061 奴隷
人生とは、かくも理不尽に不公平を押し付けてきます。
狼人族として生まれた私は、幼くして周囲から忌み嫌われていました。
その原因は私のこの容姿です。狼人族の証である大きな耳も、誇り高い尾も、髪も肌も骸骨のように白く、その中で瞳だけが血のような赤色に染まっているのです。
その異様な身体を見て、だれもが不気味だと呟きました。
いえ、本当は呟いてなどはいませんでした。
私が周囲から忌み嫌われるのは、この不気味な容姿だけではなかったのですから。
私の両親は心優しい人たちで、こんな見た目の私でも大切に育ててくれていました。
しかしながら、5歳の生まれの日にそのわずかな幸せも消えてしまいました。いいえ、私が打ち砕いてしまったのです。
いつものように洗濯をしていた母が、何か呟いていたので何気なく返事をしてしまったのです。その時の母は少し戸惑ったように不思議がっていました。
内容自体は大したことがなかったのですが、母はそのことを口に出したつもりがなかったようでした。
そいうことが何度か続いて、とうとう母も父も私のことを気味悪がるようになってしまいました。
どうやら私は他人の考えていることがわかるようなのです。
だれも勝手に考えていることを盗み見られて良い感情は抱かないでしょう。
だからそこでやめれば良いものを、私にはそれが誰かが口にした言葉なのか、それとも勝手に盗み見た思考なのか区別がつかなかったのです。
見た目だけでも奇妙な子が、誰にも知られたくない心の中まで覗き見てくる。
自分に向けられた悪意に対して馬鹿正直に返してしまえば、もう修繕不可能な溝ができてしまうのも仕方がないでしょう。
何か言ってはいけないことを話すと誰もが憤り、恐怖し、まるでこの世のものではないモノを見るような恐ろしい目で見てきます。
それでも幼い私には話して良いこととダメなことの違いが判らないのです。
だから、私は言葉を発するのをやめました。
黙ってさえいれば、少なくとも容姿が不気味なだけの無害な女の子でいられるから。
不思議なもので言葉を使わなくなると、それが不要な機能だと体が判断したようで徐々に声は出なっていきました。それは少しずつ不要な自分が消えていくようでもあります。
しばらくして両親が死にました。
なぜ死んだのかは分かりません。ただ覚えているのは、寝室で天井からゆらゆらと揺れる両親の影だけです。
身寄りすらなくなった私はすぐに村を追われ、近くの森に逃げ込みました。
暗闇の中で風が草木を揺らし、正体不明の遠吠えが遠くで聞こえてきます。
心臓を握りつぶされるような恐怖が、この森への恐れなのか、他人から向けられる嫌悪に対するものなのかはわかりません。
それから、行く当てもなく、ろくな食料も無いまま森をさ迷い歩きました。泥水をすすり、名も知らない草や木の実をかじって、泥と傷だらけの脚で必死に歩き続けました。
もう諦めれば良かったのに、それでも私は生きたいと思ってしまっていたのです。
だから、そんな私に運命は罰を与えました。
歩き疲れた私の前に現れたのは人相の悪い人種の男たちです。
嘲るような笑みを浮かべ、思わず委縮するほどの恫喝を向けられ、とっさに逃げることもできずに私は男たちにつかまってしまいました。
その男たちは奴隷狩りと言われる悪党でした。彼らは森や荒野で通りすがりの旅人を襲い、捕らえた獲物を奴隷商へと売り払ってしまうのです。
私を捕まえた後、奴隷狩りの中でも一層悪人面の顎に髭をたくわえた男が怖い顔をして近づいてきました。
そして、私の左手が切り落とされました。
突然の出来事に一瞬何が起きたかわからず、しかしすぐに切断された左腕から灼熱の激痛が喚きだしました。気絶しそうなほどの痛みに、夥しい出血に恐怖に、左手の喪失感に、声の無い慟哭を上げつづけました。
「止血しとけ」
「それなら毎度毎度切らないでくださいよ」
