見出したいという思いがあったからに他ならない。

 儀式とは、宗一たち“仮面の一族”と沙羅たち“鬼の一族”の間で執り行われる婚礼行事のことだった。その儀式は三十年に一度、十六の齢に達した仮面の一族の男児を“選者”として、同年代の鬼の一族の女児から嫁を選ばせるというもの。何世代も前から続くこの儀式は、元来血族の力が弱く、ともすればその特異な能力を失い果ては血が途絶えてしまうかもしれない “仮面の一族”に強い血を引き入れるためのものだ。そうすることで、鬼の一族は仮面の一族を守ってきた。

 今年の儀式では、宗一が“選者”となる可能性がある。沙羅はそれが嬉しくもあり、怖くもあった。

「でもあの唐変木は、きっと気づいてない」

 不満を漏らして、近くの杉の木にその矛先を向ける。あー、もう! と怒鳴りながら、ふかふかした手袋をつけた拳を、太い幹に叩きつけた。よほど不満があったのかその一撃はそれなりに本気で、行動の結果は恐ろしいものとなる。

 ミヂイッ、と、束ねられた繊維が無理やりに千切られる音がした。

「きゃ」

 頭上から降ってきた雪が首筋に滑り込み、沙羅は悲鳴を上げながらしりもちをつく。その上にさらに落ちてくる、大量に枝に載っていた雪の塊。真っ白になった沙羅は余計に不満が溜まったらしく、腹立ちまぎれに今度は同じ箇所に蹴りを入れた。

 ギヂヂイッ、と、骨が軋んで砕けるような音がした。二度、三度とその音が繰り返される。荒い息をついた沙羅は、頭を振って雪と、目にかかった前髪を払う。それなりにすっきりした顔だった。

「……早くあいつのとこ行こ」

 不満をありったけ吐き出した沙羅は、坂を再び下り始める。


 その後ろで、破滅的な音を断続的に響かせながら、林の中で一本の杉の木が倒れた。数えていたら途中で面倒になりそうなほど年輪の多いそれは、荒く斧でも打ち込まれたかのような傷口を、雪山の中でさらしていた。



 村の中に降り立つと沙羅は、一直線に足跡を残しながら曲がり角のところにあるたばこ屋に寄る。外界では煙草一つ買うにも身分証が必要とのことだが、この閉鎖的な村にはそこまで近代化の波は押し寄せていないのだった。

「おばちゃん、えーと、マルなんたらって言う煙草ください」

「あんれまあ? 沙羅ちゃんとこのお父さん、吸う銘柄変えたのかえ?」

「えー、まあー」

 適当に受け答えして、買った箱を懐に入れて襟巻きを巻きなおす。ぱかぱかと吸ったらこの一箱などあっという間に無くなりそうだ、と思った沙羅は引き返してもう一箱くらい買っておこうかとも思ったが、身体に悪いからこれくらいでいいだろうと考え直して、村はずれに足を向けなおす。

 人通りの少ない道を選んで通るためか、足跡の無いまっさらな雪の積もった道を沙羅は歩けた。まだ誰も通っていない道を踏みしめるという実感は、どこか秘密の抜け道めいた楽しさを覚えさせられる。昼過ぎのためか、日に少し照らされてざらついた雪は、木陰で日光を避けられた雪とは違いざくざくとした感触を足に伝えてくる。

 しかし、角を曲がったところで誰かの足跡が既に通った道にぶつかる。

「?」

 その道はあまり村人は通らない道。この村では沙羅くらいしか利用しない、門の近くへ行くためのものだった。不審に思いつつも沙羅はゆっくりその道を上って行き、木陰に身を潜めながら先をうかがう。もしも村の人にここへ出入りしていることがバレたらと思うと、慎重に動かざるを得なかった。

 じっと、門のそばを木の陰から覗き見る。だがそこに何の人影も気配も無いことを感じ取り、沙羅は陰から身を出した。門の向こうには、宗一がやってくるはずだった。

「なんだったんかな、あの足跡」

 言いつつ、林から道に出ようとする。

 すると、首筋に悪寒が這った。道ばたで蛇を見かけた時と同じく、危険を察知した体がびくりと動く。だが振り向こうとする前に、バチン、と空気の弾ける音がして、沙羅は身体に電流が走ったことを知った。だが彼女は、スタンガンというものを、知らない。

 よろめいて傾いていく視界の中で、門の向こうに宗一の姿が見えた、気がしていた。


          *


 鬼と仮面の歴史は、冷たい隔たりの積み重ねだったと言っていい。

 宗一は家に帰っても仕方ない、と判じて、社に泊り込むことにしていた。広くは無い正方形のお堂の隅では、先ほど茂みから現れた彼女が、丸めた身体に宗一のどてらをかぶせられて眠っている。その横でロウソクの焔の灯りを頼りに、宗一は巻物の続きを読んでいた。

 軽く読んでは放り捨て、を繰り返し。宗一はあることにだけ注意して、それが無ければ他の巻物に移るようにしていた。注意していたこととは、その文献が仮面の一族の側からの視点で書かれているかどうか。今のところ、鬼の側から見た資料は見つかっていない。

「正当で公平な歴史書くらい残さんのか。まったく……」

 不平を漏らしながら、つらつらと読む。流し読みでも概要は頭に叩き込み、今まで見たものと脳内で照らし合わせて相違点を探す。日頃の業務で身についた技能が意外なところで役に立った、と苦笑しながら。しかし結局のところ、似たような情報が時代を変え筆者を変えしているだけで、溜まっていくのは仮面の一族からの負の想念についてばかりだった。

