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偶然は必然だったのです

聖人は聖人ですから、神を復活させようと目論みます。

聖人の形而上学:世界の存在理由は「一種の」トートロジーである。らしいですが…。

聖人においてもっともその俗人性が発揮されるのは、死への恐怖である。聖人が人生で克服を目論んだ対象は結局は死であったと言ってよい。聖人はその本性として偶然を嫌う。偶然がどういう理由でそこで起こったのか、その必然性を追究する。つまり聖人は死というものが偶然ではなく、必然であることを突き止めようとしたのだ。聖人は少し、衒学的な気分なんだそうである。というか、避けて通れない道だ、とか正当化しているようである。恥ずかしい奴だが、これは何でもありな小説だ。小説であっても作品ではない。うん。

物理学には存在確率という概念がある。その背景となるハイゼンベルグの不確定性原理は「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの願いを打ち砕くわけだが、正確にはアインシュタインが中心となって提出したEPRパラドックスが逆用され、量子もつれは実在することが証明されることによって確定してしまう。

不確定性原理から導出される直観的な思考実験「シュレーディンガーの猫」というのは、荒唐無稽な話のようであるが、宇宙は実際にそういうものなのである。ただし、「シュレーディンガーの猫」にもいろいろと解釈の仕方はある。大きく分ければ、観察するまでは猫は死んでいて生きているという猫自身の状態が共存状態にあるとするか、観測者ごと猫が死んでる世界と猫が生きている世界が併存するとするかである。前者だと観測によって猫が殺されたり生き延びさせられたりする説明が必要だし、後者は世界がたくさんあるという想定を認めなくてはならない上に、どの世界を観測者が住みかに決定するかを説明する原理も必要となる。

観測者と猫の状態がセットであるという点で後者に近いが、聖人が有力視するのがホログラム理論である。宇宙の全体の情報は全ての部分に内在するという秩序である。ホログラム理論は矛盾が見つかっていない以上、実質的に機能として採用できるし、そのように世界を解釈することは可能だと聖人は慎重ながら言う。まずはシンクロニシティがこの理論で説明できてしまうのが好都合である。ホログラム理論という解釈が成立してしまうならば、シンクロニシティが幻想にしろそうでないにしろ、現象の説明として採用し得る根拠となるのである。言ってみれば、シンクロニシティよりホログラム理論の方がさらに深層構造であるということである。それに部分が全体を内包するというのも、それだけで素敵だ、と聖人は酔いしれるのである。

ホログラム理論を言いたいがために、聖人はむきになって教科書のコピペみたいなことをしてしまった。改めて一本調子の読みにくさにうんざりする。しかし聖人が偶然というのをテーマにしているのは確かであり、そして偶然を必然へ置き換える場所を精神だとみているのであるから、ホログラム理論がシンクロニシティを導出する以上、物理と精神の接点をそこに見出すのであるから、やっぱり避けて通れない。そして、物理における偶然は精神における必然である、つまり聖人はその解釈を断行したいのである。デカルトのように松果体が接点とは聖人は考えていないが、接点が世界全体でも脳の局部でもそれがあるというだけで十分だと言ってしまう。

ちなみに超弦理論もそこには内包されているのは秩序である。対称性、対称性の破れ、双対性、作用、変分原理、次元と世界を構成する秩序の数は列挙すればこれくらいであろう。超弦理論で従来の素粒子の標準模型から優れて突出するのが、双対性に含まれるソリトンと素粒子の交換、そしてホログラフィーであり、さらに次元のコンパクト化、世界体積という概念の導入と考えられるのだが、これらをホログラム理論のアナロジーとして見たいと聖人は企図したりはする。とはいえ、ホログラム理論は理論というよりは、概念から物質へという一つの世界解釈の仕方かも、とは聖人は考えてはいる。解釈であれば、証明は難しいかもしれない。

とまあ、こうやって聖人もまずは客観的な世界から、偶然と必然の秘密を探ろうとしたわけであるが、量子場理論では素粒子にせよソリトンにせよ、結局は波動解になるから偶然は残る。ホログラム理論を経由しないならば、物理世界の偶然を、概念世界では象徴の持つ意味の揺らぎ幅として理解できるかもしれず、精神が直面する状況の解釈においては必然を導入できるというのが、聖人のやり方ではある。これが聖人の深層心理学理解の一部になっている。

