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愛と楽しみと幸せの無限に広がるコレクション

俗人性はアップ! 文章は支離滅裂!

聖人は魔王であるお金とは直接対決しないことに決めているようではある。聖人の本音を言えば「戦って勝てる気がしねえ」という語録があるから、実にヘタレである。とはいえ、聖人が自分を聖人だと思い込むほど、実は聖人も自分を聖人だとは思っていない。聖人は自分の中に本能が眠っていて暴れだそうとするのを常に感じているし、こいつを飼いならすのには苦労しているのである。なにしろ、お金に対して憎しみすら感じるのは本能のなせる業だと、ほぼほほ正しく認識している。

聖人は自分がもし大金持ちだったら、それでもやはりお金を憎むだろうか?という想定はする。そして、憎むべきだというのは聖人の人間なのであり本能ではない。ちなみに聖人の中の神は「地球が危なくなったら何とかするからまあ見てないさいね」と実に適当なことを言っていたというが、聖人自身も自分の中の神の発言は当てにならないことも知っている。

聖人の人間は分析する。聖人はなぜこんなにお金を課題としてしまうのか。理由は3段階あるというのが聖人のとってつけたような分析である。1.お金はそもそも虚構である。2.お金で人が殺される。3.お金に憑りつかれた人が醜悪でキモい。1はカール・マルクスの分析でも見るがいい、と聖人はいうが、聖人は意外にマルクスは嫌いだという。そりゃそうか、聖人が評価するのはマルクスよりもヘーゲルだ。ヘーゲルが精神世界が現実だと言ってるのに、マルクスはそれを全く理解することなく、現実を変えなくてはいけないという逆立ちをしたわけだ。うんうん、哲学者ってみんなアホだよね。

ところで、お金の虚構性についてもっと簡単に言えば、以前にも述べていることだけど、お金は恣意的な道具であり、お金でなくても通貨となるものはあり得る。ゆえに絶対的なものではなく、実体ではなく虚構なのだ、となるらしい。やっぱりよくわからない。「自分で書いていてわからないとは何事だ、わかるように言え」?

「いやいや、そうは言われましても、これってわかる人は説明しなくてもピンと来ることで、わからない人には100年説明し続けても首肯しないことですよ。わからないというよりわかりたくないのです。わかる人はわかりたいのです。人間の言葉なんて、その程度の力しかないのですよ。経験させてもわからないのに、空疎に見える言葉にそこまで力があると? そう、人間は自分の信じたいことを補強する言説は複雑な理屈も喜んで受け入れるけど、信じたくないことはどんなに前提も整って論理も理路整然としてても受け入れないのですよ」。とまあ、何の言い訳?

ただ、聖人はその構造は現実世界でよく見ているので「信じることほど人間にとって危険なことはないなー」とか思っていたようなのあるが、最近は「それでも自分の中の神様は信じた方がどんな試練にも耐えられる機能がついてるから楽じゃね?」とか日和っているそうである。聖人は夢や人の言葉どころか、道端の看板や舞っている埃からも神のメッセージを感じる、という変人だし、自分が築き上げた宇宙や世界に対する理論体系が「どう考えても私が編み出せるような代物じゃねぇ」という理由で責任放棄したいようである。つまり自分の中の神の仕業にしたいそうなのであるが、一般人から見たら自分の中の神という方がよほど痛々しいことに気がついているのか、いないのかが微妙である。

どんどん脇にそれている気はするが、もう気にしない。なんだ、この小説? 小説と言い張りますか? そうですか? まあ、お金の虚構性は信用が失われたら無価値になるとか、いろいろ言えるわけだが、それでも聖人は嫌いとはいえ、マルクスの貨幣論は高く評価する。労働の搾取というのも共感を得やすいポイントだが、共感をあまり重視しない聖人が2つ目にあげるのはもっと実質的な人間的な課題である。つまり「お金が人を殺す」現実の異常性である。

実存的価値のある人間という言い方に見られる通り、聖人は尊厳ある人間が形式に過ぎないお金と天秤にかけられるのが実存的に耐えられない。ここに苦しみを感じるからこそ、聖人は自分に実存的価値を認識するし、そこに共感する度合いで実存的価値を有すると見なす。実存をそんな単純な物差しで測るな、というのは正しいと思われる。聖人だって、実存が質の概念である以上、数値化できるわけがないとは思っているが、いくつか概念的に量化できる可能性はあると思っていて、その一つがこれである。

