062 奴隷2
倒れこんだ私と黒髪の青年の視線が交わされていたのは少しの時間だった。
直ぐに奴隷商人が黒髪の青年を押しのける。
「あんた一体なんだ?」
「ふむ。吾輩は正義という」
「あぁ?」
「おっと勘違いしないでもらいたいのだが、盲目的に崇拝される社会的な観念のことではないぞ。ただ単に吾輩が両親にそう名付けられたというだけなのだ」
怪訝な表情をする奴隷商人に、青年が慣れた口調で弁明する。
「ところでそちらは何者なのだ?」
「あ? まあいい。俺は奴隷商でそれはさっき仕入れた商品だ」
「なるほど、奴隷商であるか……。この国では奴隷が認められているのだな」
青年が今度は奴隷商人を興味深げに観察します。
それにしても青年の住んでいた国には奴隷がいないようです。そんな国があるなんて、私は聞いたこともありません。
(何なんだこいつ。妙な服装だが、生地は上等そうだな。貴族ってことはなさそうだが、知識も偏ってそうだしどこかの良家のお坊ちゃんってとこか。金になりそうな感じもするがそれ以上に厄介な感じもしやがる)
奴隷商人の思考が聞こえました。
奴隷商人が値踏みするように青年を下から上まで視線を動かします。
たしかに青年は見たこともない服を着ています。話し方も少し独特ですし、よほど遠い土地から来たのでしょうか?
「それでは、そこの商品とやらを吾輩が購入することは可能か?」
「あん? そりゃあ金次第だな」
「これでは代金にならぬか?」
青年が懐から何やら取り出します。
掌に収まるくらいの大きさのそれは金色の丸い形で、表面には目を見張るほどの意匠が施されています。
青年がカイチュウドケイだと説明していますが、奴隷商人にも私にも馴染のない言葉でした。
(細工は王都でもそうは見られない一級品だな。何かの道具らしいが、金としての価値だけでもそれなりにはなりそうだ。こっちの奴隷はちょっと気になって仕入れはしたが、欠損もあって大した売りにはならないだろうしな。この旦那は奴隷の価格もわかってなさそうだし、奴隷の管理費が嵩む前に想定以上の値段で売り払えるのは僥倖だな)
「良いだろう。それとこの奴隷で売買成立だ」
「ふむ。奴隷商殿も商人であるなら利益を出そうと思考を巡らせたのだろうが、まだ足りぬな」
快諾する様子の奴隷商人に、しかし青年は待ったをかけます。
「一度きりの取引で最大の利益を出すのも一手ではあるがな。ここで吾輩と適正な取引をして信頼を得ておけば、今後の利益にもつながるかもしれないぞ。そこらの商人ではその見極めは難しいかもしれないが、奴隷商殿ならわかるのではないか? 奴隷商殿は自分の真贋をもっと信じるべきだと、吾輩は思うぞ」
青年がなにやら確信をもって話します。
ぐぬぬっと奴隷商人がすこし顔を顰めました。なにか心当たりを突かれたのかもしれません。
「――っち、わかったわかった。まあ適正価格でも俺が損をするわけじゃないからな。だが、奴隷商人相手に見得をきったんだ。そのまま何事もなくとはいかねえぞ」
「ふむ。ご期待には添えるだろうと思うぞ。それで、この懐中時計とならどのくらいの奴隷と取引できるのだ?」
「そうだな。そいつは含めていいのか?」
「もちろんだ」
奴隷商人が私を指し、青年が首を縦に振ります。
どうやら私の売られ先は決まったようです。
「ならあとは……。上級奴隷なら1人、下級奴隷なら10人ってところだな」
「ふむ、そんなものか。もちろんどの奴隷にするかは吾輩が見て選んでも良いのだよな?」
「好きにしてくれ。それじゃあそいつを連れてついてきてくれ」
奴隷商が持っていたロープを青年に手渡します。
受け取った青年が倒れこんだままの私に手を差し出します。
「君もこれからよろしく頼むぞ。それで君の名は何というんだ?」
名前を聞かれても私には答えられません。
「旦那。売られた奴隷に名前もなにも無いだろ。そりゃあ奴隷を購入した主がつけるもんだ。所有物としてな。それにそいつは声が出ないみたいだから、何を聞いても返事はできねえよ」
「ふむ、そうなのか。筆談は……、文字を知らねば出来ぬか。そもそも吾輩も読めんのだが……」
青年が少し困ったような顔で漏らします。
直ぐに気を取り直して私に立つように促します。
ゆっくりと立ち上がると、青年がおとがいに手を当てて私のことをゆっくりと観察します。
私は自分の醜悪な姿を恥じて、居心地悪く身体を小さくします。
「ふむ。ならばユキと名付けよう」
「ユキってのは、雪のことか? 確かに白いが……、いや、北方の命まで奪う極寒の雪山を思えばある意味お似合いかもしれねえな」
それは死を呼ぶほどに不気味な姿ということでしょうか。
確かに的を射ているかもしれません。私の両親が死んだのもきっと私のせいなのですから。
そう思ったのですが、青年はそうではないと返します。
「吾輩の国ではな、雪が降るとその雪でウサギを作るのだ。ちょこんとした白い体に、南天の実であしらったクルリとした赤い目がまた愛らしいのだ。君の耳と尾を見るにウサギから名を取るのも躊躇したのだが、その清麗な姿はまさに雪の美しさを体現しているようであるし、その綺麗な瞳は相手の心を掴むほどに印象的であるからな」
「旦那……。奴隷相手によくそんな歯の浮くようなことを言えるな」
「そうか?」
奴隷商人の呆れた様子に、青年は首をかしげます。
最初は自分の容姿が褒められたらしいことが自覚できませんでしたが、一瞬おいて内容を再確認してしまうと頬が熱くなるのを感じて、さっと顔を伏せます。
この容姿に対して嫌悪以外の感想を聞いたのは初めてで、どう受け取って良いかもわかりません。
青年の声音には嫌悪も好意も感じません。
ただ見たものをそのまま言葉に出したというように、その言葉には文字に含まれる意味以上のものはないのでしょう。
なんの思考も孕まない、とても静かな言葉。であるからこそ、私にはその言葉がとても心地よく感じるのかもしれません。
きっと私があの時、生きることを諦めずに歩き続けたのはきっとこの為だったのです。
青年が奴隷商人に案内されるその後を、私は今度こそ自分の意思で足を踏み出します。
傍から見ればただの奴隷かもしれません。それでも私は初めて自分が生きる意味を見出せた気がしました。