しかしこの手の解釈の正当性を主張するにあたってはなかなか難しいところがあるはずである。まずこの問題は、カントの『純粋理性批判』をクリアする必要がある。要するに超越的な理性使用は許されない。ただ、カントは形而上学の成立は認める。また、それを言うなら、超弦理論などの理論へと昇華する前の客観的な物質とその運動の観察などについても、カントの超越論的哲学そのものが有効になる。自然科学の在り方については、カントより明確に現象学へ引き継がれるし、逆に対立するところではプラグマティズムなどもあるのかなと考えている。真の秩序などなく観察される事実の総体だけがあるとする哲学も存在し、それに対しては聖人からはいろいろとツッコミたいところはいっぱいあるのだが、残念ながらメタ視点を許さないところに真実の存在を否定する哲学の特徴があり、聖人がメタ視点が重視するとなると議論は正面から当たる場合は確実に前提の違いから平行線に終わる。

しかし、ここは実はすごく重要な論点である。なぜなら、真実は存在しないというのは意味の実在の否定だからである。そこからは生きるのに意味なんて存在しない、実存問題なんてありえない、という主張になるのである。つまり、これは苦しむ人間の苦しみの否定でもある。極論すれば、弱肉強食という物理現象だけを見て、そこに作用する精神の介入を無視してしまうのである。聖人が実存的価値のある人間という主張が、根っこから否定されるので聖人としては黙認するところではない。そこは経済的価値しか認められない世界、人間が数字で語りつくせる世界になるのである。お金の魔王の逸脱を影で支えるカオス(無秩序)ともいうべきである。

だが逆に言うと、このカオスの牙城を崩せるならば、お金の魔王も逸脱から回復するはずである。お金の魔王そのものは、聖人は敵視していない。お金にしっかりと概念が付与するのであれば、通貨としての価値は認めるのである。逸脱して、お金が万能とされることで、特定の概念を象徴しないというのが、この真実は存在しないというカオスそのものなのである。真実は存在しないとは、言い換えれば神の否定でもある。実は、一般に適当に無神論は扱われているが、神を否定するというのはこういう事態なのである。

逆に聖人がメタ視点の活用によって辿った先にある形而上学とは、最上位のメタ概念、真実そのもののことである。それを神と名付けてもいいのだが、聖人もこの国で神はファッションとして嫌われているのを知っている。同時に成立するのがおかしいのだが、盛況な初詣の神についてはしっかりとその内容が理解されているとはいいがたい。神を内容としてではなく、形式、つまり偶像として拝んでいるのが現状である。それで願いをかけて叶えてくれないと神はいないと言い出すのだから、たまったものではない、と聖人は嘆く。神への祈り方には方法論がある、と聖人ははっきり主張したいが、今は形而上学を語りつくそう。

聖人が考える形而上学について、語り方について古の文献に求めるのであれば、プラトンの『ティマイオス』の記述が秀逸である。「ソクラテスよ、神々(天体)や万有の生成といった多くのことについて、われわれがあらゆる点で完全に整合的に正確に仕上げられた言論を与えることができなくても、驚いてはいけない。むしろ、話しているこの私も、判定者であるあなた方も、人間の本性しか持っておらず、したがって、こうしたことについては、真実らしい話を受け入れ、それ以上は何も求めないのがふさわしいということを思い出し、何人にも劣らず真実らしい言論を与えることができれば、満足ということにするべきである」。

聖人も様々な手段で真実を語ろうとする。わかっちゃいるけどうまく言えないが形而上学である。この事情を最もよく示すのが、このティマイオスのセリフであり、以後に続くティマイオスの言論も実に精緻でありながらも、真実のアナロジーとしてしか機能していないのを聖人は見るのである。現代の科学理論に合致しない記述であっても、その語ろうとした内容そのものは否定できないという観点は、現代人はすっかり抜け落ちていると、聖人は不満を述べる。しかし、この主張はまず理解されないだろうことも聖人はわかっちゃったりもする。なぜなら、聖人は変人だから。