「俺は狼が嫌いなんだ。以前この目をやられてからな。捕まえた奴隷が狼人だった時は必ずこの目を引裂きやがった左手を切り落とすことにしてんだよ」
一般的には奴隷狩りは商品となるものを無闇に傷つけたりはしないそうです。
それは慈悲からではなく、ただたんに商品の価値を下げないためです。多少乱暴に扱うことはあっても値段が下がるような真似は避けるのが一般的な知識でした。
それでも一部の嗜虐衝動を抑えられない異常者やこの男のように逆恨みしている場合は、その限りではないというのも常識だったようです。
わざわざそんな相手に捕まるとは、私の運命はとことん呪われています。
止血を言い渡された手下が右手を出して魔術を発動しました。途端に集まった魔力が熱を帯びていき、そばにいるだけで肌がヒリヒリと痛みを訴えます。
手下がその右手を切り落とされた私の腕の断面に、ためらいも容赦もなく押し当てました。
切断された時とは違う、左腕そのものが弾けてしまうような痛みが奔ります。
その激痛から暴れるように身体を捻りますが、口から漏れるのはネバついた液体と歯を食いしばった耳障りな軋みだけでした。
悲鳴や絶叫を上げられれば少しは苦痛を誤魔化せたかもしれませんが、声を捨てた私にはそんな贅沢は認められないのです。
不幸なことに手下の治療は的確で私を生きながらえさせました。
そのまま街に連れていかれ、奴隷商人へと売りつけられました。
背が低くでっぷりとした腹に脂肪を蓄えた男は、私の欠けた腕を見て顔をしかめながらも二束三文で買い叩いていました。
醜悪な見た目に五体すら揃っていない私に、果たして奴隷の価値ですらあるのでしょうか?
奴隷商人が私を店まで連れていきます。
私には手枷と足枷がはめられています。
足枷は両足を鎖でつながれて小さな歩幅でしか歩けないようになっています。そんなこと知ったことではないと奴隷商人は短い脚を大きく開いて手枷につながれたロープを引いていきます。
私の左手は切り落とされているので本来は手枷をしてもするっと外れてしまうでしょう。そうならないように手枷を鉄の杭で直接腕に打ち止められています。
手枷のロープを引っ張られると、杭の打たれた部分が肉を裂かれるような激痛を受けるので、できるだけロープが弛むように必死で奴隷商人について行きます。
(汚らしい……)
(悍ましい。なんだあの白い髪は……)
(獣人奴隷か……とっととあっちに行ってくれ……)
街の大通りを歩く、醜悪な私の姿に罵詈雑言の視線が向けられます。
聞きたくなくとも聞こえてくるその思考に、同情するような言葉はありません。
「なんたることか……」
ふと、そんな大声が聞こえました。
その声の方へと振り向いてみると、黒髪の青年が人目もはばからず地面に手をついて何事かを咆哮しています。
周囲の者たちが何事かとざわめきだしていますが、青年は周りの反応などお構いなしに己の感情を発露させているようです。
そんな不思議な光景に気を取られていたせいで足が絡まってしまいました。
倒れる直前とっさに手を突こうとしましたが、それは奴隷商人が引くロープに取り上げられていて受け身も取れずに顔面から着地することになりました。顔面と腕の異なる激痛が襲い、音のないうめき声を上げます。
早く起き上がらないと奴隷商から叱責を受けてしまいます。
頭を踏みつけられるか、蹴飛ばされるか。早く起き上がろうとしますが、痛みのせいか、それとも数日何も口にしていなかったせいなのか、まったく力が入りませんでした。
叱責を覚悟しましたが、いっこうに叱責はとんできません。
それどころか戸惑ったような声がします。
「お、おい。あんた何なんだ?」
恐る恐る顔を上げてみると、先ほど見かけた黒髪の青年がしゃがみこんで私を見つめていました。
大きく見開かれた瞳は髪と同じ黒色で、私の目のさらにその奥底をのぞき込まれているような感覚を覚えました。
そして青年は歓喜を孕ませて小さくつぶやきました。
「――何たることか」