現代社会はディストピアであることの間接証明
ドストエフスキーはやはり文豪だと思いました。
聖人はこの数年間、初詣というものに行っていない。神道の神など信じちゃいない、というわけでもなさそうである。聖人は、宇宙は公正である、という形で厳密に神を認めるのだが、祈って叶えてくれる都合のいい神などはさすがに信じてはいない。だが、初詣に行って絵馬に書かれた願い事を読むのは好きなのである。
「家族が仲良く暮らせますように」。うむうむ、なかなかいいテーマだな。「志望校に合格しますように」。勉強頑張ったなら報われてほしいだろうな。「素敵な彼氏ができますように」。ん? どこかに連絡先は書いてないだろうか? いやいやいやいや。まあ、さすがに聖人が昔大真面目に書いた「世界が平和でありますように」というのは漫画でしか見かけないのかもしれない。
さて、ところでもしここで願い事が一つだけ、叶うとしたら何を願うだろう? 慎重に考えてみるといいと思うのだ。まあ、考えてもらっている間に、どんどん話を進めさせてもらうのだが。トマス・モアという作家が『ユートピア』という作品を残している。小冊子にまるごと地上の楽園はどんなものかをつづった力作である。そこには当然、いろいろな価値観の共存が見られて面白いのだ。さあ、願い事は決まったか? この願い事がなんであるかを聞けば、その人がどれだけ自分の人生を真摯に考えているかがわかるものだ、と聖人は言う。何が一番、自分の人生にとって有利になる願いであるか、それを考える力こそ、本当に幸福を得るためには必要なのだと思っているのだ。
聖人の願いは「世界からお金がなくなりますように」である。…と思わせておいて、実は違う。聖人はユートピアをこう定義するのだ。「何度でも失敗が許される世界」と。聖人の考えでは現実があまりにもディストピアである理由は、誰もが成功を基準に考えるからだと言う。そもそも自分が望んだとおりに成功する人はいったい人口の何割なのだ? そして一度成功をつかみ取った者が再び失敗者にならない保証はどこにあるのだ? 要するに成功を基準に考えるから人間は人間を食い物にする性質を持つ。そして誰もが自分は成功者であると見栄を張るから、成功者であるふりすらしてそのためにも余計な労力を使う。
だが、もともと失敗を基準に社会を形成したらどうなのだ? もちろんすでに成功している人間がこれに反対するかもしれない。しかし、考えても見るがいいのだ。すでに成功した成果にしがみついていたら、次に失敗することを恐れて、おいそれと年を取るわけにもいかない。ましてや、自分の子息が愚鈍であるなど我慢できるはずもない。成功が実力に由来するものであってもそうなのだ。それが単なる運だったらどうなるのだ? こんな世界で誰が一体幸せなのだ?
トマス・モアが語るようなユートピアは、それはもうユートピアに違いない。ただ、多様な価値観の共存があるとはいえ、それでも排撃されてしまう価値観はあるだろう。それこそ、成功にしがみついた結果、怨嗟の声で引きづり降ろされた人間を許さない、あるいは、そもそもユートピアの理想は退屈過ぎて賛同できない、といったあり得るものはいくらでも考えられるのだ。その点「何度でも失敗が許される世界」ならどうなのだ? ユートピアの現実を「くだらん!」と言い捨てて去ったのち、「やっぱりユートピアがいいです」と戻ってきても、ユートピアの誰もが、そういうものだよね、そういう気分もあるよね、また嫌になったら出ていってもいいんだよ、とか寛容であったら、もうすべて許されるではないか? こればかりは絶対にディストピアとは言えないだろう。
聖人が考えているのはここまでではある。だが、聖人はこれが本当に実現するための道筋を本気で描いているのである。そのためにユートピアの理想をひとつだけのスローガンにしてしまった。これでうまくいけばいいなと聖人は考えてはいるが、失敗することなど恐れてはいない。聖人は本気で世界平和などを考えるから聖人なのだ。そりゃもう、黒歴史と言われようと、それを中断することなく突っ走るから聖人なのだ。
