5.芽吹きかけた熱
「どうか頭を上げてくれ。むしろこちらこそ驚かせてすまなかった」
おずおずと姿勢を戻すと、心配そうに見つめるエルネストと視線が交わる。
その瞬間、カメリアはエルネストの深い青色に囚われたような錯覚に陥った。
「……君は、カメリア・ラフォン辺境伯令嬢だな。時折美しい歌が庭から聞こえてくると騎士団でも評判だった」
カメリアの噂が騎士団にまで届いていたのかと居た堪れないような気持ちでいっぱいになる。
この分だと哀れな籠の鳥だと呼ばれていることや、シリルがすでに別の女性に熱を上げていることもエルネストの耳に入っているのだろう。
なんと答えていいのか迷っていると、エルネストは照れたような素振りで続けた。
「あー……君はいつもここで歌っているのか? もし邪魔じゃなければ、また歌を聞かせてもらえればと思ったんだが」
婚約者候補として王宮に住まう以上、他の男と話してはいけないとシリルは言った。
カメリアはその言いつけをしっかりと守り、今まで男性から声をかけられても微笑み会釈するだけで言葉を交わすことはなかった。
それは婚約者候補として当たり前の約束事だと思っていたし、わざわざ破るつもりもなかった。
すべてはシリルを愛し、期待している領民や両親のために正式な婚約者となるため。
けれど、どうせ捨てられる運命なら律儀に約束を守っている必要もないのでは?
たくさん歌って泣いて発散したはずのシリルへの不満の種がわずかに芽吹くのを感じる。
その日カメリアは、初めて約束を破ることを選んだ。
*****
かつては毎日行われていたお茶会も二日に一回、それが三日に一回になり、やがては週に一度になった。
噂話について尋ねて以来、シリルは目に見えて離宮に寄り付かなくなっていた。
お茶会の時間では今まで通りの微笑ましい二人の姿に映っていたが、カメリアはシリルを愛する努力をやめていたし、シリルはカメリアの熱が冷めていることを察していた。
その代わり、エルネストと過ごす時間は少しずつ増えていた。
ニナにあの日ガゼボであったことを話して聞かせると、新たなラブロマンスの予感だと爛々と目を輝かせるものだから、なんて現金なんだと二人で笑いあった。
いっそのこと第二王子に乗り換えてしまえばいいとまで言い出したニナを窘めつつも、シリルと過ごす中では感じたことのない、じりじりと焦がれるような感情が育っていることを否定することはできなかった。
散歩の時間にはニナが二人分のハーブティーと軽食をバスケットに詰めて持たせてくれるようになり、エルネストとの小さなお茶会はカメリアにとって何よりも楽しい時間となっていた。
「まさに武神のような方だった。あれほど強い騎士はボードリエにはいないだろうな」
エルネストはつい最近まで使節団の一員として隣国にいたのだという。
向こうの騎士たちに混じって地獄のような訓練を受けてきたのだと大袈裟に言うものだから、思わずカメリアは声を出して笑ってしまった。
「エルネスト様は本当に剣がお好きですのね」
たくさんお喋りをして乾いた喉をハーブティーで潤しながら、カメリアはバスケットからジャムの乗ったクッキーをひとつ摘んだ。
シリルが知ならエルネストは武だ。
王宮騎士団で日々鍛錬するだけでなく、隣国の強者にまで教えを乞いに行く剣への熱量は、どこか故郷の父を思い出させる。
こんなにもすぐに仲良く話せるようになったのは、雰囲気が父に似ていたからなのだろうかとカメリアは思った。
「君の父君も相当な腕だと聞いている。いつか手合わせを願いたいものだ」
柔らかな日差しを浴びて微笑むエルネストは眩しかった。
いつかの話が実現したとき、婚約者としてエルネストの隣に立てていればどんなに素敵だろう。
シリルの婚約者候補として招かれておきながら、そんな想像を膨らませてしまう自分の頭が浅ましい。
遠くない未来、カメリアは自分が王宮を去ることになるだろうと感づいていた。
そうなればこの小さなお茶会も終わる。
いくら恋焦がれていても、エルネストと会うことすら難しくなるのだ。
気持ちを膨らませすぎてはいけないのは分かっているのに、少しでも長くエルネストとの時間を過ごしたいと思ってしまっている。
エルネストはカメリアにとても優しくしてくれているし、もしかしたら同じ気持ちでいるのではないかと浮かれたこともある。
けれど気持ちを告げようと思えないのは、シリルのように裏の顔があるのではとの不安が拭えないからだった。
「第二王子殿下はそんな方ではないと思います! 私の言葉にはなんの説得力もないかもしれませんが……」
夜、湯浴みを済ませたカメリアの髪を丁寧に梳かしながらニナがそう言った。
シリルとの縁談を全力で後押ししてしまった負い目を感じているのか自信なさげではあったが、鏡越しに見つめる瞳にはどこか確信めいた炎が灯っている。
「でも私はまだシリル殿下の婚約者候補だし、もしお役御免になったとしても王宮を去るのだから、結局エルネスト様とはそれきりになると思うわ」
エルネストは第二王子であると同時に、王宮騎士団に所属する立派な騎士だ。
辺境伯領に戻ってゆっくり暮らしたいカメリアと騎士として王都を守るエルネストでは、共に暮らすのは難しいと思われた。
「そもそも、すでに婚約されていらっしゃるかもしれないじゃない」
カメリアはエルネストの婚約事情について尋ねたことがなかった。
まともな貴族男性であれば、婚約者がいる立場で二人きりで女性と会ったりはしないものだ。
何度もガゼボでの逢い引きを繰り返していることからエルネストに婚約者がいないのは明白だったが、本人から確実な言葉をもらったことはない。
「その点に関しては大丈夫です! 私、確かな筋より第二王子殿下は決まった婚約者がご不在であることを確認済みでございます!」
ニナは不安げなカメリアを元気づけるように、先程とはうってかわって自信満々に宣言した。
エルネストは剣にしか興味のないような堅物王子であり、これまでどんな令嬢のアプローチにも決して靡くことはなかったのだと、侍女仲間から聞いた話を力強く語っている。
どれも掃除の合間に話すゴシップに過ぎないものであったが、シリルの本性もばっちり噂通りだったことを思い出し、案外噂も馬鹿に出来ないかもしれないとカメリアは思い直した。
「もし……もし本当に婚約者がいないのならば……」
どうか私にプロポーズしてくださらないかしら。
シリルから与えられたこの離宮で、言いかけたその言葉を口に出すことはどうしてもできなかった。