 もっとも古そうな巻物でさえ、鬼の一族への恨み言から始まっている。その徹底振りに、宗一はほとほと呆れ果てた。

「自分を顧みたりはせんのかね。”奴”を見習えとまでは言わんが、少しは自分に悪いところがないかと思わないのだろうか? 見方を変えてみないのかねぇ」

 昼、沙羅と会った時とは違う口調。素に戻った、と言いたげな顔で宗一はぱらぱらと次のものを読む。



 だが明け方まで読み漁ってわかったことは、確執の因は交流の中にあったすれ違いだということ程度だった。長々時間を使いすぎた、と宗一は白んできた空を眺めて、嘆く。窓の外では、もう起き出したのか村人が数人、どこかへと歩いていくのが見えていた。

「……だがもう仕方ない。村人の話を聞くに、決起とやらまで時間は無いようだしな……」

「ん、もう朝ですか?」

 横で起き上がる小さな影。宗一は彼女の額をぱしんと叩き、起き抜けの人間に命令を下した。

「すぐに昨日話したところへ行くのだ。今回は人数が多いから時間がかかるかもしれんしな、全員集まったら速攻叩け」

「えぇ? まだ朝ごはんも食べてないですのに?」

「木の根でもかじっていろ。私も行かねばならないのだ」

 どてらを上着に着込み、社の扉を開ける宗一。昇ってきた日の逆光がまぶしくて彼女は眼を細め、その影に問いかけを重ねる。

「何しに行くんです?」

 問いかけに振り返る人影は、肩をすくめて哀しそうに哂う。

「停戦申請だ。今時単なる恨みによる殺し合いなど、流行らんのだよ。ましてや、相手側には”こいつ”の友達が居るというのに」

 そうして自分の胸を指差し、宗一はまだ雪の残る地面へと降りた。


          *


 鬼の一族は頭に角があることを除けば人間と大差ない身なりをしている。が、その能力値はとても人間とは比べることが出来ない。

 まず第一に戦闘能力。生まれつきの単純な身体性能だけでも、武道を身に付けた人間、または銃火器を持った人間を軽く凌駕する。その身体能力の中でもさらに突出して高いのが、腕力や脚力である。全てを薙ぎ払う剛力は、大木を砕き岩を割る。安い武器では、その威力に耐え切れず武器の方が折れるほどだ。

 そして次に、魔術耐性。歴史的に触れることの少なかった西洋魔術はともかくとして、陰陽道や神道など日本に古くから伝わる術に対する耐性は非常に高い。新しく目にした術でさえも、子や孫の世代には通用しないよう耐性が作られるほどだ。

 ――鬼のような強さ、という比喩そのままに。戦闘というものと高い生命力に関しては、生まれながらに鬼の一族は恵まれている。ただそれゆえに、多くの迫害も受けた。こうして、村を『神隠し』の結界で覆い隠し山奥で暮らさなければならないほどに。近代化の波はどこにも等しく押し寄せているというのに、彼ら一族に限っては未だ、『迫害されている』という点では数百年の昔と変わらない生活だ。

「だがそんな鬼にも変革の時が来た。停滞した時を捨て、一族郎党滅びるという、な」

 拳に握ってもまだ余るほど長く太い鍵を手に、辻堂は笑った。その横ではぐったりとした沙羅が、全身を縛られたまま倒れこんでいる。その荒縄は特別な術式で編まれた捕縛用の品で、鬼である沙羅でも引き千切ることは出来ない。

 目には涙が浮かび、必死に声をあげんとする。小さな口には猿ぐつわがきつく食い込んでおり、ただただうめき声だけが漏れていく。声に反応してぐるりと首をそちらに向けた辻堂は、ぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべた。

「三百年。それほどの長きに渡って、お前たち一族はおれたちを苦しめてきた。機会さえあれば報復するのは、当然だろう」

 がちん、と鍵穴が合致する音がした。同時に、硝子がらすの割れるような凄まじい音が、塀の上を駆け巡る。長く保たれてきた結界が、それまでの生活が崩れ落ちてゆく音が、聞こえていた。沙羅はいっそう大きく身をよじる。辻堂は声に出し、笑っていた。仮面のように、冷たい笑顔を引きつらせて。

「『自縄自縛じじょうじばく』の結界。魔性の者を閉じ込めるネズミ捕り。これほど大規模に、一つの村落を囲むほどのものを三百年も持続させていたのは感嘆に値するがな。術式を地脈から吸い上げた魔力で補っていたことはわかっていた、あとは構成のために接地した『要石かなめいし』のくさびを、引っこ抜けばいい……四方の山の地脈を辿っていって、なんとか地穴ちけつを見つけたよ。だがなんとも強力な力で護られていたのでな、おかげで”仮面”の力を使わねば壊せなかった」

 結界の崩れる音は止まっていた。後に残ったのは、沙羅の村からの鐘楼の音。危険を知らせる、警告音――

 辻堂は格子戸の消えた門を悠々と通り過ぎた。諸手を広げて盛大に笑い、ただひたすらに報復の愉悦に浸る。

「さあ、全ては終わりだ。こっちの村人は皆、刺し違える覚悟で一人でも多く外へ出す気だ。わずかな人数でも、自由な外へと逃がせればいい。そいつらの未来が守れれば、な。……『神隠し』の結界は、出る時には障害とならないのだったろう? あの結界を抜けるための地図をくれたのも、この扉の鍵を手に入れられたのも、全てはお前のおかげだ。お前のおかげで、このおれの計画は、成就する」