ちなみに他には、世界への理解度を筆頭に、そこから派生する、愛の含有率とか、他者との(心理的)分離度とかもあるし、悩みの深さや苦悩への対決姿勢など、さまざま考察を巡らせているようであるが、賛同しそうにない他者を説得できそうにはない。それでも「人格」とか社会性・関係性を「能力」とか自律性・自立性に対立する構図として考える見方を強めている。ここには女性原理と男性原理が潜んでいるが、これ以上はまた別の機会にしたいと、切実に思う。「本当にこれ以上の脱線はやめて欲しい。読んでる人がいるとは思えないがあまりにもむごいだろう?」。いや、気にしないんじゃなかったか?

ともかく人間の尊厳を最大の価値と置く聖人は、お金と人間の尊厳が天秤に乗ることが本当に我慢できない。マイケル・サンデル氏が市場で扱うべきでないものについて考察を巡らせているが、そういう考察の正常さが市場に訴えることでどうにかなるものでもないことも聖人は認識している。それが必要な運動であり、聖人もそれを読んでいる以上、とても有意義な行為だとは理解するが、決定打にならない。とはいえ、こういうのはじわじわと気づきが広がっていって、突然、バズる(同時代・同地域の人以外が読んでたら意味わかるのかな?)なんてのもあるかもしれないので、油断は禁物である。油断? むしろ100匹目の猿で喜ばしい? そういえば100匹目の猿という実験は不備があったとか何とかだが、聖人はそこまでは確認していない。

どうせ脱線しやすいからこそ、この形式の小説なので、とことん脱線させていただく。(とはいったい誰に断っているのか?) そもそもこの手の実験は因果関係の実証にならないので、実証されないところまで主張したらオカルトだと聖人は言う。「魔術や占いを平気で取り入れるくせにお前が言うか?」と反論されそうだが、聖人は客観的に証明しようと思わなければ、主観的な範囲で用いるのは何の問題もない。何か問題が? と開き直っている。シンクロニシティで説明できると息巻いていたこともあるが、シンクロニシティがそもそも前提となる議論は一般には展開できない。

さらに脱線する。そういえば、人魂をプラズマで説明できるという教授のことを聖人は科学者として失格と辛辣に言い放ってもいる。曰く「物理実験や理論の俎上に載せる問題ではない。プラズマでの説明は人魂の説明に対する必要条件でもなければ(プラズマで説明できたとしてもその他の解釈は残る)、ましてや十分条件ではない(プラズマが人魂として認識される機構を完全に説明しきるわけではない)。ゆえに必要十分条件ではあり得ない(人魂はプラズマの錯覚という説は絶対でない)。最初から方法が無理筋」とのこと。それを必要十分条件でした、というような態度は、説明できないことには沈黙するという論理実証主義に反しているだろう?というわけである。「語り得ないことには沈黙しなければならない」。語り得ないことの区別もつかないのか?

いったいあの教授は「想像力」を何だと思っているのか? ヒューム(縄が蛇に見えたが、よく見たらやっぱり縄だった、みたいな認識の動きの事例など)を本当に知らないのか?とかなりご立腹である。ちなみにその教授の単位を落とされたわけではない。ホントだよ。(まあ、研究資金が必要なんだろねとか納得してみる。いや、必要な研究か?というのはわきに置こう)。ちょっと熱く批判を展開したが、聖人も自信がない部分もないわけではない。あれ? 十分条件と必要条件の内容は入れ替わってないよね?

さて話を一番最初のお金に戻す。聖人がお金を問題視する理由の3つ目だが、これは聖人もつ、1.お金は虚構だという世界観、そして2.お金が人を殺すという異常倫理に対しての認識があるがゆえに、それに対しての関心や反省を見せずに投資や為替取引に興じている様を気持ち悪いと感じるということである。そういうトレーダーたちに言わせれば妬みひがみ、というのだろうが、そこまで含めて聖人は彼らを人類の害悪とまで言う。

「お前らこそ、無責任殺人犯だ。返り血すら浴びないで人を殺しまくるとはまったく人間としての風上にも置けない。もはや人間じゃなく動物だ。いや、動物に失礼だから、魑魅魍魎だ。本能のむき出しだ。マジキモい」。まったくこの時は聖人に聖人の欠片は見えない。実存的価値ゼロだからとっとと天に召されてしまえ、とすら思っているし、信用する親しい人には表現する。要するにお金の魔王の暴走した手下というのが彼らという解釈である。

