18杯目(ジンフィズ)
長らく更新出来ずに申し訳ございませんでした。
これからも少しづつですが話を進めていきますので宜しくお願い致します。
季節が夏から秋に変わり、日が暮れるのが早くなり空気が少し冷たく感じる様になって来た。
週末のこの日も彼は一人であの店に向かっている。
彼の手にはケーキの入った小箱。
このケーキ、実は彼の息子の同級生の家がケーキ屋を営んでおり、有名店で修行されたご主人の腕が良いので彼はたまに其処を利用している。
家には一応、嫁と子供の好きなフルーツタルトを置いてきた。
彼の手の中にはこれから向かう店の店主への土産にオペラが数個入っている。
甘い物が大好きな彼女の満面の笑顔を想像すると、彼も自然と顔が綻んで来る。
人通りの少ない街灯に照らされた生活道路を目的の店に向い少し早足で歩を進める。
さて、今日は何を飲もうか⋯そんな事を考えながらてくてく歩いていると、街頭に照らされた道路脇のちょっとした駐停車スペースの前で彼はふと足を止めた。
そこには品川ナンバーの古い国産のスポーツカーがアイドリングの状態で停車していた。
車は彼の記憶が正しければ、時代が昭和から平成に変わる頃に販売されていたフェアレディと呼ばれた車。
30年以上前に造られたその車は、品の良いフルエアロで身を固め透き通るようなクリスタルホワイトで塗装され、その車体に傷やシミは一つも無くまるで新車の様な輝きを放っている。
しかし良く見てみるとフロントノーズの部分には細かい飛び石で付いた傷が幾つも付いており、超超ジュラルミン製ホイールに組付けられたハイグリップタイヤのサイドウォール部分は僅かに溶けており、ワンオフで作られた大口径チタンマフラーからはハイチューンエンジン独特の腹に響くような重低音のアイドリング音が響き、この車が見掛け倒しで無い事がわかる。
そしてその車の横には高級そうなビジネススーツに身を固めた一人の女性が、何かを探しているのか地図アプリを立ち上げたスマートフォンを手に辺りをキョロキョロ見廻している。
腰まで伸びた軽くウェーブのかかった美しい金髪と、まるでギリシャ神話に出てくる女神の様に整った顔立ちが特徴的な一目見たら絶対に忘れる事の出来ないゾッとする程美しい白人の女性である。
目的地が見付からないのか現在地が解らないのか、彼女はキョロキョロと辺りを見回すと、手に持ったスマートフォンの地図アプリに目を落とし、また周囲を見回す。
彼女は困った顔をして暫し考え込んでいたが、不意に塀の上にちょこんと座って彼女の様子を見て居た一匹の黒猫に何か話しかけた。
彼が呆気に取られながらその様子を見ていると、何と驚いた事に黒猫もまるで彼女の問いに返事をするかの様にニャーニャー彼女に鳴いている。
何度かそのやり取りを猫と交わした後、彼女はにっこりと微笑むとバックから何かを取り出すとその猫に食べさせた。
「⋯ち、C○AOちゅーる⋯」
なぜそんな物を持っているのか⋯彼が呆気にとられてその様子を見つめていると、黒猫はあっという間にぺろりとそれを食べてしまい満足げに一声鳴いた。
その猫の頭を優しい微笑を浮かべながらゆっくりと撫でた彼女は猫に手を振り車に乗り込もうとする際、呆気にとられている彼と眼があった。
冷たい程の美しさを湛えたブルーの瞳から目が離せない。
暫し見つめ合ったあと、彼女は表情を崩してフッと彼に微笑むと、彼に近付いて来た。
余りの出来事に彼が銅像の様に固まっていると、彼女は彼の耳元で「Увидимся снова♪(またね、色男♪)」と囁き彼の頬に軽くキスすると、振り返りもせずに車に乗り込み走り去って行った。
その場に残されたのは、頬に口紅を付けて呆けている彼と1匹の黒猫のみ⋯。
「一体、何だったんだ⋯」
「ニャア⋯」
彼の呟きと黒猫の泣き声が夜の帳の広がる住宅地に響いた。
気を取り直して飲み屋街を冷たくなった夜風に吹かれながら少し早足気味に歩いて行く。
飲み屋のネオンや赤ちょうちんが夜の闇に鮮やかに浮かび、店から微かに聞こえる喧騒と良い匂いが彼の心を掻き立てる。
たまには新鮮な刺身や焼き鳥を摘みに冷酒を一杯⋯とも思ってしまうが、誘惑を振り払い飲み屋街の外れに急いで足を進める。
人一人すれ違うのがやっとの飲み屋街の細い路地の先にその店はある。
蔦の絡んだレンガ調の外壁に設置されたライトの灯りにポツリとドアと看板だけが照らされて浮かび上がっている。
看板には金属製のプレートが埋め込まれており『Bar風花-kazahana-』と記されている。
入り口に本日のおすすめ等を手書きでボードに書いて出す店も多いが、この店にはその様な物は一切無い。
「⋯相変わらず商売っ気が無いな⋯」
彼は妙に頑固な店主の顔を思い浮かべ苦笑いしながら入り口のドアの取っ手に手を掛ける。
まるで人を拒むようなマホガニー製の重厚なドアの磨き上げられた真鍮の取手をゆっくりと引くと、その扉はあっさりと開いた。
