070 異世界と日常
朝日が昇り始めたころ、宿屋の裏にある井戸から水を汲んで寝ぼけた顔を洗う。
井戸水の冷たさがぼやけた思考を一気に覚醒させてくれる。
異世界に転移して、夢にまで見たストレートヘアーを手に入れた俺は、腰ほどまでに伸びた髪の手入れも日課になっている。手入れと言っても軽く梳かしてまとめるだけだが。
現在、この国は夏真っ只中ということらしいが、元の世界のようなうだるような暑さはない。
日本よりも緯度が高いのか、それとも温暖化が進んでいないためなのかは分からない。後者なら少し複雑だ。
空に昇る太陽は元の世界とは変わらないようだが、肌を刺すような熱射が降り注ぐことも無いのでこの国の夏は快適だ。
ちなみにこの世界には月がない。夜になると星はまばらに見えるが、現代的な街明かりがないことを思えばその数は極端に少ない気がする。
それもあってか夜はことさら暗く感じる。
ただ空には月自体はないが、月という言葉は存在するらしい。
大昔には月も在ったということなのだろうか。存在した衛星がなくなると環境に大きな影響が出ると思うのだが、まあスキルや魔術のある世界だし俺たちが与り知らないこともあるのだろう。
部屋に戻ると先に自分の身支度を軽く整えて、まだ布団から出てこない三嶋と矢早銀を起こしにかかる。
二人とも朝が弱くて起きるまでに時間がかかるのだが、理由は異なる。
矢早銀は朝は低血圧らしくしばらくはベッドから起きられずにいる。
機嫌が悪いとかはないのが幸いではあるが、怒る気力もないくらいフラフラしているだけらしいので逆に心配でもある。
三嶋は単純に夜更かしの代償だ。毎晩遅くまでスキル『生産者』でいろいろ作っている。
まあ『生産者』はかなり有用なスキルなので、さらに使いこなせるようになるための練習になっているなら言うことはない。
もともとモノづくりが好きだったようで、宿の傷んできた家具なんかの修理まで請け負っている。
ただし有用すぎる『生産者』をあまり大っぴらにしない方が良いだろうと、普通に手作業で修理している。それでも構造を把握したり材質の感触を確かめたりと、その経験はスキルを使うときの感覚の助けになるそうだ。
「おーい、二人ともそろそろ起きろよ」
「んmm……。母さん、あと5分……」
「ダメだ。母さん寝坊は許しませんよー」
「母さん、着替え取って……」
「はいはい、ほらさっさと起きて着替えた着替えた」
寝ぼける三嶋に着替えを手渡すと、ゆっくりと身体を起こして眠気眼のまま着替え始める。
この朝の茶番も日常になりつつある。二人ともまだ未成年だというのにいきなり家族と別れて異世界で暮らすことになったのだ。少しくらい甘やかしてやっても良いだろう。
「うぅぅ。お母さん、頭痛い。病気みたいだから今日は学校休むわね」
「その頭痛はたぶん低血圧のせいだから取り合えず起きてみような。あと学校は休んで良いけど生徒の捜索には行こうな」
「お母さん。着替えさせて……」
「悪いがさすがにそれは自分で着替えてくれ。ほら三嶋もいったん部屋の外に出るぞ。矢早銀、二度寝せずに着替えてくるんだぞ」
多少時間はかかったが二人の身支度も終わって食堂で朝食をとる。
今日のメニューはパンと腸詰の入った野菜スープだ。
パンは宿屋の店主がもともとパン屋だったらしく毎朝焼きたてを提供してくれる。焼きたての香ばしさと野菜の甘みが溶け込んだスープがよく合っている。
「それで今日はどのあたりを探しに行くんですか?」
「ああ、それもなんだが今日は助っ人を頼んでいてな」
俺たちがこの街――サウールに来た理由は学園から失踪した生徒たちの捜索のためだ。
生活費のために数日に一度は冒険者の依頼を受けないといけないのだが、基本的には朝に捜索範囲を決めて日中をかけて捜索を行っている。まあ成果は芳しくないのだが。
街とは言っても元の世界の市町村をいくつかまとめたくらいの大きさがあるので、街の端から端に移動するだけでも数時間かかる。
普段は生徒二人を連れていることもあって出来るだけ治安の良い地区を捜索しているが、もちろんそれ以外の、治安の良くない地区に生徒がいる可能性もある。
そこでこの世界の住人で腕っぷしも強い知り合いに手伝いを頼むことにしたわけだ。
「久しぶりだなあんちゃん。そっちの二人も元気そうで何よりだ」
豪快な挨拶で現れたのは頭に大きな角を二つ生やした薄花色の大男――ヴォルフガングだ。
片手を失ってはいるが背丈ほどある大斧を軽々と背に携えた筋骨隆々とした体躯は、そのハンデキャップを気振りも見せない。
「そっちも元気そうだな。今日は手伝ってもらってありがとうな」
「ガハハハ、良いってことよ。あんちゃん達の頼みなら喜んで手伝ってやるぜ」
「ウォルフの言う通りよ。先日の件もそうだけれど、いつもノエルの修行も見てもらっているのだから。こちらこそいつもありがとうね」
穏やかな口調で礼を返したのは、薄い金髪に綺麗な白色の角を生やしたエリアーヌだ。
片目に眼帯を嵌めているが、それがどこかミステリアスな魅力を放っている。
「挨拶はその辺にして。ナナエ、今日の詳細を聞いてもいいか?」
二人の間からちょこんと出てきたノエルが鈴を転がすような声で割って入る。
長身のヴォルフガングとエリアーヌと比べると本当に子供のようだ。
「生徒の捜索を手伝ってほしいとは聞いていたが、詳細はそろったときに話すと言っていたからな」
「ああ。手伝ってもらうのにも、直接説明しておいた方が良いと思ってな。まず、俺達はこちらの世界で言うところの漂流者なんだ――」
俺は初めてこっちの世界の住人に自分たちの身の上を説明する。
この世界にとっては漂流者とは有用なスキルを持ち、過去には国家の趨勢すら左右したと伝えられている。そんな背景から俺たちの素性はできるだけ周囲には話さないようにしている。
だがそのままでは捜索にも限界がある。だからこそ、先日からの一件で信頼できると判断したノエルたちに話すことにしたのだ。