彼らこそ、お金に何の概念も当てはめていない。それなのに数字だけはゲームのように動かしているである。その数字は生活と結びつく人が大勢いるのだよ、という主張は全く効果的に無視される。ちなみにこの視点は、ミヒャエル・エンデやシルビオ・ゲゼルなども主張していることだから、目新しいことはない。そして聖人は過去に経済学者との議論の中で、彼らの著作と内容を指摘したところ、”Don't read!”というありがたいアドバイスをいただいて呆れたことがある。読まないで判断できるか? それともお前の判断は神の判断なのか? このような権威主義者は確信犯なのだろうか? 確信犯だとしたら人間として劣悪だし、確信犯でなければ著しく無知な上に傲慢である。

天に召されてしまえ、は言い過ぎだろうと思うのであるが、聖人が俗物を丸出しにしているのは見ていて楽しい。天に召されろという表現もかわいい。え? 見てるの誰? という冷静なツッコミは今更なしの方向でお願いします。聖人は己の俗物性も楽しむのだが、このお金の問題については熱くなりすぎるので、ここで俗物を発揮するのは比較的恥じる傾向はある。さすがに相手が殺人犯だという確信があっても、天に召されろは自分も同列になるだろ?とわりと冷静に自分にツッコミを入れているようではある。

結局、聖人はお金の問題を、1.お金はそもそも虚構である(神の視点)。2.お金で人が殺される(人間の視点)。3.お金に憑りつかれた人が醜悪でキモい(本能の視点)、の聖人を構成する心の3要素全てから否定されるので厄介だと思っている。1は動かせない。2も事実。1、2の前提がある限り、3は不可避、である。一般の人は、1には気がつかない、2には無頓着、1、2がないので3は無縁、なのである。さてどうしたものか?

3の本能に関してはそもそもが聖人はそれを飼いならすことを、苦しくも楽しみな日常としているから問題は少ない。2も課題として大きいが聖人の人間としての機能が及ぶところではないし、倫理とは立場の問題でもあり実に微妙である。だとすると1なのだ。聖人は多くの悩みの解決を通して、精神的苦痛の背景に原因の存在を確認している。その原因を除去、解消、無害化することにより、悩みは解決し苦痛は回避されている。

精神的問題に原因があるという事実は、物理学が現実世界の秩序であることと組み合わさると、世界の秩序が存在することの傍証となり得るのではないかと考えるし、世界の秩序はほぼ神であることから、聖人は「地球が危なくなったら何とかするからまあ見てないさいね」という神という妄言を当てにならないとわかりつつ、期待するのである。しかして、ここに至って、3の本能を制御するに至る。問題は解消はしないが、沈静化はしたのである。

なお、さらに世界秩序という考えの下は「存在するものには全て善なる側面と悪なる側面がある、絶対善とは存在であり、絶対悪とは存在しないことである」と聖人は考える。だから残虐なトレーダーの善なる側面を無理やりひねり出す。そもそも聖人の価値観では死は単なる通過点だし、生と死は等価である。その意味でいけば、殺すくらい別に?なのかもしれないし、その価値観を体現しているのがトレーダーなのかもしれず、その価値観への挑戦とも見ることもできる。

どちらにしても気がつかないこと、無頓着というのは精神の幼さであり、つまり聖人が大人だとすると、彼らは幼児なのだ、という視点も得られるのである。幼児の遊ぶ砂場がビジネスのフィールドであり、大人はそんなところで真剣に相手をしては疲れるのである。幼児たちが砂場そのものを壊してしまうようなら、さすがに神たるご老人がちゃんと幼児たちを叱ってくれるに違いない、うんうんそうだそうだ、という視点からも、聖人に出来ることはなく、戦術は「待つ」一択なのだと気がつかざるを得ないのである。

そして冒頭の記述になるわけである。こういう無駄な思考こそが、生きる醍醐味だというから聖人はやはりおかしな人である。現実的な答えは出なかったけど、概念の理解は広がった。聖人が楽しむのはこういうことである。楽しみや幸せについても、愛と同じようにこの聖人はコレクションしているようである。本当に俗人である。

いつまで小説だと言い張れるのでしょう? そもそも文芸評論の域すら逸脱してます。自由すぎる。これは作品ではないね。それだけは確かだ。

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