7杯目(シャルトリューズ)
この数日、彼は疲れきっていた⋯
実はあの日以来、彼はまだ1度も風花に伺う事が出来ていない。
美咲さん宅でお酒をご馳走になった次の日、会社に出社すると同僚が入院した事を突然伝えられ、それから彼は一人で二人分の仕事をこなさなければならなくなってしまったのである⋯⋯
その日以来、朝早くに出社して帰宅は毎日日付が変わる頃⋯⋯
自宅に帰っても、嫁と子供はすでに寝ており夕食も残って無く、一人寂しく昨日のカレーをチンして食べる日々が続いていた⋯⋯
◆
土曜日、飲み屋街外れの居酒屋等が並ぶ薄暗く細い路地を進んで行くとその店はあの日と同じ佇まいでそこにあった。
蔦の絡んだレンガ調の外壁に設置されたライトの灯りにポツリとドアと看板だけが照らされて浮かび上がっている。
看板には『Bar風花-kazahana-』と記されている。
あの日と同じ光景がそこにあった。
まるで人を拒むような重厚なドアの取手をゆっくりと引くと、その扉はあっさりと開いた。
同時に程よく空調の効いた暖かい空気が頬を撫でる。
店内にお客さんは一人もおらず、喧騒の全く無い、只静かに音楽だけが流れるあの日と何一つ変わらない店内⋯⋯
店内に足を踏み入れると、カウンターの中には純白のバーコートをぴしっと着こなした美和さんがあの日と同じ優しい笑みを浮かべて立って居た。
「いらっしゃいませ!今日はおいで頂ける様な予感がしてたのですが当たっちゃいました♪」
彼女は笑顔でそう言うと席を勧めて来た。
勧められるままにいつもの席に座る。
彼女はバーコートの腰のポケットから厚紙で出来たコースターを1枚取り出すと彼の前にスッと置き、にっこり笑いながら温かいおしぼりを差し出した。
今日は肌寒かったせいか、温かいおしぼりがとても心地良い。
このおしぼりはビニールに入っていない。
恐らく彼女が開店前に自分で用意している物なのであろう。
「あ、そうだこれを⋯⋯」
一息ついた彼はそう言いながら、鞄からジュラルミンのトランクを模した小さなアルミ製のケースを取り出し、彼女に差し出した。
「これ差し上げます。これは以前お約束していたパイプのセットです。一通り必要な物も煙草も入れているのでそのセットだけでパイプを楽しめますよ。」
「え、宜しいのですか!?何だか申し訳無いです⋯⋯」
彼女はそう言い受け取るのを躊躇っている。
「先日ご馳走して頂いたお礼です。死蔵していた物ですし、美和さんみたいな美人さんに使って頂いた方がきっとパイプも喜びますよ。どうぞ遠慮せずに受け取って下さい。」
彼がそう言うと、彼女は微かに頬を染め嬉しそうに、でもちょっと申し訳なさそうな顔をしながらパイプのセットを受け取った。
「アイルランドのピーターソン社製のベルジック・スムースの銀巻き仕様のモデルです。通称ベルジック型って言われている形でボウル(火皿)が小さくとてもスリムなモデルなので女性向きかなと思い選ばせて頂きました。」
「煙草はピーターソン社のサンセットブリーズと言う品を小分けして入れています。バージニアとバーレーとブラックキャベンディッシュと言う3種類の葉をブレンドしてアマレットの香りを付けている品なので軽い吸い心地と香りで女性でも楽しめるかと思います。」
「中に吸い方を書いたメモも入れているのでそれを参考に試してみてください。」
彼女は手に持ったケースを開け、中に収められたパイプを細い美しい指でそっと撫でながら「ありがとうございます!帰ったら縁側で庭のお花を眺めながら試してみますね♪」と満面の笑顔を浮かべ嬉しそうに言った。
その笑顔を眺めていると、先日お邪魔させてもらった手入れの行き届いた綺麗な庭と美しい満開の桜下で佇む美和さんの姿をふと思い出す。
⋯⋯嗚呼、またあの景色を見たい物だ⋯⋯
彼が1人そう思っていると、彼女はそれを見透かしたの如く微笑みながら手招きすると、「何時でも遊びに来てくださいね。私も狐白も歓迎致しますから♪」と彼の耳元で囁いた⋯⋯
◆
さて今日の1杯目は何にしようか⋯⋯
彼がカウンターに肘を付きながらバックバーのボトルを眺めつつぼんやりと考えていると、美和さんが微笑みながら
「お飲み物がお決まりで無ければ私にお酒を決めさせて頂いて宜しいですか?」
と言ってきた。
せっかくの申し出なので喜んで受けよう。何を出してくれるか非常に楽しみである。
彼女は「お疲れの貴方に今日は回復薬のエリクサーを飲んで元気になって頂きたいと思います。」悪戯っぽく彼にそう言いながら美和さんはバックバーから手のひらサイズの小さなボトルを取り出した。
次に小さな小皿を取り出し、その上に角砂糖を1つ置いた。
彼にボトルのラベルを見せながら
「シャルトリューズ エリキシル ヴェジェタルです。ヴェールやジョーヌとは異なる原初の製法に近い処方で作られるお酒で、リキュールですが甘味はかなり弱くハーブ香が強いお酒です。またアルコール度数は71度あります。」
「これを奄美産黒糖の角砂糖に数滴振り掛けて染み込ませます。」
そう言いながらボトルのキャップを開けると中のお酒を数滴角砂糖に振り掛けた。
次にバックバーから美しい緑色のお酒の詰まった別のリキュールのボトルを取り出した。
「シャルトリューズ ヴェールです。このお酒はカルトジオ会に伝えられた薬草系リキュールの銘酒でリキュールの女王とも称されるフランスを代表するリキュールのひとつです。」
次にクリスタルガラス製のタンブラーに大ぶりのキューブアイスをトングで入れると、そこにシャルトリューズを直接注ぎ入れた。
そしてソーダをなみなみと注ぎ入れると最後にバースプーンで軽くステアし彼の前のコースターにそっと置いた。
目の前のコースターに置かれてた美しいクリスタルガラスのタンブラーに入った薄い緑色のカクテルと、角砂糖の入った小皿を眺めていると美和さんが
「エリキシルはアルコール度数が71℃もあるので、オーソドックスですが角砂糖に染み込ませまるレシピに致しました。」
「シャルトリューズヴェールソーダとトニックウォーターのどちらで割るか悩みましたが、角砂糖を食べながらになるので、よりスッキリするソーダ割に致しました。角砂糖を少しづつ噛りながらお飲みください。」
と説明してくれた。
まずはカクテルから飲んでみよう⋯⋯
グラスを持ち中のお酒を一口飲むと、仄かな甘みと薬草の苦味が炭酸と共に喉を伝う。
次に角砂糖を少し齧ってみると、黒糖の濃厚な甘みと共にエリキシルの強いアルコールと薬草の風味が口に広がった⋯⋯それをソーダ割りですかさず流し込む。
「美味しい⋯⋯身体に薬草の成分が染み渡りますよ。」
彼がそう言うと、美和さんは優しい笑みを浮かべながら
「それは良かったです♪でも今日はもっともっと元気を出してもらいますよ〜♪」
と笑いながら彼に言った。
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正直、タイトルや作品内容、色々悩み模索しています。
読み返す度にこうした方が良いのではないか?となり、加筆や訂正してしまっています。
初めての作品なので、どうか暖かい目で見守ってやって下さい。
3月28日 一部加筆、訂正