彼のプライドは己に対する自尊感情であり、自己愛であり、自分の可能性に対する信頼なのだ。なぜ聖人はこんなことをしてしまうのかと言えば、誰よりも俗人だからである。聖人は自分が虐げられることに本当に我慢ができないのである。どんな悲惨な境遇に堕とされようとも、それこそ「それを失敗だと認めない」というあり方で、何度でも自分に失敗を許したのだ。
聖人だって恐れるものはある。なによりも怖いのは自分が成功の地位に酔うことだ。聖人は失敗することの方が気楽なのだ。成功なんかして崇め奉られたときに失敗するのだけは本当に怖いのだ。だから、まず「何度でも失敗が許される世界」を作り上げてから、それから安心して自意識に溺れて失敗し、転落したいのだ。聖人ほど、俗人で臆病な人種はいないだろう。あまりにも臆病なので、宇宙の年齢を数えて「うん、人生が一回限りなんてことはまずあり得ないな。ほとんどの宗教も輪廻転生採用してるしな」とか言い出して、宇宙の公正さが「何度でも失敗を許される世界」であることに本質を見るのだ。そしてついにはそれを信仰ではなく、論理的に確信できるだけの理屈まで編み出してしまうのだ。まったく、とんだ俗人だぜ。
『地下室の手記』の男が成功した人物に苦しめられているのはわかる。なぜ奴が成功したことになって、ぼくが失敗したことになるのだ、と、己の知性における優位さをとりわけ自信を持つからこそ、その境遇に耐えられないのだ。成功にこだわる人間だけが成功していく世界というのは、成功がもたらす恩恵が本人とその取り巻きになるので、明らかにディストピアだ。己の成功などは為した社会や他者への貢献に付随するおまけに過ぎない、と考える人間ばかりではないのだ。そんなのを期待してもダメに決まっている。そもそもが本当に成功するような人間が、お金で女性を買ったりするものか? お金に魂を売ってしまう現実を容認できるような人間が成功者であることに、誰も疑問を持たない世界がディストピアでないわけがない。
もちろん聖人は、ディストピアこそ望む姿だという人間も考慮する。そりゃそうだ、考慮したくなくても現実に存在するものをどうやって否定するというのか。魔法でも使うのか? 確かに聖人の半分くらいは魔法使いで出来てもいる。聖人は本気で世界と一体化するから、自分の問題はそのまま世界の問題なのである。自分を解決することが世界を解決するというシンクロニシティのつながりを持つので、これはもう魔法なのである。そして、こんなことを真剣に述べるあたり、黒歴史まっしぐらなのである。
だが、聖人は自分の身の回りには興味がもてない。興味を持っていた時代はもちろんあったが、視野が一度、人類や宇宙に広がってしまうと、もう身の回りはどうでもよくなってしまう。それでも親密な感情交流は望んだりするものなのである。なにせ愛のコレクターという俗人性はあるのだ。だが、聖人はとにかく臆病だ。狭い意味での利己心を持って接近する人物はほぼ寄せ付けない。怖いのだ。聖人は自分が失敗したときにも、許してくれた人だけを信頼する。また許してくれそうな人も信頼はする。でも自分が変人であることは理解するので、迷惑を恐れて声をかけたりはしない。本当に心が狭いのである。ただ本当に例外もいるのである。そういう例外には裏切られても信じるという信じ方をする。自分から好きな人に裏切られるときには裏切るだけの理由を信じるのだ。そしてそうである以上、理由なく裏切られた例を聖人はあまり持たない。
聖人はついつい熱く語ってしまった。このあたりが俗人である。もっとやさぐれた感じでしゃべりたいのだが、今後に期待したい。『地下室の手記』の男のように相手の鋭いツッコミを想定する余裕もなかったようである。オマージュとはいえ、少し力不足のようだ。
だめだ、単なる論説文みたいになってしまった。つまらない。もっと揶揄するように書きたいのだが、どう自分のアイデアに突っ込んでいいかわからなかった。少し経ったら、二つの立場に分ける構成にするかも。