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コーヒーにミルクは入れますか?

書きたいように書くスタイルはもしかしたらこれしかないのかも。

という理由で書き始めました。

お金が欲しい。この一言を決して述べないために私は聖人となる。つまり、そういうことだ。ドストエフスキーの『地下室の手記』の男が、生活するお金はあったのに、私にはそれがない。彼の本質と私の本質には何の違いもありはしないのだ。だが、私は聖人で、彼は俗人である。

お金というのはミルクだ。コーヒーに一滴たらすと、これまでとは違った味わいが得られる。そして一度たらしてしまうと、もとのコーヒー本来の香りは楽しめない。そして入れ過ぎれば、もはやコーヒーではない。もちろん、コーヒーとは人生である。そう、聖人の私は、コーヒーの本来を死守するために、ミルクを廃絶するのだ。でも、はっきりとわかる。ミルクを入れたコーヒーも絶対においしいに違いないと。

最初から、暴走しているが、この手記は『地下室の手記』の男へのオマージュであり、対抗意識そのものである。私は彼の俗人っぷりに心底惚れつつ、その俗人性を完全肯定したうえで、完膚なきまで優位に立とうという、まさにこれが聖人の俗人性である。ニーチェあたりならきっと「きたねぇぞ、お前、価値観の軸ずらしやがって、本来の現実の力で勝負しやがれ」とお怒りになるところだが、どっこいルサンチマンを看破したニーチェこそ、ルサンチマンだと言ってやるのがこちらの俗人性なのだ。

聖人が欲を否定するなんてのは、俗説に過ぎない。食欲、性欲、睡眠欲。聖人は実に旺盛である。こんなもんを否定しても仕方ないではないか? ただ、これを本能だとか余計な正当性は認めない。うるさい黙れ。ちなみに、お金が欲しい、に関しては事情が異なる。お金というのはそれを純粋に欲する人がいたら、誰でもバカだと正しく認識するはずだ。まあ、私もギザ付きの10円玉を大量にコレクションしたり、聖徳太子の1万円札を後生大事に保管したりする聖人なので、正しくバカだと言ってほしい。受け入れよう。

話がそれたが、つまりそういうことだ。お金というのは本来はなくてもいいもの、道具である。何かの機能を期待され、何かの代理として用いられる象徴である。聖人が欲しいのは、食であり、性であり、睡眠である。聖人の豊かな、と勝手に勘違いしている想像力を巡らせれば、そういうのはお金を経なくても手に入るのである。むしろ、聖人はそういうのを汚いと称する。なぜ、汚いとののしるのかについては、一種のレトリックだろう。聖人は本質から外れたことが嫌いなのだ。じゃあ、何が本質なんだよ、というなら、食であり、性であり、睡眠だと仮に答えることになる。

食や性や睡眠が本質だというなら認めるが、それが聖人の全てなのかと言えばそうではない。ここで活躍するのが自意識である。『地下室の手記』の男の自意識より、はるかに聖人の自意識は程度が低い。聖人の自意識は文句なくプライドの高さで半分以上出来ている。だから、お金のような直接的でロマンの欠片もないものを介して、自分に本当に必要なものを手に入れるのを拒むのだ。何と厄介な性質と思ったのであれば、実に見事な洞察である。じゃあ、何を使って手に入れるのか? つまり、それが愛だというのだ。

「けっ、きたねーのはそっちじゃねーか」。ああ、石を投げないでいただきたい。まあ、厄介な回り道をしているのだが、聖人の言うことは実は後から整合をとることはできるのだ。なぜなら、お金は代理物であり、機能の象徴だと言った。聖人はお金の中に愛や感謝を見出すのだ。聖人が否定するのは、独り歩きしたお金であり、愛や感謝の要素のない、交換価値だというのである。屁理屈だ。その通りだろう。

だから、冒頭に戻る。お金が欲しい。聖人は実はこれを言いたくて仕方がないのである。今はこれを手に入れることはとりあえず置いておこう。聖人は世界を観察しているからよく知っている。純粋に好きなものや興味があるものは、接する機会が多くなるということを。つまり、お金もそうなのである。お金が好きな人はお金を集める人なのである。では、聖人は何を集めるのか? それを愛だ、と聖人はあくまで主張したいのである。

こんな延々と回りくどい話をするのが自意識のなせる業である。理屈を抜いて、どんな手段でもいいから、食や性や睡眠を手に入れればいいのだ。それが普通の人の生活なのである。だが、聖人は言うのだ。私はコーヒーが飲みたい、と。出来ればミルク抜きで、本来の味を楽しみたいと。レギュラーコーヒーならそれもわからんでもない。だが、この聖人はマンデリンだのトラジャだのキリマンジャロだのに関わりなく、インスタントコーヒーでもミルク抜きを楽しむ。うん、これがコーヒーだよね、と。ろくでもないコーヒーはミルクを混ぜて、コーヒーでなくして楽しむのがいいのだよと、聖人の中の俗人は叫ぶ。しかし、聖人は彼よりも自分は優位であるというプライドのかたまりだから、けっしてそれを認めない。

まあ、そんなこんなで聖人は始まるのだ。そして本質は俗人そのものでありながら、その自意識にプライドを加算しているがゆえに、ミルクの追加を認めまいと頑張るのだ。お金だけではない。食や性や睡眠を手に入れるのは、名声や権力も同じである。こちらは砂糖やジャムにでもなるのかもしれない。コーヒーにジャムは合わないが、それを好む人間もいるだろう。聖人の認識では、権力を愛する人間がそうなのである。味音痴の癖にコーヒーをやたらお替りして品不足にするやつが、ジャム愛好家なのである。聖人はコーヒーをゆっくり楽しむから、それは問題にはならない。って、そんなわけあるかー、と聖人は本当は怒っている。だが、いい、それならもっとゆっくりコーヒーを楽しめばいい。なんなら、インターバルをもっとあければいいのだ、などと防衛機制活動を行うのである。

どんどんぶっ飛んでいきます。たぶん。

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