 うつむいた沙羅。彼女を見下し、辻堂は嘲笑う。

 積み重ねられてきた日々は、積もり積もってきた過去により塗りつぶされた。沙羅の前にいるのはただ、一族のためのみに生きた、一人の人間。涙をこぼす沙羅。そんな彼女に、笑いながら歩を踏み出す辻堂。裏切り者としての言葉をかけようと、口を開いた。

 ところが。


「――っ死ねやぁぁぁっ!!」


 声は、門の上から響いた。次いで、ごつ、と頭がい骨同士がぶつかる音。門の上から落ちてきた宗一が落下の勢いにまかせて、辻堂に強烈な頭突きを食らわせていた。

「きっ、貴様はっ……」

 言い終える間もなく宗一は、帽子が落ちた頭を押さえる辻堂の襟元を掴み上げ、さらに額同士をぶつける。軽く血をにじませながら、宗一は猛獣のように鼻息を荒げた。呆気に取られる沙羅。辻堂は顔を上げ、怒りに満ちた表情を浮かべる。

 と、その顔に異変が起こる。様々な感情を凝縮したような形容しがたい顔をして――目鼻口の位置が、ずれる。耳がねじれ、額が波打つ。正視に耐えない、百面相を通り越した笑えない福笑い。顔の部分部分が、渦を巻いた。決定的に何かが軋む音がして、次の瞬間――辻堂の顔が、落ちた。

 否、それは仮面だった。奇妙に整い、そして片目が縫い潰されている。沙羅も見慣れた、宗一の、顔。

「私の身体を、返してもらおう」

 死んだ魚のような目をした宗一が、半笑いの表情で言う。すると仮面が、人魂の形に変わる。白い火のようなそれは糸で引かれるように宗一の身体へ向かい、また宗一の顔からも同じように、人魂が飛び出す。一瞬、人魂同士が交錯して、それぞれが『元の』身体に、収まった。

 しばしの沈黙の後、『本物の』辻堂が先に意識を取り戻す。顔をひたひたと手で押さえて、頭突きの衝撃でずれた眼鏡の位置を直す。落ちていた鴉のような帽子を拾い上げ、頭の上に載せた。続けて、疲れきった表情で渇いた笑い声をあげる。

「……くははは。私としたことが、こんな面倒ごとに巻き込まれるとは。いやはや、クラブの客引きとかには絶対引っかからんと自負していたつもりだったのだがね、まさか野郎に引っ掛けられるとは。末代までの恥というものだよ」

 すたすたと沙羅に歩み寄った辻堂は、ナイフを取り出して猿ぐつわと荒縄に刃を向ける。一瞬、術式により硬度が上がっていることに困ったようだったが、柄頭を押し込むと刃が光を放つ。次に刃を向けたときは、すぱりと術式ごと両断した。

「ぱとりしあの術に頼るのは癪だが、ね。ナイフに浄化魔術を掛けておいてもらって正解だったか――無事かね、お嬢さん」

 かたかたと、震える少女。その白い首筋に浅い切り傷が残っているのを見て、辻堂は途端に悲しそうな顔になる。自分の指先にあるナイフを見た。

「すまないね、お嬢さん。私に記憶が無いとはいえ、やったのは確かに私の身体だ。大方、そこの鍵を得るためにあの少年が脅したのだろうが……傷をつけて、申し訳ない」

「え……、いえ」

 慌てる沙羅の前に、悠然と立ち尽くす辻堂。暗い瞳を覆う眼鏡を外し、表面をハンカチでぬぐってから掛けなおす。ナイフは、橙色のコートのポケットに収める。無手で宗一の方に向き直った。ようやく立ち上がったところだった宗一は、視線に射すくめられて萎縮する。

「頭部に衝撃を与えれば『戻る』、と巻物に書いてあったが本当だったようだ。それと、これは経験からだが、なんの前触れもなくいきなり『戻される』と意識が混濁するようだな。まあ殴られる前に気構えがあるかそうでないか、というのと同じなのだろうがね」

 つかつかと歩み寄る辻堂。宗一はとっさの判断か、左半身になって拳をかかげ、戦闘体勢を取る。それを見てとると、双方の間に二メートルほどの間合いを残して、辻堂は近寄るのをやめた。宗一は尚も油断なく辻堂を睨みつけていたが、やがて漏れ聞こえた嘆息のために、ふと構えが緩む。

 辻堂は、声音を少し落として再度溜め息をついた。

「……おい少年。君のしでかしたことのために、これからここでは戦が起こるようだな。どのような形でも構わんがね、それに収拾をつけられるのか?」

 目を閉じ、眉間を指先でもみながら辻堂は問う。その声音は独特の響きをもって宗一の耳に届く。だがそれを無視して、宗一は声を荒げた。眼前の存在と、その問いかけを否定するために。

「収拾など、どちらかの殲滅でしか有り得んだろう」

 確信をもった主張が。凝り固まった思想に染め上げられた、行動指針が。宗一にそう返答させることに、いささかの躊躇ももたせなかった。沙羅はそれを聴いてうつむき、辻堂は目を開いた。その視線に力がこもり、ぎらつく感情が振りかざされる。

「クソガキがナマ言うな、ゼロ=サムゲーム気取りか馬鹿者。人の命は、貴様らの将棋版の駒ではない」

「人ではない。奴らは鬼だ。おれたちを狭い村の中に閉じ込め、時折その能力を利用するためだけに生かす、畜生にも劣る外道だよ。だからおれは運良く沙羅に近づいたことから、復讐のためにこいつを利用した」

