経済的価値のある人間と実存的価値のある人間
『地下室の手記』篇はいったん終了です。少し聖人さんの現在の闘争を書きます。俗物成分少な目。ごめんなさい。
聖人はお金を敵とする。ゆえに彼に支援者など望めない。魔王の正体はお金だと看破したとして、勇者の歩みを助ける村民がすでにその支配下だからだ。聖人はかなり俗人であほなので、残念ながらその構造を正しく認識している。そもそも魔王はお金だと言ったとして、聖人自身はどちらかと言うと自分も魔王に近いことに気がついている。つまりお金も魔王なら、聖人もまた魔王なのだ。どちらにも正義などなく、単なる生存競争だというのが正しい。おそらく神はこの戦いが灰色な結果に終わることを望んでいらっしゃる、と聖人は分析する。どっちが潰えてもコレクター観点からはもったいないからだ。
人間にはこの観点で二種類に分けられると聖人は考える。一つは経済的価値を持つ人間、もう一つは実存的価値を持つ人間だ。一つ目の人間はお金という外部の指標によって査定され評価される人間であり、二つ目の人間は自分が抱く概念の価値によって重み付けがなされる人間である。前者は数字を友とし、後者は意味を友とする。前者が量ならば、後者は質である。神の意図する灰色というバランスは、定式化すると、前者の持つ質と量の積と後者の持つ質と量の積が大きく逸脱しないことを言う。地球上に人間が溢れれば、量が増え質は低下する一方で、一部の被差別、被虐待の実存的課題は大きくなるので、量は極端に少なくとも質が異様に高い人間も生み出される。
ところで、実存的な問題というのは言ってみれば、「一体人生とは何なのだ」という問題に尽きる。そこに意味を当てはめるのが概念であり、その概念にも相対概念と絶対概念があると聖人は分析する。そういうことの具体的なことは述べだすときりがなく、読んでる方も述べている方も飽きるのでこの辺にするが、この「一体人生とは何なのだ」を深く追及するきっかけとなるのは、実存的人間の世界に対する経済的人間の物理的侵攻である。質がない人間が、量で攻めてくるという感じである。ゴキブリの大群に人間がなすすべがなく、なんだこの劣悪な環境は、と嘆く様に似ている。この嘆きがいつか技術と結びつくとたとえば殺虫剤の開発となり、質が量を駆逐する時代も来るのだが、現代社会は有力な技術の一つである科学も量の陣営に取り込まれているため、実存的人間は形勢が圧倒的に悪い。
もちろん、実存型人間つまり質の人間には、経済型人間つまり量の人間にはない特徴はある。創造力の無限である。力に対しては知恵、欲に対しては愛情、不安に対しては信用、など別の方法論でもって柔軟に対応する。経済型人間の享楽に対して、実存型人間は作品の創造で生きる。消費者と供給者の関係であり、それで神の望む灰色のバランスがとれているのなら、もちつもたれつであり、魔王同士も平気で地下で秘密協定を結ぶ。
ここで問題はもしかするとお金の魔王にも制御できないほどの経済的人間、つまり手下の暴走なのである。なにしろ聖人は苦難を味わうのが仕事であるとはいえ、物理的な存在はほぼ消滅しかかっているし、経済の暴走は地球という舞台をも破壊しかねない勢いである。これは経済的人間が科学を味方につけたのと関係している。実存的人間は本来は科学とは親交を結んでいた。世界を理解し成り立ちを調べ人類の文化の基礎として機能していたのだ。ところが経済的人間はこれを単なる技術と見なした。すなわち文明を作り命を伸ばし生活を快適にした。この結果、寿命だけが延び質は低下、量だけが異常に増えた。
質の低下は経済への妄信、さらには生活の改善をもたらした科学への妄信にもなった。実存的人間が正しく評価していた科学の内容は失われ、科学の外形だけがもてはやされたのだ。特に理論物理の素養のない人間によって提唱された遺伝子の神話は、経済的人間の実存的素養を根こそぎ奪い取った。そのため経済的な価値はもはや人間の価値の概念と結びつかず、意味を持たない単なる数字へと転落しつつある。証拠にこの世界では「不労所得」なる素晴らしい空虚が、疑問を持たずにまかり通っているではないか。
聖人は実存サイドの人間でありながら、お金とも十分に理解し合えるだけの魔王の領域にあると自負するくらいのとんでもない俗物である。そう、お金を愛と感謝のイメージと言ったアレである。そのため、お金の魔王とはそろそろ地下で手を結んで、経済的人間の質を実存的人間の知恵を提供することで上げると同時に、実存型人間についてはその経済価値を認めることでこちらの量も上げようではないかと、取引を持ち掛けようとはしている。これはいわばwin-winではないかという話である。
