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聖人とお金の根深い敵対関係

聖人、お金を憎むゆえにお金に憎まれるの巻。

聖人は当然こじらせている。お金が欲しい、と言いたくないばかりに、もはやお金を人類の敵、魔王の正体だとまで言い出すのである。聖人の理屈によればこうなのだ。お金の幸せはゼロマスゲーム。奪い奪われる関係。奪ってはいけないものすら奪えるツール。出来ることならなんでもやってもいいと言う発想もおそらくはお金由来。悦びに盛り上がらない世界の諸悪の根源。とまあ、こんな感じなのだ。

かと言って聖人だってお金を利用するのだ。古のイエス・キリストは「カエサルの物はカエサルに」などと言ったが、聖人もよく文脈を知らないらしい。いや、知ってるけど、今は関係なかった。そういやカエサルは借金の膨大さゆえに権力を強固にしたという、って、いい加減にその衒学趣味やめろ、と叫びたくなる聖人の中の人。だが、聖人のプライドは彼を無視する。

ところで、聖人にはお金を駆逐するプランはあるのだ。聖人はお金の価値をもっと正当に評価すべきだと考えているだけだ。聖人の持つ世界観を理解するには、おそらくとんでもない時間がかかる。聖人とはこの世界の常軌を逸したものを見ているからこそ聖人でもある。聖人はお金の中に概念を見る。聖人はお金を愛や感謝のイメージを重ねるのだ。だから、聖人がお金を払う時は、同時に愛と感謝を表現する。そして聖人はお金を受け取るときに、愛と感謝に値することを示していなければ自分の不正ではないかと感じるのである。さらに聖人は分析して見る。現代社会でのお金と言えば、欲に関するほとんどすべての概念を含んでいるというのが聖人の思うところだ。現代のお金はほぼ万能な交換価値である。しかし、聖人に言わせれば、何でもできるということは何にもできないと同じ、なのである。いったい、どこをどう拗らせたら、こんなにひねくれたものの考え方をするのか、それについてはのちのち、聖人の過去を語るときにでもわかることだろう。

聖人が概念という観点において、お金は、何でもできるであるから何にもできない、と見抜いたのは、ある一面真実となり得る。聖人は少なくとも真剣にそう考えている。たとえば、国家の信用が失われ、通貨を支える基盤が崩壊すれば、万能は無能に一夜にして堕ちる。きっと、聖人が望んでいるのは例えばそんなことなのかもしれない。聖人はある意味、経済活動に専念する人間にとっては不俱戴天の仇なのだ。聖人は自らの不遇をそういう経済界からの追放処置だとまで本気で述べていたことがあるから、妄想だとしても聖人のお金嫌いは相当なものなのである。はて、鶏が先か卵が先か。

だいぶ、『地下室の手記』の男とは趣が違ってきた。そう聖人の自意識はプライドの高さでほとんどが占められているのである。だから、同じロマンチストであっても逆境に揺れない頑なさを持っている。まったく柔軟性というのがないのである。そんなんだから苦労をしょい込むのだと指摘されたとしても、絶対に首肯しない。だから『地下室の手記』の男が平気で女を買う場面に遭遇すれば、わかっているはずなのになぜ自分に負けた?と真剣に悩むのである。そう、彼には弱い人間がわからない。そういう意味で聖人はとっても弱いのである。

聖人がとことん悩むのは、人間の弱さなのである。≪美にして崇高なるもの≫が例え正解だとしても、それに幻惑される必要を感じるわけではない。『地下室の手記』の男が述べるように、人間にとって一番大切なのは自由な意志であると聖人は真剣に思うのだ。生き方に仮に正解があったとしても、それに従うかどうかは自由であるし、従わない場合に罰を下す神などくそくらえだ、と聖人は考えてもいる。

ただし、なのだ。聖人は宇宙には秩序があることを知っている。聖人は己の人生を解釈するにあたって、宇宙は公正なものである、という大きな仮定を持ち込んだ。そして、聖人は自分に降りかかるありとあらゆる不条理を必然として解釈しつくすことになったのである。だから、二二が四であるところを、いや五だと言い張って生活すれば、いつかその破綻は己自身に返ってきてしまう。その構造を見えてしまうようになることが、人生のあらゆる境遇に必然を見出す道であった。そこに聖人はさらなる不条理を感じないでもないのだが、しかしその力学に対して盲目であること、あるいは人生を必然ではなく偶然として楽しむ余地があることに、なんとか納得するのでもある。

いや、本当のところ、聖人は宇宙は公正でよかったと思っている。聖人が嫌だったのは、権威主義的に上から罰を下しやがる神が気に入らなかっただけなのである。罰を下すのが自分自身ならいいのかと、その辺が聖人が聖人たる所以で、羽目を外せない臆病さが垣間見えるのである。聖人は自由を確保するためにはその因果の秘密をとことん探ったのである。そして、いわゆる悪や正義などと言うものはその因果とは関係ないことも突き止めてはいる。

『地下室の手記』の男の矮小な生き方を聖人は、その思考の深さと正確さゆえに賛美する。そして彼は果たして負けたのだろうかという点も思索するのである。聖人は『地下室の手記』の男と根本的に異なり、女性に対して強い幻想を持ち続けたのである。聖人は己の女性に対する幻想を幻想だとは知っていた。女性は男性よりは賢く強いと言えど、生命の危機、女性の場合も極度の地位の転落に瀕すれば裏切りもすれば高飛車にもなるのである。ただ、聖人はそれもこれもお金をまき散らした男どものせいなのではないかと、やはりお金を敵とみなすのである。

実につまらない展開になってきた。聖人が聖人らしくてどうするというのだ。聖人こそ俗人らしくあるものである。だが聖人の俗人性を垣間見ることはいつでも可能である。聖人は自分を聖人だとなどと本気で思ってるところがそもそも俗人である。聖人は昔書いたエッセイを思うのだ。そのエッセイを書いたことが、彼を俗世界から離脱させるための第一歩となったのだから。いずれ、それについて語ることもあろう。ほんとうにつまらない展開だ。もう少し『地下室の手記』の男に寄り添ってくれないか?

聖人と言っているのが本当に恥ずかしい奴だなと思います。だんだん何人称で書いてるかわからなくなってきました。いったい、誰が書いているんでしょう?

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