 傷つける言葉を際限なく言い放つ。苦しそうに顔をゆがめる沙羅の様子に同情したのか、辻堂は言葉を重ねた。

「それだけか? 本当にそれだけのための――関係だったのかね?」

「……黙れ」

 言った辻堂の前で、宗一は硬直した。その言葉は、彼の中の琴線に触れたのだ。辻堂も、彼の空気が変わったことを敏感に察する。殺気が、ほとばしった。

 屈み込ませた身体を、一気に解放して宗一は飛びかかる。仮面の一族は鬼のような身体能力を持つわけではない。だが、いずれ来る決起の時のために鍛え上げられた宗一の身体は、一般人を引き裂くには十分な力を有していた。勘でその場から転がってあとずさった辻堂は、体勢を整えながら歯をむき出して、笑う。ポケットに手を入れた。

「私がただの一般人だと思ってるのかね。私が師より賜りし”蝿縄”の異称を持つ術、その符札がこれなのだが――」

「『それが虚言だと知ってる』ぞ、おれは」

 獰猛な肉食獣のように猛然と襲い掛かる宗一。辻堂は、はったりを言おうとしていたために対処が遅れる。

「! っな、」

 コートのポケットに手を入れたまま、辻堂はぶっ飛んだ。移動の推進力も載せた、水月を的確に狙った正拳突きの威力で、門柱に背中から激突する。肺から息を押し出され、辻堂の視界は明滅した。

「かっ、は……く、くそ……!」

 虚仮こけ脅しを言い放つ前に、辻堂の言動は封殺された。……”蝿縄”といえばこの国では知る者も多い凶悪な術だ。しかも、辻堂にはこのはったりを相手に警戒させるに足るある『秘密』がある。だというのに、宗一は臆せず拳を構えて笑い、とんとんと自分の頭を叩いてみせる。

「あんたのことはなんでも知っている。あんたと同じくらいに、な。身体を使う時に選んだ理由も、魔力量がやたら多いから名のある術士なのかと思ったからだったが。何の能力も無いとはね」

 そう。辻堂は魔力量が常人を遥かに凌駕していた。あいにくと諸事情あってそれを使いこなすトレーニングこそ積んでいないものの、初見でその圧倒的な魔力量と共に”蝿縄”の名を出されれば、ことこの国に限定していえば大抵の人間が警戒してくれる。その隙を突くことこそが、辻堂の唯一の手だったのだが。宗一は、なぜか迷いもなく突撃することを選択できた。

「……仮面の一族の能力は、自分の仮面を相手にかぶせて意識を乗っ取るだけじゃない。“鬼の一族 ”の連中の中では長い年月の間に間違った伝承が生まれてたようだが」

 宗一の視線を受けた沙羅は、びくりとすくんだが、言葉を探す。見れば、ダメージが大きい辻堂は、まだ立てないようだった。自分が話さなくてはならない、と奇妙な使命感に駆られて、沙羅は推測を口にした。

「仮面をかぶった相手になりすますんじゃ、ない……? なら、仮面をかぶせた相手、に」

「『成りすます』んじゃない、『成り代わる』んだよ」

 問題に答えられた生徒をほめるように、宗一は沙羅の言葉に続けた。辻堂は、背中を門柱にすりつけながら、なんとか立ち上がって会話に入る。

「……悪趣味な、ことだな。記憶を、のぞき見るのかね」

 封じられた左眼の傷痕を引きつらせながら、宗一はくははは、と笑ってみせた。それはさっきの辻堂の笑い方とそっくりで、何もかも違う他人がそれを行ってみせるというのはあまりにも不気味だった。歪んだ鏡を見ているようだ。

「覗くというのも適しとらんさ。そっくりそのまま、記憶を頭に写すんだよ。その個人が所有する能力も自由自在に使える。もっとも、その間おれの身体に入れられたあんたの魂には、おれの記憶は見せんがな。ただ、この能力にも副作用があって、それがおれたち一族を短命にし、鬼の連中を娶らなくちゃならん理由になってるんだが」

「他者の記憶を見るから……他人に成り代わるん、から……自分との境目が、わからなくなるんかな」

「その通りだよ」

 心が人間の全てだというなら、その心を作るのは日々の積み重なり、すなわち記憶となる。ひとつの心の中に複数の人間の記憶を混ぜてしまうというのは、その個性の垣根を低くしてしまうということだ。しかも、意識を移して違う体で動いている。身体は自分でなく記憶も自分で無いものがある、ならばどこまでが自分だと言い切れるのか。

「哲学を気取るつもりはないんだが、自分と他人の境界線なんてそう大きなものじゃないのだ。人間は共感を持てることが大事というが、共感というのは、他人になることだろう?」

 徐々に辻堂と似た口調になってゆく宗一。睨み返すように、辻堂は顔を上げる。

「違うな……。共感を持ち、そこから自分なら何を出来るか、を考えることが、大事なのだ。他人に出来ることは、誰にでも出来るのだから」

 胸を押さえつつ、辻堂は言う。苛立ったように舌打ちする宗一は、詰め寄ってもうその腹部に一撃加えようとした。

 その腕を、横から沙羅がつかんで止める。いかに鍛えた肉体を持つ宗一であっても、優れた肉体を持つ沙羅には敵わない。

「離せ」

「だめ。この人は、関係、ないと思うん……でも、あたしもわかっとるのん、宗一……そっちのみんなが、あたしら鬼を恨んでることは……」

「なら皆がこの門を越えて向かう時には、止めないでくれないか」

「それは……」

「どちらもだめか。ならばおれも、どちらも否と答えよう」

 口ごもる沙羅。手首をつかむ力が緩む。宗一は腕を内側へ巻き込むようにして制止をふりほどき、弓を引くように拳を構える。だが辻堂の視線は揺るがない。拳が頬に叩き込まれ、後頭部を門柱にぶつけても、まばたき一つしない。ひびの入った眼鏡の奥から冷静にこちらを見据える瞳に、宗一は怖気を抱いた。さっき、辻堂が歩み寄ってきた時に、とっさに構えをとってしまった時のように。

