2.決意と別れ
カメリアは毎週決まった場所で歌を披露する。
教会、孤児院、そして街のレストランの三ヶ所がカメリアのステージだった。
始まりは母に連れられてやってきた孤児院で、子供たちに子守唄を歌ってきかせたことだった。
その歌声は子供たちだけでなく管理しているシスターたちにも気に入られてしまい、子供たちのおねだりに負けたカメリアは毎週決まった曜日に歌いに来ることになったのだ。
それからはシスター経由で司祭にも伝わり、ぜひ賛美歌を歌ってほしいと教会で歌い、教会に来ていた領民たちを伝ってレストランで歌ってほしいと依頼が来た。
はじめは戸惑っていたカメリアも、熱烈な領民たちからのラブコールを受けて自分の歌でいいならとステージに立つようになった。
元々歌うことは大好きだったし、自分の歌で喜んでくれる領民たちの姿を見て、いつしかカメリアにとっても皆の前で歌う時間がかけがえのないものとなっていた。
今日はこの街で一番大きなレストランで歌う日だ。
張り切ったアーノルドが街のレストランすべてに小さなステージを作らせ、いつでもカメリアが歌えるように整えたのも今や懐かしい思い出だった。
カメリアは市井に馴染むよう平民風のドレスに着替えると、ニナを連れて、いつもの店を目指してのんびりと歩き始めた。
やがて家の敷地を出て街に下りてくると、どこからとも無く声をかけられた。
「カメリア様、ご婚約おめでとうございます! さすがはラフォン辺境伯領の至宝、我らの誇りです」
「カメリア様ならばきっと素晴らしい王妃になれますよ」
領民たちに声をかけられるのはいつもの事だが、次々と祝福の声ばかりが降り注ぐ様子に、もう噂が広まっているのね、とカメリアは苦笑いを浮かべる他なかった。
ただでさえ娯楽の少ない田舎町なのだ、敬愛する令嬢の婚約話は火が回るよりも早く広まったことだろう。
心が決まっていないことに気まずさを覚えたカメリアは、すっかりお祝いムード一色の領民たちに曖昧な笑顔だけを残して、レストランへと向かう足を早めた。
*****
結局その日はいつもよりも大きな拍手に包まれステージを終えた。
なんだかぐったりと気疲れしたカメリアは、早々に湯浴みを済ませると夜着に着替えてソファへもたれかかった。
領民たちは皆カメリアが第一王子の婚約者になり、いずれは国母となるのだと信じている。
ニナをはじめとした使用人たちだって、この縁談に前向きどころか前のめりな勢いだ。
両親はカメリアの心のままに決めて構わないと言っていたが、ほんの少しアーノルドの瞳に期待の色が浮かんでいたのは気のせいではないだろう。
「……皆、私とシリル殿下が結婚することを期待している」
小さくこぼれたその声は、誰にも届くことなく消えた。
カメリアは誰かの期待を裏切ることが苦手だった。
希望に満ち溢れたキラキラとした瞳を向けられると、どうしても期待に応えたくなってしまうのだ。
たくさんの人が私の婚約に期待し、祝福してくれている。
住み慣れたこの地を離れるのは辛いけれど、貴族令嬢としてどこかへ嫁ぐ身なのだから、この痛みはいずれ味わわなければならないものだ。
それに、王宮へ行けばもっと大きな舞台でたくさんの人に歌を聴いてもらえるかもしれない。
カメリアはたくさんたくさん考えて、いくつもの言い訳を潰して、そして絞り出すように答えを出した。
「私、婚約者候補のお話をお受けするわ」
「本当ですか!?」
いち早く反応したのは就寝前のハーブティーを準備していたニナだった。
「ええ、せっかくのお話だし、私もそろそろ婚約について真面目に考えてもいい頃だと思ったの」
これは紛うことなき本音だった。
一般的な令嬢ならばしっかりと婚約者が決まっていても何らおかしくない年齢だったし、定期的に釣書が届いていることは気付いていたのだ。
王国を守る盾として、ラフォン辺境伯家にとって王族との縁談は国力を上げるという意味でも断るべきでないことは分かっていた。
「今日はもう遅いから、殿下には明日お話しようと思うの。候補とはいえ結婚するかもしれない相手だし、お互いのことを知るためにも早めにお返事して交流を深めた方がいいと思って」
これは半分本当で、半分は嘘だった。
交流を深めるべきだとは思っているが、それよりも最終日まで返事を先延ばしにしてしまうとせっかくの決意が揺らいでしまうと思ったのだ。
それに、せっかく王宮へ行くのだから晴れやかな気持ちで出立したかった。
そのためにはシリルとの距離を縮め、カメリア自身がしっかりとシリルへの愛を持てるようになるべきだと考えた。
ニナはさっそく明日のお茶会は殿下をお呼びしましょうと楽しそうにあれこれと準備をしている。
あんなに素敵な王子様なんだもの、きっと私も恋に落ちるはず。
まだ胸の中にうっすらと残る不安のモヤを洗い流すかのように、ティーカップに注がれたハーブティーをごくりと飲み干した。
*****
それからの日々はあまりにも早く過ぎていった。
婚約者候補の話を受けると言うと、シリルは分かっていたかのように、ラフォン家の侍女たちにカメリアの荷物をまとめるよう指示を出した。
カメリアはシリルとの交流を深める合間に孤児院や教会に赴き、別れの挨拶と歌を贈って回った。
馴染みのレストランにも行ったけれど、シリルに未来の王妃が平民たちと距離が近すぎるのもあまり良くないと咎められ、結局全員と別れの挨拶を交わせないまま出立の日を迎えることとなった。
カメリアの荷物は一般的な貴族令嬢と比べればそう多くはない。
少しの宝石とドレス、大好きな歌の楽譜と本をいくつかのトランクに詰め終わると、どこか考えないようにしていた生家を離れる事実が改めて深く突き刺さった。
今生の別れではないとしても、しばらく会えなくなってしまうことには変わりないからと、カメリアは侍女たちとハグで別れの挨拶を交わした。
ニナだけはカメリア付きの侍女として王宮へ同伴してもらう予定だ。
慣れない土地で一人ぼっちじゃないことがこれほど有難いことだとは思わなかったと、カメリアはニナに心から感謝した。
「寂しくなったらいつだって帰ってきていいのよ」
「王都へ行くこともある。いつだって会えるさ」
父も母もカメリアを抱き締めて、カメリアのほしい言葉をくれる。
シリルの前で涙を見せる訳にはいけないと必死で堪えたものの、菫色の瞳から一筋こぼれるのは止められなかった。
「行ってきます、お父様、お母様」
淑女の礼で挨拶をして、シリルとは別の馬車に乗り込んだ。
窓から見える景色はどんどんと見慣れないものに変わっていく。
これから新しい生活が始まるのだと、カメリアは寂しさには蓋をして、ゆっくりと流れる景色を目で追っていた。