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狂人の定義、賢者の定義

さあ戦争反対、行きますよ?

聖人が形而上学に言明する方向は、自然科学のような客観的な観察から迫る方向と、もう一つは主観の現実から迫る方向がある。自然科学の裏付けを最大限、配慮しても「宇宙に内的秩序の存在を考える必要はない」とするコペンハーゲン解釈などは聖人の受け入れるところではない。彼らの主張するのは「結果が出るならそれでいいではないか」という主張なのであり、それでは実存的な人間は無価値になってしまうという問題からである。もちろん「実存的な人間が無価値になる」という事態で困るのは、実存的な人間だけである。人生の差別や虐待などの不条理に苦しまされている上に「その苦しみに意味はないよ」「不運で無能なお前が悪い」「自己責任乙」と理論化されてはたまらない、というわがままである。

だからニーチェならばこれから聖人が言わんとすることを正しくルサンチマンというだろう。だが、前にも言った通り、ルサンチマンはニーチェだと聖人は言い返す。聖人はむしろニーチェの味方である。彼は間違いなく実存的な人間だからである。ニーチェは乗り越えようとして、向かうべき壁を奇跡的に素晴らしく間違った。自分自身を救おうとして、自分を窮地の最底辺に追い込み、最後は文字通り発狂して倒れたのだった。発狂は病気に由来したが、聖人の世界観からすれば必然である。あの根源からの絶望に触れて、正気でいられるわけがないのである。そんなのに耐えられるとしたら、少なくとも男ではない。ただ、男でなければその壁を選ぶこともなかったはずだと聖人は分析する。

聖人の主観的秩序の出発点はアレイスター・クロウリーである。え? 知らない? あの世紀の変人を? とはいえ、聖人もクロウリー自身の生涯を伝聞して、自分以上の変人でむしろどうしようもない人、という印象はぬぐい切れない。ただ、彼の残した『法の書』の予言、および「トートタロット」に関しては、多大な評価をしている。聖人がわりと熱心なビジネスマンだった頃に「思考は実現する」系の考えに触れたことはあり、あっさりと虜になっていたりしたので、クロウリーの言明にこの世界の秩序の根幹を察知した聖人を誰が責められよう? いや、責められまい。え? 責めますか? あ、あ、あ。聖人さん逃げて~!

クロウリーの言う秩序は非常に明確である。曰く「汝の意志するところを行なえ。これこそ<法>のすべてとならん」である。聖人は控えめに言っても魔術師ではない。だが、この言名はあまりに世間一般で認められていない秩序であるため、これを採用して生きれば魔法使いとなることは理解できる。聖人は30歳までごにょごにょ…については、議論するのはやめよう。どちらを言ってもおそらく不毛だろう。

さてクロウリーの言明を聖人の言葉に直せばこうなる。「世界の秩序は、その人間がそうだと信じたことそのものである」。この背景には聖人の主観的価値観がある。哲学の系譜で言えばヘーゲルである。カントまでの哲学が、対象から認識へという方向に限定したのに対し(それでも対象が認識に従うというコペルニクス的転回はあるのだが)、認識(意志)から対象へと方向を拡大する結果として生じるのが、認識と対象は等価であるという地点である。いわゆる世界精神である。簡単に言えば「世界(対象)(精神)(精神)世界(対象)」という一致である。

意志から対象へと働きかけるには動力学が必要になるが、カントはこの動力源を魂と呼んでいる。とまあ、この辺の哲学に関しては、ライプニッツやニュートンなどを巻き込んで散々検討されているのだ。そして科学的真実というのは、実際のところ「目に見えた結果」で判断される。そして「目に見える」ものは多数派の感性や悟性、統覚などに依存するので、ライプニッツやカントの深さはニュートンの素朴さには多数決で敗北するのである。「科学なんてそんなもん」。聖人の口癖である。いや、今採用したらしい。そういえば、聖人は昔、ある女性の「世界なんてこんなもん」というセリフで強く深い呪いを受けたことがあるので、その呪縛から解き放たれた証拠なのかもしれない、うんうん、とは聖人の神なる成分。