 その宗一の手首を、今度は強く、握りつぶすように沙羅が捕らえる。涙を流す沙羅の顔を見て、なぜか宗一は気だるそうに、しかし愉悦の入り混じった表情を浮かべた。その顔を見て、辻堂はふと思い当たる。

「……お前、最初から、殺して……殺される気、だったのだな」

 切れ切れに、腫れ始めた頬を動かして辻堂は呟いた。宗一の顔が、一瞬のうちに凍りつく。

「何を言ってる?」

 その言葉は自身の動揺を相手に伝えてしまうものだった。辻堂は得心した顔で切れた唇の血を舐めとり、言葉を繋ぐ。

「100か0か。いや、白か黒か、としておくかね。一族の思いにもわかるところがあり、そして……その沙羅のことも、大事だった。だが選べない。それゆえ……一族の責務を果たしたあとは、戦いの中で死ぬ気、だったのだな」

 断定的な言葉に、宗一は頬を引きつらせる。

「違う。おれは、ただ恨みのためのみにやったのだ」

「そう主張するならそうなのかもしれないな。が、死して責任をとり……死して自分が鬼を殺さないようにする。そう考えていたのだとしたら貴様はとんだ、偽悪かぶりだ。自己満足で、お前以外の誰の何が、満たされるのだね? この流れに救われるものなど、いないじゃないか。誰も、望んでなどいない。ただ、長い年月の間に、作られた、意地が、あるだけだ」

 ぐったりと、腕は力を無くし。沙羅につかまれたまま落ちていく。そうしてうなだれた。辻堂はかぶりを振って続ける。

「そうして築いた先に、何がある? 運良く逃げ切れた者がいたとしても、いくつもの犠牲の上に明るく生きていけるのかね。鬼も身勝手だったが、お前らも身勝手には変わり無いのだよ」

「ちがう。違うッ……! 身勝手などではない、皆が望んですることだ! おまえに、おまえごときに否定される謂われは無い!」

「止められない。いや、止めようとしない。だから望んで行うことだと自らにうそぶいたな。既に死した者達の意向を変えることは、出来ないから。積み重なってしまったものを、自らの上からどかせずにいるのだ」

「馬鹿な……おれたちは自由なんだ。自由意志の下に、この戦いを選んだんだ! 自分達の、逃がした奴らの未来を護っていくために!」

 今まですがってきた考えに固執し、宗一は耳を傾けない。頑なに拒むその表情はどこまでも変わらず、薄い面のように宗一の震える体を覆い隠す。辻堂は嘆息と共に言葉を吐き出す。その薄い面を、叩き割るように激しい、言の葉を。


「逃がした奴らの未来を守る? なんだねそれは。それは、鬼の一族が身勝手にお前ら仮面の一族を庇護下に置いたことと、なんら変わり無いだろう」


 震えが、泊まった。自分の顔から手を離した宗一は、己の手を、そして横にいた沙羅の顔を、交互に見比べる。

「そ、んな……」

 仮面をかぶり続け、他人になった少年は。

 その硬い頬に、一筋の涙を流していた。

「宗一」

 横から手を取っていた沙羅が呼びかける。宗一は、ぐしゃりと顔を歪めた。

「でも、どうしたらいい!? もう事は動き出してしまった、今さら何も、何も!」

「考えなしに動くからだ、馬鹿者。浅慮の致すところは、恥と後悔しか残らんのだよ」

 けっ、と呆れ果てた表情で辻堂は言う。何も返す言葉の無い宗一は、ただただ俯いて自分の過ちに沈み込む。

「貴様それで自分が死んだ後に一族同士がぶつかり合い、その子も死んだらどうするつもりなのかね。点数をつけるならマイナス五十点だ、まず答案に名前を書くところから始めるのだな」

 遠慮容赦の無い辻堂の悪口雑言にも、顔を上げることすら出来ない。宗一は沙羅に抱きとめられ、ぼろぼろと泣き崩れていた。さすがにこれ以上は何も言えず、辻堂はポケットから取り出したウイスキーを一口含んで、口の端に流れた血と一緒に手の甲で拭き取る。少しだけ舌の滑りが良くなる。

「……まったく、巻き込まれた人間が私でよかったな。そうでなければ今頃ここは血の海なのだよ」

 沙羅が辻堂の言葉に顔を上げる。辻堂は、なんとも皮肉ったような笑みを浮かべて答えてみせる。

「結界が崩れてだいぶ経つが、なぜまだ仮面の一族はここへ押し寄せてこないのかね?」

 答えは、わりと早くにやってきた。

「堂さーん」

 とたとたと丘を登ってくる小さな影。子供っぽく、片側の前髪をまとめて上げて結っている。タートルネックでノースリーブの、黒いタイトなシャツと、短パン。太いベルトの後ろには、二本のトンファーらしきものが引っかかっていた。