しかし、ここで恐らく問題となるのが男性原理である。これは根深い優劣の思想だからだ。聖人は一切、量と質どちらに価値があるかという話はしていない。だが、数式を見ると悟れる人間は悟るのだ。経済的人間、つまり多数派の構成員は個人で見ると価値が低いという事実に。これは男性原理人間にとっては死活問題である。実はこれまでの地球上で、魔王同士の和解が常に決裂し、神の自然現象が調停してきた歴史はこの力学によるのである。国の滅びはほとんどがこれが原因なのである。ただし、今回はグローバル化が進行しきっている以上、地球が一つの国家である状態であり、一国の興亡ではすまないかもしれない、という話だ。
だからこそ、実存派の聖人は提案したいのだ。みなさん量と質のハイブリッドしない?と。そもそも実存型人間は優劣の価値を認めない。宇宙にそんなものあり得ないと知っているからだ。そして本当に実存を理解していたなら、質の向上とは単なる成長であることを知っている。つまり現在においての質の低さは将来の質の高さへの可能性であり、可能性と見る限りは明らかに成長しきった実存型人間より優れるのである。いわば、実存的人間が大人なら経済的人間は子どもである。大人と子ども、一体どちらが優れているのかという話である。
まあ、それでも受け入れられまい、とは聖人は思う。なので聖人がとる戦略のひとつは、自分の全ノウハウの無料公開であり、自分の身元を明かさないことによる優劣の土俵への参加拒否、さらには特定の師弟関係の廃絶という計画に及ぶ。実際に聖人にとっては人間の価値は、お金にはない、名声にもない、権威にもないのである。これを看破しているからこその、聖人の価値であるので譲れない。むしろ経済的人間に対して、社会的価値のある仕事を恵んで欲しいと平身低頭する始末である。聖人がやりたくないのは、他の人を搾取する仕事であり、無知につけ込む仕事であり、力で圧倒する仕事なのである。人々の感謝に資する仕事であれば率先してやりたいのである。経済的人間の大半も、きっとそんな仕事への従事は辟易しているはずである。そういう人は経済的人間であると同時に実存的人間でもある。
もちろんまだ、現実と理想の間には乖離がある。聖人にもここまでの理念としてのプランはあっても、おそらく実存人間ならぬ経済人間サイドの援助がなければ、現実になしえないことだとはっきり認識している。今、手を取り合うべきは向上心を持つ人間同士であり、蹴落とすことで自分を保とうとする人間に対するいわば防衛協定である。未来を見る人間と過去にしがみつく人間の闘争であるが、しかし未来の人間はけっして過去の人間を蹴落としはしないのである。実力以上の見栄を張り続ける不幸から、名誉を得たうえで解放されていただくのである。
とまあ、聖人は今日も世迷言をコーヒーとともに飲み干す。優劣の思想は本当に根強い。これを緩和しない限りはほとんどの人間がいわれのない苦しみを味わうし、苦しめている本人たちも気がつかないうちに自分の首を絞めるのだ。啓蒙というと怒られるが、では世代交代か。原則回帰か。そういう名目上の問題を模索せねばならぬかもしれないと、理想を高める作業とともに現実にも根を下ろしたいと強く意志するのであった。
ちなみに今日の聖人はショーペンハウアーの『幸福についてー人生論ー』によって自分の立場が、強く擁護されているためにお調子に乗っているのである。まったく本当に俗物である。人間の質の問題をえらく真面目に言ってはいるが、コーヒーとミルクのたとえで言えば、ブラックを愛好するか、素直にミルクや砂糖を入れて楽しむかの違いに過ぎない。聖人はできるだけ素材の味を楽しむ通ぶったいけ好かない俗物であり、普通の人はスパイスや飾りつけも堪能するというだけである。そこに優劣を見出そうなんて、そもそも片腹痛いのである、というと聖人の思想の思うつぼになるのだと、気が付くあなたはなかなか頭のいい方ですなぁ。きっと頭がいいけど、他人の人生に価値を見出さない人に対してが一番説得に苦しむのである。
自分の虚構を作り上げる才能は見限るべきなのだろうか。だんだん日記帳になってきた。






