6杯目 (にごり酒)
とある日曜日の午後、暇を持て余した彼は近場をぶらついていた。
子供は何処かに遊びに行っている。
妻は家に居るが、夫婦仲が最悪に近い彼としてはあまり家に居たく無い。
元々夫婦仲はあまり良くは無かったが、今回のUターンが決定打になり、今では最低限の口しか聞いてない。
午前中は何とか我慢したが、ギスギスした空気に遂に耐えられず、一服するのを兼ねて散歩に出たのである。
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桜の咲き誇る小道を歩きながらパイプに火を付け、紫煙を燻らす。
今日のパイプはイギリスのdunhill社のローデシアンベントの銀巻きモデルを、煙草は上品な甘さとスムーズな喫い心地のDAN TOBBACCO社のブルーノートを選んだ。
路上喫煙には何かと厳しいこの時代だが、田舎ではそれを咎める人は誰もいない。
畑では農作業の途中の夫婦が畦に腰掛けてお茶を飲んでいる。
のどかな風景が続く道を暫くぶらついていると、足が自然に地元の天満宮に向かっていた。
◆
ここはかなり歴史のある天満宮で、敷地には巨大な楠があり彼の子供の頃はには彼等の格好の遊び場になっていた。
参拝を済ませ、ノスタルジックな気持ちに浸りながら境内を歩いてると、ふと近くにもう一つ小さな神社がある事に気づいた。
何故かその神社が気になりそちらに歩いていく。
境内には市の教育委員会が立てた神社の由来を記した小さな看板があった。
読んでみると、どうやら宮崎にある津萬神社から分枝された木花之佐久夜毘売が祀られている様である。
木花之佐久夜毘売は、酒解子神とも呼ばれ、甘酒を作ってお乳代わりに飲ませたともいわれ安産や子育ての他に酒の神様としても知られている。
参拝を済ませ、せっかくなので境内を歩いてみる
神社の裏手に回ると、木々に囲まれた車がやっと一台通る位の小道があった。
小道を進んで行くとその先に狭い空き地があり、奥には生け垣に囲まれた小さな和風の平屋があった。
古いながらも良く手入れされた家の敷地にはカーポートがあり、小さな赤い車が置いてある。
また、その家の庭には大きな桜の木があり、ピンクの美しい花を満開に咲かせていた。
家の前の空き地を見てみると、たんぽぽ畑の中でコロコロした白い物体がモンシロチョウと戯れている。
よく見ると洒落た赤い首輪をした子犬の様である。
余りの愛らしさに少し近づいて見つめてみると、それは犬では無く白い毛の子狐であった。
驚きながらも子狐を見ていると、子狐がふとこちらを向いた。
子狐は彼をジッと見つめ、一声鳴くと平屋に向かってゆっくりと歩き出した
そして何度も振り返りながら彼に向かって「ついておいで!」と言わんばかりに鳴く。
彼は戸惑いながらも子狐について行く。
門をくぐると、子狐は建物の右手に有る庭に向い歩いて行く。
子狐に続いて庭に出ると、彼は驚きのあまり固まってしまった。
そこには舞い散る桜吹雪の中、一人の美しい和服の女性が佇んでいた。
「え?美和さん...!?」
そこにはあの日以来、彼の心の片隅に居続ける彼女がそこに居た。
まるで一枚の絵画の様な美しい光景に見惚れていると、足元の小狐が「お連れいたしましたよ!」とでも言うように一声鳴いた。
ゆっくりと彼の方を向いた美和さんは、春の陽射しのような優しい笑みを浮かべながら
「あら、お久しぶりです。本日はお散歩ですか?」
と彼に問い掛けてきた。
彼女に、実は夫婦仲が悪く家に居づらいので時間つぶしに出歩いている⋯とも恥ずかしくて言えず、彼がもじもじしていると、彼女は
「こうしてお会い出来たのも何かのご縁です。せっかくですし此方でお茶でも飲んで行かれませんか?」
と縁側を指差しながら誘って来た。
せっかくの美人のお誘いを断るのも申し訳ない。促されるまま小さな縁側に腰を掛けた。
「少しお待ちくださいね♪」
美和さんはそう言い残すと、いそいそと家の中に入って行った。
彼はその後ろ姿にぼんやりと見惚れながらも大人しく待つ事にした。