 大きなどんぐりまなこをぱちぱちさせながら現れた少女は、やけに親しげに辻堂に話しかける。二人が横に並ぶとかなり身長差があって、アンバランスだった。

「その微妙な呼び方はやめろと何度か言ったはずだがね。おまえさんの鳥頭は覚えてないのか」

「ひどいですねぇ。堂さんのためにわたし、こんなに頑張ったっていうのに」

「何度教えても鬼の方に勝負しかけようとする戦闘狂(バーサーカー)殺人狂楽師バトルマニアを制御しようと試みた私の方がよほど疲れたわ。というか千影ちかげ、おまえさん昨晩あの社で会ったとき、私の居場所をテレパシーで探ったとか言っていたが」

「ええはい。正に愛の力ってな奴ですよー」

 にこにこと笑って辻堂の手を両手で握る千影。ぶんぶんと上下に振り回し、次いでぐるぐるぐるとダンスのように円を描いて回り始める。奇妙な感情表現に辻堂は、ぱかんと頭を殴って返した。

「おいこの嘘つきストーカーめが。私にGPS携帯を持たせていたのだな? さっきコートの後ろポケットでぶっ壊れた感触で気づいたが」

「あちゃ、気づかれましたか。前にコンパで負けて八つ当たりで壊したって聞いたときに、ちょうど手元にあったのでなんとなくやってみたですハイ。堂さんのポケット、大抵ごちゃごちゃしてますですから気づかないだろーなー、と。おかげで堂さんのとこ目がけて飛んでこれたですよ」

 悪びれた風でもない千影にはもう一度頭をはたいて叱り、辻堂は振り返り鬼の少女と仮面の少年を見やった。

「ああ、腹立つ…………で、あー。少年、お嬢さん。こいつは倉内千影くらうちちかげというのだが、こいつが仮面の一族を全員捕縛した。多少当身くらいは食らっているかもしれんが、基本無傷のはずなのだよ」

 沙羅と宗一がぽかんとした顔をする。辻堂は帽子を脱いで頭を掻きながら、続ける。

「戦いはナシだ。ここからは中立の立場で私とこいつ、それとあと何人か来るかもしれんが……ともかく、そいつらとでここにおける鬼と仮面の関係性を正してゆこうと思う。何か言うことは、あるかね?」


          *


 三日後。村はずれの茶屋で、辻堂は千影と向き合っていた。餡蜜を頬張り笑みをこぼす千影とは対照的に、辻堂は不機嫌そうな顔で珈琲ゼリーをすくっている。視線の先には千影の鋼鉄製トンファーがあり、血のシミがついたそれを見ていると辻堂の食欲は果てなく薄れていくのだった。

「いつになったら帰れるんですー?」

 ふと、口元をおしぼりで拭いつつ千影が話しかける。顔をしかめた辻堂は、まず机の下を指差した。

「机の下で足をぶらぶらさせるな、私のスネに当たっているぞ。…………会議は難航だ。何世代にも渡る確執を、そうそう簡単に片付けることは出来んのだよ。だが、葛葉さんに連絡して宿屋から裏業界に働きかけてもらった。今日の夕方には二階堂にかいどう幸徳井こうとくい土御門つちみかどなどこの国の裏業界から人間が来るから、私はお役ゴメンだ。表面上だけならば、年明けには片付くだろう」

「じゃあ深夜列車で帰りましょ。もちろん寝台列車でもいいですけど、その場合は一緒に寝てくれるとありがたく思いますです」

「んなことしたら捕まるわ。おまえさん確かまだ十五歳だろう」

「あれ? あれれ? 堂さん、ロリコンさんなんじゃなかったですか?」

 ぴし、とスプーンが音を立てて割れた。だが、辻堂が持っているのはプラスチックのスプーンなので別段驚くほどのことでもなかった。

「……誰に聞いたのだね」

「白藤さんに」

「あの色ボケ。今度宿屋内でワックスがけを敢行してべたつく身体を持て余させてやる」

「で、真実なんですか。それならやっぱりわたしのことも狙ってますですか。六歳も離れてるけど、わたしはいいですよ」

「期待を込めた目で見るな。アレはな、キャラだキャラ」

 えー、と落胆の声をあげる千影。辻堂はいっそう不機嫌になって、新しいスプーンで珈琲ゼリーを細かく砕く。既に餡蜜を食べ終えた千影は、机にべたりと伏せって辻堂を見上げる。

「じゃあどんな女の子がタイプなんです?」

「料理上手で気立てが良くて勉学も優秀で性格もよく、それでいて胸のある銀髪の女の子、が、好きだった」

「……失恋経験ありましたですか」

「そうだと肯定したら慰めてくれるのかね?」

 いささか驚いたような千影を尻目に飲み下すようにゼリーを口に入れ、辻堂は立ち上がる。がま口財布の中を見て、千影の餡蜜の代金も支払った。何枚かの紙幣を数え、宿屋に帰るために必要なチケット代を計算し始める。そこで、トンファーをがちゃがちゃと腰に納めて立ち上がろうとしていた千影を睨んだ。

「というかだな千影、スルーしていたがおまえさんの帰る先は宿屋ではなく自宅だろう。たまにはちゃんと帰らんかね」

 のれんをくぐりながら、千影は露骨に嫌そうな顔をする。そして、お父さんが臭いんですもん、とお決まりのセリフを吐いた。

「あ、そーだ。堂さん、堂さんとわたしが結婚すれば、帰る先は宿屋でも『自宅』になりますですハイ。年齢足りないから事実婚でいいです、結婚しましょ」

「譲歩になってないのだがね……おまえさん、最近宿屋に入り浸りすぎだぞ。しかも白藤から話を聞きだしたりして、私のプライベートはどこにいったのだね」

 コートの前を合わせて、雪の積もった中を歩く。後ろからついてくる千影は、下こそ短パンのままだったが、上には灰色のマントを羽織っていた。ざくざく、さくさくと足元で音が鳴る。