ところで冒頭で、聖人が死を克服するための探求として、偶然の問題を追究していると言ったが、物理的偶然が概念(精神)の必然に置き換わるという洞察を、対偶をとる感じで展開してみると次のようになる。「概念的な必然がない存在であれば、その物理的な存在は偶然である」。これは言い換えれば「人生に意味がなければ、いつ死んでもおかしくない」ということである。さらに踏み込むなら「偶然の死を避けるならば、必然的な意味を持ち続ければよい」と対偶がとれる。

恐るべき主張である、と聖人すら思う。しかし、幾度か死を経験した聖人はこれは正しいだろうと主観的には認識する。聖人が死んでも死んでも、分岐したと思われる別の世界に到達していたのは、偶然ではなく、聖人が強く人生に求めるものを自覚していたからだと思われるのである。聖人が求めたのは結果的には形而上学であったと言える。そして、聖人は形而上学を論理的には認めるに至っているが、経験的に検証していないのである。

だからこそ、聖人は形而上学の実践をする。死は怖いけど怖くない。聖人が目指すのは形而上学による世界の救済である。人生の意味の大切さを主張し、広めていくことで、意味を強く自覚した存在たちが死から立ち上がる場面を想定するのである。聖人が愛と呼ぶのは、これが正体である。自分の中で閉じた人生の意味では、おそらく意味は不十分で己の死は避けられない。しかし、世界の中で自分が不可欠の存在となったら、その時はどうだろう。

これが聖人が愛を実践する理由であり、また愛を人生の意味とすべきだと「布教」する理由である。なんという俗人なのかという話である。人のために生きることは、自分のためになる。形而上学の語り方はもちろんこれだけではないが、これは一つの自分の物理的死を必然とつなげる有効な方法である。

さらに形而上学というのは数学的には不完全性定理に相当する。不完全性定理は否定的ではなく、全ての系の存在を容認する数学的証明である。形而上学というのは、自然科学にとどまらず、シンクロニシティやそれに連なる深層心理学や魔術、占術、あらゆる哲学、宗教、さらには真実など存在しないという体系すら、それらが明らかな矛盾を含まない限り、内包するのである。

これらの中の実践的追及は、人生の意味を構築する技術になる。例えば、聖人は『ティマイオス』の記述から魂の内部構造を分析したり、魂と神々、創造神とのアナロジーから、調和に向けて具体的に世界にもたらすべき知恵を想定したり、さまざまな活動が湧出できるのである。形而上学は創造力の源、というのは実はこれを指すのである。

聖人は俗人である。俗人こそ聖人の卵でもある。そこには形而上学というミルクがあるかないかだけなのかもしれないのである。偶然の人生を楽しむためには形而上学は受け入れてはいけない。必然に憧れるなら形而上学を理解するといい。どちらもコーヒーとしての価値は変わるまい。

さすがに今回は密度が濃すぎます。エッセイですらないです。なんでしょう、これ。毎回言ってますが、作品ではあり得ない! さてどうしたものか? いや、たぶんどうしようもないのです。


ちなみに不確定性原理についての考えで最も有力なのは、コペンハーゲン解釈です。ある意味、統計と同じで波束が収束しない理由を説明しません。シュレーディンガーの猫は思考実験だからおかしいのであって、ちゃんと観測すれば結果は出るんだから、そこに余計な機構など存在しないよ、という立場です。これも真実などないよ、という立場の一つですね。ただ、量子言語というのには少し興味を持っています。波束が収束しない理由を説明しない理由を持っているからです。私の体系(理神論)の双対性を持っている気もしてしまいます。-現在勉強中です-。


不完全性定理が形而上学の数学版である、というのは語弊はあるかもしれません。アナロジーとして成立するはずだと思いますが、これは疑う人はちゃんと疑ってくれるとありがたいです。少なくとも数学者並みの理解はありません。逆に数学だけが形而上学だという人もいるので、その場合は数学自身について述べたものなので、形而上学そのものだとも言えるのかもしれません。「矛盾なくシステムを組んでも、正しいとも間違ってるとも言えないものはある。そしていつ矛盾が出てくるかなんてわからない」。第1第2あわせて文芸的に表現するとこんな感じ。数学を深く探究すると、もっと世界がわかるかもしれない。頑張ろう。



※シュレーディンガーの猫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB


※EPRパラドックス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

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