「自分の信念とその行為が世界を統括する秩序そのものである」というのが宇宙の最終真理(最上級メタ秩序)、形而上学の一表現である、と聖人は考える。そしてその秩序の形式が「定言命法(無条件で成立する命令)」であることは特筆すべきことだと聖人は考えるのだ。これはなかなかシビアなのである。例えば「相手が悪ならば罰してもよい」は仮言命法(条件付き命令)である。ここで、そもそも悪は相対的な概念だから、例えば、被差別集団に属するとこの秩序は自分自身を襲うことになる。「相手が悪ならば罰してもよい」と相手も同等に従うのである。実際、自分を最高の地位に押し上げてしまう人は、自分が最高善であり、周囲は濃度の違いはあれど悪と見なす体質を持つ。その人なりにその倫理は遵守されていると見るべきなのである。

この場合「対立は理解と説得で解消する」であれば定言命法で、この場合は自滅は根源的に回避される。聖人が従う形而上学を理解した後の倫理学は、この自滅しない秩序の探求に尽きる。自分をもその公理系(秩序体系)に閉じ込めた上で、自分自身の最大の利益を追求するいうことである。相手も自分も定言命法は公平に扱うことを要求する。秩序が定言命法になる理由は基本的には循環論法になる。定言命法ならば、最高に自分に有利な秩序とは「協力し合うことを要請し、自分も従う」であることだろうと、聖人は基本的な基準だと考える。つまり、当たり前に導出されるのが「愛」なのである。この場合に示される世界観は「宇宙に分離はない」という機能的真理である。

循環論法というのはそういうことである。「宇宙に分離はない」、つまり特別な立場などはない、という洞察こそが定言命法を要求するのである。だから、ここから遊離して「自分こそ特別である」という立場も当然ある。そして倫理学が苦しむのは常にそういう異端問題である。だからこそ、哲学的探究は面白い、と聖人は言う。つまり「自分こそ特別である」という信念を力(物理)でねじ伏せることなく、無害化するような信念体系の調整を行うのが、「宇宙を整える」という聖人の魔法使い、もとい哲学者としての仕事なのだ。これには「世界は私、私は世界」という原秩序への信頼が必要なのである。

この原秩序「世界は私、私は世界」を信頼する、言い換えれば「天上天下唯我独尊」である存在(モナド)が「宇宙に分離はない」という信念(世界観)を保持している限りにおいて、「自分こそ特別である」という「天上天下唯吾独尊」の体系は崩壊する。その理由として我の自立性・自律性と吾の他律性が挙げられる。吾は他を根源的に比較対象として必要とし、我は完全に自己内部で完結する。ゆえに我を自覚する存在の体系は、吾しか見えない存在の体系を覆う形で適用されるのである。

この我から吾へ及ぶ支配がいつ物理的に効果が出るのかは、時間が永遠を似せた幻想である以上は確定はしない。だが、死まで「自分こそ特別である」という確信が継続すればましであるとはいえる。吾が高位の秩序「宇宙には分離はない」に矛盾する「自分こそ特別である」という信念にしがみつけば、他者が「自分こそ特別である」と出現することによって、吾の劣位を思い知らされる形で「天下唯吾独尊」を訂正される。これに抵抗すれば苦しむのは自分である。苦しみとは真理への抵触(勘違い)によって生じるのである。

繰り返せば、「天上天下唯我独尊」は我(世界=私)であって吾(特別な自分)には置き換わらない。この違いを認識しないと困るのは自分自身である。本当の自尊心は内面からだけ生じるが、唯我独尊はそれを地で行き、唯吾独尊は他者の存在が前提になるのである。だからこそ、唯我独尊は優劣や差別を正しく排除するし、それを真理としないと自分自身がその原動力となって宇宙が暴走するのを知っている。この辺も、聖人ならではのダイナミックな世界観ではある。

ここまでの議論が理解できれば、因果応報とは自分が信念とする公理系が自分自身を裁くという構造を指していて、勧善懲悪などとは全く次元が違うこともわかるはずである。「悪よ、滅びよ!」などと念じても、悪の存在意義が高まるだけで、当の「滅びよ!」という呪文だけが自分を襲うことになる。呪術でもどうにもならないのに物理でどうしようというのか。どうにもならないことは見極め、素直に自然に委ねるべきなのである。と、説教モードに聖人が入ってしまった。こうなるとなかなか回復しないのである。やれやれ、俗人だね。