少しすると美和さんがお盆に萩焼の煎茶のセットと小皿に桜餅を乗せて戻って来た。
慣れた手付きでお茶を入れると、「八女の星野村のお茶ですよ♪」と言いながら彼にお茶を差し出した。
そして「こちらは私が作った桜餅です。お口に合えば良いのですが⋯⋯」と小皿に乗った美味しそうな桜餅を差し出した。
何を話して良いかも思い浮かばず、二人で桜を眺めながら無言でお茶を飲んでいると、美和さんが突然何かを思い出した様に「あ、せっかくですし貴方にはこちらの方が良いかもしれませんね!」と言うと、また部屋の奥にパタパタと小走りに走って行ってしまった。
お茶を手にあっけに取られていると、足元に居る子狐とふと目が合った。
子狐は「やれやれ仕方ないご主人様っすね〜」みたいな表情を浮かべながら頭を振った。
⋯なんか人間くさい子狐だな⋯彼はそう思いつつ、お茶を一口啜ると桜餅を口に運んだ。
口の中に甘い餡と塩漬けの桜の葉の風味が広がる。
⋯彼女の手作りと思うと余計美味しいな⋯彼はそう思いながらまた一口お茶を啜った。
◆
少しすると美和さんが一升瓶とお盆を持って戻って来た。
お盆の上には江戸切子の片口酒器とぐい呑みが2つ、それと小皿にほぐした鶏のささ身が乗っていた。
彼の横にフワリと座ると、一升瓶を彼に見せ
「せっかくですから花見酒と洒落込みましょう♪お酒は宮下酒造の極聖 純米大吟醸 にごり酒です。雄町米を精米歩合50%まで精白した純米大吟醸のにごり酒で非常に珍しい品なんですよ。」
「はい、狐白にはこれね⋯」
彼女はそう子狐に言うと縁側に鶏のささ身の入った小皿をそっと置いた。
子狐はきちんと皿の前に座ると皿の中身のササミを嬉しそうに食べ始めた。
「さ、私達も♪」
美和さんはそう言うと彼にぐい呑みを手渡し、お酒を注いだ。
彼も美和さんのぐい呑みにお酒を注ぐと軽く乾杯した。
暫し二人は無言で庭先の満開の桜の花を見つめながら盃を傾ける。
静かな庭先に満開の桜の花びらが舞い踊る。
隣を見ると嬉しそうにぐい呑みを口に運ぶ美しい女性。
彼に取っては夢のような時間が過ぎてゆく。
⋯この時間がずっと続けばいいのにな⋯
彼がぐい呑みを傾けながらぼんやりと考えていると、隣の美和さんとふと目が合った。
すると彼女は彼に向かって優しい、しかし何処か悲しそうな笑顔を浮かべながら彼にそっと言った。
「お辛そうですね⋯貴方はお顔は笑って居られても、心は泣いておられますね⋯」
「どうか辛い時には何時でも風花に来てください。バーは港⋯旅に疲れた船が身体を休め一時の安らぎを得て、次の旅へ旅立つ場所です。」
「そしてバーテンダーは止まり木⋯バー(止まり木)、テンダー(優しい)、『優しい止まり木』という意味です。止まり木だけじゃただお酒を置く板です。でもそこにバーテンダーがいるから、バーにテンダー(優しさ)が生まれます。」
「私は風花に来たお客様が元気になって帰って頂きたいのです。酒は百薬の長、適量の酒はどんな良薬よりも効果があると言われています⋯」
◆
静寂が辺りを包む。
時折吹く春風に桜吹雪が舞い踊り、鳥のさえずりが微かに聞こえる庭先で、彼は何とも言えない暖かい気持ちに包まれていた。
手に持ったにごり酒の入ったぐい呑みをグッと煽ると、美和さんがそっと空いたぐい呑みにお酒を注ぐ⋯
暫し無言で盃を傾けていたが、彼は一声彼女に
「ありがとうございます。貴女の言葉で何だか少し救われた気がします⋯また近い内に元気を貰いに寄らせて頂きますよ⋯」
と伝えた。
彼女はにっこりと笑い
「それは良かったです。でも幾ら百薬の長でも飲み過ぎたら毒になりますからね♪」
と悪戯っぽく言った。
どちらとも無く二人で笑い出す。
⋯ああ、今はこの素晴らしい時間を暫し楽しもう⋯
彼はぐい呑みを傾けながら一人呟いた。
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3月に入り、仕事が多忙な為に更新が暫し滞ります。
3月27日 内容を一部改正