「白藤さんから他にも色々聞いてるですよ。ふふふー、わたしたち、秘密の共有をしてますですね」

「それは共有ではない。秘密の搾取をやめてほしいんだがね」

「ここでひとつ、秘密の暴露大会〜。堂さん、本当はかなり質のいい魔力を持ってます。魔術への変換効率は常人の三倍近くで、量も五倍はあるです。しかも、『構成理解』という、術式の分岐や派生を辿たどり元となる術を見破る、術式破りのマスタークラスしか持ってないような能力もありますです。……なのに、堂さんは魔術をひとつも身に付けない。自衛の手段すら持たないです。これは、なんでです?」

「ハッ。答える必要が――」

 足を止めて振り返った辻堂は、けれど黙らざるを得なかった。後ろをついてきていた少女は、険しい目つきで自分を見ていたからだ。

 冷たい視線にさらされて、胸がずきりと痛む。三日前、宗一に水月を殴られたために、まだ身体の内側で気の流れが乱れていた。背中も、門柱に叩きつけられた時にひどい打ち身になっている。頬骨もひびが入っており、腫れているのでガーゼを当てていた。まだ、硬いものを食べられない。

 ふっと、視線の圧力が緩む。やわやわと圧力は薄れていき、千影の目は穏やかになっていった。さらに、穏やかさを通り越して、悲しそうになっていく。

「ぼろぼろです。身を守る手がないせいで、堂さんは荒事に巻き込まれた時、いつも危険にさらされます。どうして、力を持たないですか? わたしみたいに殺すばかり、戦うばかりの人間になりたくないからですか」

 無言で辻堂は首を横に振った。くるりと背を向け、歩き出す。

 問いすがるようなマネは出来ず、千影はそのあとを追った。



 道なりに進んでいくと、着いたのは門の前だった。ただ門を開けるためだけでない、結界の術式自体を破綻させるための『鍵』を使われたために、そこの行き来は今や自由となっている。もっとも、まだ会議の中途であるため、行き来するような人間はいないのだが。

 そこには、門を挟んで話をしている二人がいた。

「見ろ」

 千影の肩に手を置き、辻堂は言う。こしこしと目をこすって、千影は二人を見た。

「色々あったが、あの二人は歩み寄りを始めることが出来ているのだ。それも、ずっと前からな」

「はあ」

 気の無い返事をする千影。辻堂はそんな彼女の頭をつかんで、ぐりんと自分の方を向かせた。見下ろす辻堂はいつも通りの暗い目をしているが、どこか暖かな温度を感じさせる。たまに、辻堂はそんな目で千影を見るのだ。他の人には一切見せない目。

「無論、戦う力は必要な時もある。どうあっても言葉だけ、誠心誠意だけ、では通じないこともある。しかし、私が力を持つ必要はあるのかね? 必然性は無い。なにより、いかに誠心誠意を見せようとこちらが言っても、その背後でいざという時のため拳銃を構えていたら、話し合いにならん。私は話し合うために、まず武器を捨てることとしたのだ。……『奴』も常々言っていた。力しか、それも中途半端な力しか無い自分は、周りを傷つけるしかできない。それが自分の“絶対為る真理”なのだと」

 遠い目をする辻堂。視線の先に居るのが誰なのか、千影もなんとなくわかる。時折宿屋の面々が話題に上らせる、とある人物。その影を頭から振り払って、辻堂の手も頭から払いのける。語調を強めて、千影は問いただす。

「それは、美しい綺麗事です。でもそれで死んだらどうするんですか」

「ん? いざという時のため、脱出用の符札術式は懐に入れてあるがね」

 用意周到な辻堂に、千影は舌を巻いた。

「柊から仕入れた空間転移用の符札だ。まあ、それが実のところ馬鹿みたいに高いのだが、安全のためには文句を言えん」

「いくらです?」

「七桁弱」

 呆れた顔をして千影は脱力する。にやりと笑みを浮かべる辻堂は、腰に手を当て再び門の方向を向いた。

「圧倒的な力でもこうした問題は解決できるのだろうがね。どんな程度であっても、殴り合えば恨みは残る。それはダメだ。私は誰とも和を以って接したいと願うし、恨まれたくなどない。それに、ほら」

 こちらに気づいたらしい沙羅が、頭を下げていた。宗一の方は微妙に逡巡したようだったが、結局沙羅にならって少しだけ頭を下げる。いつになく快活に笑って、辻堂はその光景を瞳に焼き付ける。自己満足の偽善と知ってなお、辻堂にはこの光景が喜ばしい。千影の方は、以前の自分の姿と今の沙羅たちの姿が重なった。

「……こうやって、わたしみたいな人間を増やしてるんですね」

「なにか言ったかね?」

「堂さん好き好き愛してる、と言いましたですハイ」

 つんとすました、らしくもない態度に辻堂は首をかしげる。けれど深くは考えないことにして、千影の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 千影はなされるがまま、頭を辻堂の腕にもたせかけた。

「でも、その考え方はいいですけど、ぼろぼろの堂さんは見たくないです。だから、これからはわたしのこと、ストーカーだからってあんまり邪険に扱わないでほしいです。わたしの力、堂さんの分も、堂さんと自分を守るために使いますですから」