「汝裁くなかれ、されば裁かれん」など、なかなかキリスト教も正しいと思う。「罪を憎んで人を憎まず」も本当に素晴らしい言及だ。ここまで見てきた通り、倫理というのは、世界秩序に照らし合わせたときに、自分自身にとって機能的かどうかで判断していいのであるし、その証拠として、相手を同じ基準で裁こうとすると自分が苦しむという現実的な経験があるはずだ、と聖人は断言する。ここはかなり強い断言である。

聖人の形而上学の牙城は「真理など存在しない」という言明一つで崩れ去るのだが、ここからが本格的な反撃となる。もちろん、反真理主義者に対しては届かない刃は届かないのだが、その場合は「結果が出るならそれでいいではないか」という反真理主義者の言明を逆用してしまう。これは周到で意地悪な聖人だからこそ、編み出せたはめ技だと言えよう。さあ、より良い結果はどちらだ?ということである。

聖人からしてみれば、この言明を含む反真理主義者に対する説得の是非は自分の世界観には全く影響しない地点にいる。こちらからの説得が通用しないことは全く問題なく、反真理主義者からの反論は全て吸収し受け入れられるのである。逆に、こちらの信念体系の維持・更新に、反真理主義者の言動は貢献してくれる。つまり、苦しむことも新しい秩序構築への強い動機となるのである。

聖人の形而上学は、筋力(物理的効果のある力)の使用は現に戒める傾向があるが、言論の力はその限りではない。なぜなら、聖人は直言や苦言を率直にありがたいと思うし、侮蔑や愚弄も宇宙の真理と関係ないことを知っている体系に属するからである。つまり言葉による(暴)力に対して、聖人の形而上学は完全な吸収体質なのであり、これについて「信念防壁」を張る必要はない。が、筋力は別である。なので自身が筋力の使用を戒めることで、他者からの筋力の行使を「信念防壁」を展開して防御せざるを得ないのである。

苦しみの解消を外的に処理すべきと認識する倫理も存在し、聖人は言葉による力を認める以上、それを適切に行使することにはためらいはない。このように、人間が人生を紡ぐというのは本当に深層を意識するならば、この宇宙秩序とひたすら対話することなのである。そして、まっとうな思想や宗教はみんなこういった視点を持っている。

聖人が素晴らしい洞察と見なす「祈り」がある。原文を示す。


God, give us grace to accept with serenity

the things that cannot be changed,

Courage to change the things

which should be changed,

and the Wisdom to distinguish

the one from the other.


Reinhold Niebuhr

『神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。

変えるべきものを変える勇気を、

そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。』


歌手(アーティスト)の誰かさんもこの祈りを取り上げていた。というより、その歌手(アーティスト)のおかげで聖人はこの祈りを知ったらしい。変えるべきもの、が多くの人の課題になるだろうと聖人の洞察は続く。なぜなら、「変えられないが変えるべきもの」、「変えられるけど変えるべきでないもの」、「変えられるし変えるべきもの」、実は3つあるからである。人が苦しむのは、「変えられるけど変えるべきでないもの」を軽率に扱う者の存在に起因するが、これに対しての忍耐か勇気かの区別の是非が賢人と愚者を分ける。

そして「変えられないし変えるべきでないもの」に取り組むのは、本気なら狂人だし、確信犯であれば修練だったりするだろう。聖人から見れば「宇宙には秩序が存在するのに、そんな秩序はないとするべきである!」と奮闘する反真理主義者は、この部類に属すると思っている。そして聖人はなぜそんな奮闘をする動機を持つかについて、「結果が出るならそれでいいではないか」というときの「結果」が自分周辺に限定されるゆえにその結果が相対的に変化するのが受け入れられないからだと考える。狂人は実は本質的には愚者なのである。ただし、ここまで言ってもわからなければ狂人だと定義すべきであろう。

