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男になりたい女と女になりたい男

書きたいように書く。ぶっとぶ。自身を顧みない。

『地下室の手記』の男の苦悩は聖人の過去の苦悩でもあった。厳密に言えば、聖人は『地下室の手記』の男ほど頭はよくなかった。そうこの文章を見ればそんなことは一目瞭然なのだ。聖人がその苦悩を脱出できたのは、おそらくひとえに頭がよくなかったおかげだろう。聖人は思ったのだ。「自分のことが大切過ぎてこんなに苦しむなら、いっそ本気でほかの人のことしか考えられなくなってしまえばいい」。まったく、とんでもないコペルニクスもいたのものである。

しかし聖人は意図せず、そのように生きている人たちを女性の中に見出すのだった。もちろん現実の女性そのものではない。そんな聖女など、この世界のどこにいるものか? 『地下室の手記』の男があったリーザという女性はその性質を隠し持っている。男たちの醜い優劣争いの中で、純真にその苦悩を見て取って寄り添ってしまうさまは、もはや打算などありえない。少しでも頭がよくて、自分を振り返る余地があったなら、人を心から思いやることは難しいに違いない。そしてその見返りがなくても、その心をささげた聖女は一切苦にしないどころか、その思い出を糧に苦しい未来をどこまでも歩んでいけてしまうのだ。

聖人には聖人なりの女性たちとの思い出がある。それはむしろ彼を根底から苦しめ続けたものである。結論として彼女らはけっして聖女なんかではなかった。だが、そんな交わりの中で見た彼女たちの本質には、自分を度外視することの効用は強く学び取れるのだった。特定の対象と結びつく愛にも、十分にその兆候はあった。だからこそ聖人は愛する対象を失うたびに苦しんだ。彼は常に守り切れず奪われる側だった。自分の宿命を呪い続けた。

「自分のことを中心に考えるとつらいならば、本気でほかの人だけを考えればいい」。あるところまで正解であった。だが、その対象を守れないときには自分が傷つくよりも苦しむのだった。そして聖人はさらに突拍子もないことを考えるに至った。「もはや世界というシステムの全てを愛してしまえばいいのだ」。ありえないような破壊的なコペルニクスだった。いや、アインシュタインでもありシュレーディンガーでもあった。正確に言えば、おそらくはヘーゲルだった。

ニーチェは強い一つの人格を目指しこう言った。「超人」と。しかし、聖人は意図せず真逆を進んだのだ。「自分の人格を宇宙に与えてしまえ。そうすれば、私は宇宙であり神である」。もちろん、こんなのは妄想に過ぎなかった。あいも変わらず聖人を襲う現実は厳しかった。ただ、この妄想はひとつの価値を見出した。「宇宙とは物理ではなく概念である」。聖人とて物理的に宇宙が同化できるわけがないことはわかっていた。だから、聖人は心を宇宙に同化させようと目論んだ。そのためには宇宙は物理ではなく、概念、つまりは心である必要があった。

はっきりいえば、そんなことはどうでもいいのである。聖人はとことん逃避したのである。ニーチェやドストエフスキーが厳しい現実を見つめ続けるのをしり目に、さらに効率よく自分を騙したのである。それでも彼が学ぼうとしたのは女性であった。もちろん全ての女性ではない。彼は愛情が深く、慈悲深い女性を観察したのだ。彼女らはひときわ目立って静かに美しかったから、聖人にはすぐわかった。そして彼が最終的に抽出した彼女らの徳は、優劣という概念に流されない、という点にあった。こんなことは現実の女性に当てはまるものであるわけもない。集団というのは優劣を持たずにはいられないのである。

ただ、優劣というのは実に男性的であり、組織的でもあった。だが、なにより聖人の興味は家庭にあった。だから、その信頼関係ではなく、利害関係を軸にした人間の在り方に、一切興味がなくなっていた。むしろそれらこそが聖人を傷つけ続けたものであった。聖人はそれら傷つけたものをシステムとして憎んだ。それらの業に飲み込まれた人間にはむしろ憐れみを感じるに至っていた。聖人は、そのシステムに由来する業に目を向けようとしない、その無知すらもがその罪のメタシステムとして機能しているのを知って絶望しかけた。

『地下室の手記』の男は少なくとも無知ではない。ただ、問題の解決について停滞しているだけである。聖人にとっては『地下室の手記』の男は十分に同志であった。『地下室の手記』の男がその課題を乗り越えられるかどうかはともかく、彼にならば「君自身を傷つけているのは自意識だ。それも周囲に認められないのと反比例して己は優れているという自負そのものだ」と指摘すれば、おそらく理解する、いや、言うまでもないであろうことは確信するのだ。あえて言えば、もはや『地下室の手記』の男は傷つくのを楽しんでさえいる。ただ、自分が自分を裁いている構造を理解できるかどうかは大きい。これこそが宇宙の持つ公正さであり、必然性なのだ。『地下室の手記』の男はそれをわかっていつつ、その先を歩いているとも思えるのである。

聖人は男でありながら女になりたかったとも言える。そして現代社会のディストピアの構造は、女すら男になりたがる世界なのである。だからこそ、聖人は伝えたいと思う。女性は女性のままでいて欲しいと。「ふ、とんだ、似非フェミニストだ。そうやって気取れば、女からモテるとか鼻伸ばしてるんじゃねーぞ」。ふっ、バレたか。でも聖人が女性を活性化させようとするのは、個人的な欲ではなく、深遠な宇宙への配慮だ。現代社会では、女性は男性の欲の圧力を受け、それと戦うために男性化を強要される流れにある。おそらくは差別という手段を使って、女性の中にも分断を発生させる。これは人類から家庭を奪い、次世代の育つ環境を根こそぎ奪うことであり、もはやディストピアでさえ継続不可能になる事態である。

男性は無駄に頭がいい。だが、それを自分のためにしか使おうとしない。だから、いつも己の優位が確保できなくなった時には、激しく他者を憎み害する。これが力の構造である。つまり力を欲するとは、優れているという確信に身を浸したいだけの弱さだ。それを女性は知っていて、そんな弱さに沈む男性を慰めてしまう力を持つのだ。『地下室の手記』の男がリーザを愛せなかったのはつらいだろう。ゆえに彼は一生、彼のままなのだ。

まあ、こんなのが聖人の愚痴なのである。彼の逃避傾向は、俗人のそれ以上なのである。だが、ここまで逃避に成功してしまった以上は、彼も自分の手段に自信を持つ。やがて聖人は概念を手にとって、物理を破壊するだろう。いや、破壊する必要など感じるわけがない。もはやすでに聖人は「宇宙システム」そのものなのだから。

文学は人間の業を暴き出す。人間の醜悪さや卑劣さが自分自身をも蝕むさまを描く。文学に興味のない人間はそんな業とは無縁なのだ。そしてそんな業を作り出すのは決まってそういうやつらだ。文学が娯楽であるのは幸いかもしれない。もし文学が経験なら、説得力あるハッピーエンドでなくてはならない。


って、ごめんなさい。こんな正当化、ひどいよね、ひどすぎるよね、許してなんて言えないよね。

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