3.シリルの離宮
初めて足を踏み入れる王宮は、それはそれは煌びやかだった。
歩いても歩いても先が見えないような庭園を抜けると、ラフォン邸とさほど変わらない大きさの邸宅が幾つも並んでいて、それぞれが行き来しやすいように繋がっている構造となっていた。
カメリアは馬車に乗せられたまま庭園を抜けると、正面に広がる大きな建物を過ぎ、正門の反対側までやってきた。
馬車は広大な敷地の一角にある小さめの屋敷の前で止まると、そこでカメリアたちを降ろす。
どうやらここの小さな屋敷がカメリアの家となるようだった。
「この屋敷にカメリア以外の住人はいないから安心して過ごすといい。使用人もいくつか置いておいたから、好きに使って構わないよ」
「お気遣いいただきありがとうございます、殿下」
シリルの指す方を見ると、5人ほどの侍女が玄関のそばで控えていた。
背筋をぴんと伸ばし、指先まで揃えて佇む彼女たちはきっとどこかの令嬢なのだろう。
王宮は使用人たちも特別なんだわ、とカメリアはラフォン邸との違いを改めて実感した。
「ここで暮らすにあたって約束事は2つだけだ。まず、勝手に王宮の外に出ないこと。そして私以外の男と話さないこと」
簡単な約束だから守れるね、とシリルは笑顔で告げた。
勝手に王宮の外へ出るなのは貴族令嬢である自分を危険に晒さないようにするためのものだと思ったし、シリル以外の男と話すなというのは婚約者候補として王宮にいる以上当たり前のことかもしれない。
シリルの声にほんの少しだけ冷たさが混じっていたような気がしたが、気のせいだと思い、カメリアは笑顔で頷いた。
「長旅で疲れただろう? 今日はゆっくり過ごすといい」
途中で何度も休憩を挟みつつとはいえ、ラフォン辺境伯領から王都までは馬車で一日半はかかる。
初めての長距離移動でカメリアの体はくたくたに疲れ切っていた。
国王に視察内容を報告するからと去っていったシリルを見送り、自らに与えられた住居へと足を踏み入れる。
そこは思ったよりもこじんまりとしていて、どこかラフォン邸を感じさせる風合いの調度品が飾られていた。
シリル殿下が気を回してくださったのだろうかと、胸が温まる想いで屋敷内を見回しながら屋敷内を歩いていく。
まず案内されたのは主寝室として使用するひときわ大きな部屋だった。
しっかりと手入れの行き届いた家具やベッドはぴかぴかに磨かれ、新たな主を待っている。
カメリアはソファに腰を下ろすと、さっと侍女の一人がティーセットをテーブルに整えた。
湯気の燻るカップには琥珀色の液体が注がれており、その香りだけで上等なものであることが感じられた。
「ただいま湯浴みの準備をしておりますので、お待ちの間どうぞお寛ぎくださいませ」
屋敷の案内をしていた侍女――サンドラは美しく礼をするとそっと下がり、ニナと何やら話していた。
きっと王宮には王宮の仕事のやり方と言うものがあるのだろう。
ラフォン邸にいた頃よりも数段レベルアップした仕事や立ち振る舞いの注意点について、侍女たちから色々と指導を受けているようだった。
紅茶とお菓子を楽しみながら、カメリアはこれからの離宮生活について思いを馳せた。
馬車の窓から見えた大きな庭園をお散歩したらどれほど気持ちいいだろう。
いくつもお庭があるようだから、その全てを歩いてみたい。
私が歌う場所はどこにあるのだろう。
もしかしたら舞踏会で歌を披露する機会があるかもしれない。
国王陛下へご挨拶は明日伺うのだろうか。
妃教育とはどれほど大変なのだろうか。
婚約者候補としての生活を精いっぱい楽しんで、シリル殿下と愛を深めて、そうしていつか幸せな姿を辺境伯領の皆に見せてあげたい。
カメリアの心は不思議なほど新生活へのやる気で燃えていた。
*****
――そのやる気が空回っているかもしれないと気付いたのは、王宮へやってきてから二週間ほど経った時のことである。
まず、不思議に思ったのは一向に妃教育が始まらないことだ。
無事国王陛下への挨拶を済ませたカメリアの仕事は、毎日シリルがやってきた時に歌うことだけだった。
庭園のガゼボに二人で座り、半刻ほどお茶を楽しんだあとは歌を歌って終わるのだ。
最初カメリアは不慣れな自分のために妃教育の開始を少し待ってくれているのだろうと思っていた。
しかし、一週間、二週間と過ぎた今も教育が始まる気配はなく、それとなくシリルに尋ねても気にするなと言われるばかりだった。
そして、時折使用人たちの視線を感じるのだ。
品定めされているかのような、なんとも言えない嫌な視線を、通りすがりざまや散歩中に浴びせられることが増えた。
これに関しては自意識過剰なだけかもしれない、とニナにすら話せずにいたカメリアだが、段々と居心地の悪さを感じるようになってきた。
また、ニナはニナで時折何かを隠すような、誤魔化すような素振りを見せることがあることもカメリアの不安を煽った。
もしかして私は歓迎されてないのではないかしら。
身分は申し分ないとはいえ、王都の貴族からすれば社交界にもまともに出てこない不出来な令嬢だと思われているに違いない。
そんな私がシリル殿下の婚約者候補として王宮に招かれてしまったから、良く思っていない人がいるのも当然だわ。
カメリアは望まれて王宮へ来たはずだったのに、シリルからは優しくされているのに、一度首をもたげた不安は簡単には消えてくれない。
のびのびと歌っていた少し前の生活を思い出し、やはり王宮に来なければよかったのではないかとすら思ってしまう。
けれど、カメリアの挫けかけた心を支えるのは、祝福して送り出してくれた辺境伯領の大切な人達の笑顔だった。
決めたわ。もう一度シリル殿下としっかりお話してみましょう。
いつも優しくカメリアの話を聞いてくれるシリルならば、きっとこの不安もそのままにはしないはずだと信じている。
もうすぐシリルがやってくる時間だ。
カメリアはいつもより少しだけ緊張した面持ちでシリルの到着を待っていた。