ちなみに反真理主義者の反論はこうなる。「宇宙に秩序なんか存在しないのに、秩序はあるべきである」というのは、「変えられないし変えるべきでないもの」だから、形而上学の徒こそ狂人ではないかと。だが、聖人は応えて言う。反真理主義者の世界では「秩序はあるべきではない」かもしれないが、形而上学はまっとうに「秩序はあるべき」と判断するから、こちらの公理系においては矛盾はない、と。そして、そもそもこういった議論そのものができる土俵を作成できた事実が、宇宙の秩序の存在を前提とするはずである。反真理主義者は、これを頑としてわかりたくないのである。ここで愚者は狂人に転落する。そして狂人が頼るのは筋力である。逆に言えば、筋力に頼るのが狂人なのである。

ただし、静的で不変な秩序は恐らく存在しないだろう、聖人は述べる。どんなに完璧に見えても、いつ矛盾ある言明が見つかるとも限らない、というのは不完全性定理(第二定理)のアナロジーからの類推ではある。なので、もし狂人の筋力が形而上学の「信念防壁」を破るのであれば、そこで新しい秩序「神は死んだ」が本格化する。人間は数字となり、苦しみは幻想となり、意志は却下される。そんな人間しかいない世界で頂点に立った人間は、自分の数字を見て何を思うのか? その数字を見て果たして感じることがあるのかどうか? 反真理主義者の目指す世界は本当にそこなのか?と聖人は問いかけたいのである。聖人を殺すとはそういう世界の到来である。

それでも聖人を止めるには筋力しかあるまい。もしその真理の圧力を正確に感知できた場合ではあるが。そして、真理があるのにそれを踏みにじれば反真理主義者といえど己の秩序の裁きに屈するし、真理がないなら「真理などない」という主張すら意味のない秩序なき世界である。精神が意味とのつながりで理解される以上、その筋力を意志して動かすのは一体何かということになる。

狂人とは筋力を問題解決の手段として用いるものである。これが聖人が我である世界における狂人の定義となるだろう。そして、愚者とはこの理屈がわからないものであり、この理屈を辿って自分なりに確認してみようとするものが、賢者と呼ばれるべきである。うん、なんという傲慢な自信。まあ、我だからな。だから、我を理解できない場合には、聖人こそ、狂人だという者も当然いるはずなのだ。だが、聖人は自分は狂人でかまわないとする。自分だけは真理のありかを知っているのだから、誰が何と言おうと、そんなのは幻想にしか過ぎないのである。

もうこうなってくると「結果が出るならそれでいい」にしても、形而上学の方が反真理主義より「結果」の意味も効果も広く高いのである。「神は死んだ」などとかっこつけて抵抗せず、普通に自分の中に「神」を探しながら生きる方が、感情的にも幸福であると言える。攻撃は最大の防御なり、など辛く苦しい道も本来は必要ないのである。さあ、「天上天下唯我独尊」の世界へ、いかが? って、誰に言ってるんでしょうね?

あ、この理屈なら「平和憲法」の威力が国民が完全に理解した場合には、そのまま防衛力になるということは理解できるはずである。ついでに言えば侮蔑・罵倒に耐えらえれないならば、自分がまず抑制し、その効力を認めないことである。さらに言えば、たとえば聖人は真理に基づく言論は辛辣でも歓迎するが、自分が影響を受けたくないもの、筋力、経済力、嘘など(虚構に属するもの)については看破し退ける秩序を維持している。自分自身がそれを使わない、それに効力を認めないという信念によってである。非暴力非服従運動が効力を持つ理由もそれかもしれない。かの人の言葉に含まれる洞察を味わってみても、ガンジー氏も見事な(モナド)だったのだろう。

完全に説教になってしまった。でも、ほんと、信じるのではなく、しっかりと考えるべきです。考えることが一番大事で、信じるというのは危険なのです。考えた結果信じて、信じた結果を受けてまた考える。自己責任システムとはそういうもので、因果応報はそのように作用します。



って、なんであとがきまで説教してるんだよ? つか、なんなんだろう、この小説。ツルゲーネフの『はつ恋』でもとりあげようかな。

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