「そりゃあ地球に優しいことだな」

 頭においた手で、ぐりぐりと撫で回す。千影は日向の猫のような顔をして、なされるがままにしていた。


          *


 宿屋の自室で今回の一件を調書にまとめていた辻堂は、ふうと溜め息をついて肩を回した。宿屋主人の葛葉は細かいところがあるので、調書もきっちり書かねばならないからだ。疲れた目元を押さえつつふすまを開けて廊下に出ると、冷えた空気が首筋を撫でる。時刻も深夜を回っているためか、他に誰か起きている気配は無い。

 窓の縁に手をついて空を見る。闇が支配する夜天に、ぽかりと穴のように座す月がひとつ。

 眼鏡を外し、着物の袂から取り出した手ぬぐいで拭う。ふと、そのレンズに月光に射すくめられた影が映っているのを見た。自分の横、廊下の薄闇をかぶったそちらには目を向けず、眼鏡をかけなおす。少しだけの親愛と、多めに含んだ嘲りとで、笑みを作りながら。

「互いに、因果な生き方なものだな」

 廊下の向こうの影に肩をすくめてみせる。影の気配も、軽く笑んだように辻堂は感じた。

「かたや誰も殺さず生きることを選び、かたや誰をも傷つけることを選び。いやはや、傷つける生き方というのは面倒なものだよ? 私の言葉は、少なからず相手の心を抉りつける。結果、私がこのように傷つく結末も、しょうがないのかもしれんね。ただ、そうすると哀しむ人間も居るらしい。ならば自分が傷つかない結末をも考えねばならず、難易度は上がる一方だ……そこ、何笑ってる。私は真剣だぞ」

 空気を震わす笑い声に、辻堂は投げやりながらも反抗しておいた。

 辻堂自身、わかってはいる。彼には、反抗できるほどの真剣さはあっても、真面目さは無い。なぜなら辻堂の描く理想像は”話し合い”という甘すぎる考えであり、その理想を貫ききれずに何度か暴力に頼ることにもなっているからだ。真剣に理想を追ってはいても、その理想(ルール)に反してしまう不真面目さも、捨て切れていない。

 その暴力という手段として千影や宿屋の仲間を扱うことになってしまうことに、いささかの心苦しさも覚えている。もちろん皆に純粋に力を貸したいと思わせるだけの人徳が辻堂にはあり、そして辻堂に傷ついてほしくないが故の結果なのだが。

 彼はそこに満足しない。現行よりもなおスマートに現状を打破する。

「”お前の繰言くりごとは全て譫言うわごとだ。譫言は寝て言え、絵空言えそらごとは寝て聞け”我が師にもそう言われた。けれど、私は案外気に入っているのだよ、この生き方を。強がりなのかもしれんが、それならそれで死ぬまで貫こう、と思える程度には」

 程度と言っても、それこそ気休め程度だが、と付け足して、辻堂は苦笑いした。その生き方を貫こうと思う意志は、彼と同じ。影の気配は今度は動かない。反応が無いという反応に気づき、辻堂は半回転して窓の縁に腰掛けると、腕組みして影に問う。にやにやと、いつもの笑い顔で。闇色の目が面白がるように、喜色を含む。

「おまえは、どうだ?」

 適当な質問。確認作業のように。


「ちゃんと、生きてるか?」








          +




 登場人物紹介的なもの


 辻堂。あくまでも名字名前合わせてこれ。実はこの名前にはとても意味がある。

 才能の塊。一軍率いて軍師になれる器。だが本人はそんなこと興味ない。

 宿屋の対外折衝役見習い。川澄源一郎の下、色々教えてもらっている。その際、魔力量とその質の高さ、及び将棋で培った先読みの力を逆ベクトルに使うことで得られる『構成理解』の能力を見出される。しかし本人はそんなこと興味ない。

 裏業界に来てからトラブルに巻き込まれる体質が発現。巻き込まれる度に人助けをしており、そ知らぬうちに人望は厚くなってきている。――ただし、友情レベル。恋だの愛だのは無い。あくまでも友情レベル。大事なことなので二回言いました。

 御歳二十一。大学にもいまだ通っている。日常と非日常の狭間で漂う、世迷言遣い。繰言を譫言へ譫言を絵空言へと昇華することが出来るようになるのは、まだ先。

 ……それと、この短編中で言ってる”キャラを揺るがす一言”については、宿屋本編十八のラスト~十九頁目あたりを読むとなんとなくわかるかもしれません。己が無力を知るが故、それが辻堂の強みだったのです。


 倉内千影。戦闘狂の殺人狂楽師。隔世遺伝で人外の血(おそらく猫)に目覚めた。

 十二歳くらいからその力を自覚、衝動に突き動かされ月一で人を襲い血を喰らう。

 ひょんなことからその現場を辻堂に見咎められ、襲撃。しかし買い物中だったので荷物運びに同行していた柊に鋼糸で拘束される。辻堂は特に気にした風でもなく、簀巻き状態の千影を宿屋へとお持ち帰り。その後は衝動を抑える術を学び、どうしてもやばい時のために姫からマフラーを受け取って、どこかへ消えた。

 と思いきや辻堂のストーカーになっていた。おとうさんみたいに思っているようだ。『堂さん』も聞きようによっては『父さん』に聞こえる。ただ、辻堂は甘い夢を見ないようにしているので、その好意の方向性にも気づいているようだ。

 学校は行ってない。トンファーは仕込みのナイフが付いてるが今は封印中。右が《歩知》で左が《椀子》。辻堂命名。



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[良い点] 倉内千影って百奇夜行で鬼天烈な。にも出てくる人か蓮向と並んでどんな異能か気になっていました。辻堂の雪先も結構意外なものだったかも。世界観同じな作品はこういう小さな繋がりが楽しい。
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