開店したての店内は清浄な少し冷たい空気に満たされている。
隅々まで綺麗に清掃されたチリ一つ落ちて無い店の奥のカウンターの中に今日もその女性は居た。
「いらっしゃいませ。そろそろ来て頂けるんじゃないかと思っていました♪」
グラスを磨きながら彼女は笑いながら彼にそう言った。
身長は160センチ後半位か、スラリとしたスタイルの良い身体にシミ一つ無い純白のバーコートを纏っている。
腰まである艷やかな黒い髪をポニーテールに束ね、銀の髪留めで纏めている。
この髪留めは以前、彼が秋田に行った際に秋田銀線細工の工房で見かけて彼女にプレゼントした物である。
日本人形の様な整った顔立ちが特徴的な物凄い美人さんだ。
この人がこの小さな店のオーナーであり店長でありバーテンダーでもある桜庭美和さん。
素晴らしいバーテンダーの技術を持っているのだが、彼女の経歴は一切不明。
何処の店で修行したのかも全く分からない。
以前彼女に聞いたことがあるが、「いろんなお店ですよ♪」とはぐらかされた、非常に謎の多い女性である。
そんな事を考えながら店内に足を踏み入れると、美和さんは微笑みながら彼のいつもの指定席にスッと腰のポケットから取り出したコースターを置き、彼に席を勧める。
「はい、これはお土産です。」
席に座った彼がそう言いながらケーキの入った小箱を彼女に渡すと、彼女は満面の笑みを浮かべながら「ありがとうございます〜!あの店のケーキですよね、美味しいんですよね〜!あ、いくつかありますね。後で彼さんにもお出し致しますね♪」と言いながら小箱を受け取った。
しかし彼女はケーキの箱を受け取りながら、何かに気づいたのか彼をじっと見つめると眉を顰めて「猫の気配がする⋯」と呟いた。
「⋯あれ、この歌は⋯」
カウンターに座り、彼女が差し出した暖かいおしぼりで手を拭いていると、彼はふと流れている音楽に気付いた。
スピーカーから流れて来た歌は、英語で歌われているが間違い無く現在社会現象になっている大正時代を舞台にしたあのアニメの挿入歌だ⋯
美しいオーケストラの旋律と優しい歌声が店内に流れる⋯
「私、この作品大好きなんですよ。」
ケーキの箱をウキウキしながら冷蔵庫に入れていた彼女がそう言った。
主人公の仲間の一人の金髪の子が美和さんのお気に入りらしい。
普段とシリアス時のギャップが良いとか⋯
この曲が使われた回はファンの間では神回と呼ばれ、彼も何回も観たものだ。
「今度イベントでこの曲を使おうと思ってるんです。形になったら貴方に一番最初にご披露致しますね♪」
⋯え?イベント?何の?⋯
彼が驚き美和さんに問いかけたが、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてウィンクすると「まだ内緒です♪」と彼に言った。
「さて、本日は何をお飲みになりますか?」
満面の笑みを浮かべながら美和さんが問い掛けてくる。
「そうですね⋯今日はジントニックでは無く、ジンフィズをお願い出来ますか?」
彼は少し考えた後、そうオーダーした。
美和さんは一瞬キョトンとした後、満面の笑顔を浮かべ「承知致しました。そうですか〜、今日は彼さんに私のバーテンダーの技術を試されちゃうんですね♪」とイタズラっぽく笑いながらそう言った。
ジンフィズを作る工程にはカクテルを作るのに必要な基本が全て入っているので、バーテンダーの技術を確かめるには最適のカクテルと言われている。
現役のバーテンダーさんと話した際に「初めてのお客様でジンフィズとマティーニを注文される方は身構えてしまう」と聞いた事もある。
⋯いや、そんなつもりは全く無く、ただ単に何時もジントニックではワンパターンだと思って違ったカクテルをオーダーしたのだが、美和さんが妙に張り切っているし、ま、いいか⋯
一人苦笑いしている彼を尻目に、美和さんはバックバーから磨き上げられたシェイカーを取り出すと、次に冷凍庫からジンのボトルを取り出してバーマットの上に置いた。
「ジンはビフィータを使用させて頂きます。1820年創業のロンドンジンで、クリーンで爽やかな飲み口とやや強めに感じられる柑橘系の風味が特徴のジンです。今回は奇を衒わずにオーソドックスなこのジンでジンフィズを作らせて頂きます。」
美和さんはそう言いながらカウンターに置いてあるフルーツが盛られた籠の中からレモンを1つ取ると、軽く洗いまな板の上に置き、研ぎ上げられたペティナイフを取るとスッと真ん中から輪切りにした。
乾いた布巾で刃を拭っている仕草を見つめていた彼はふとあることに気付くと「美和さん、もしかしてそのペティナイフはダマスカス製ですか?」と問いかけた。
彼女は布巾で刃を拭いながら
「はい。このペティナイフは関の刀工さんが打たれた品で青ニ鋼 有色ダマスカス ペティナイフです。毎日使う物なので少し高価かったのですが気に入って手に馴染む物を使っています。」
と言いながら彼にペティナイフを手渡してくれた。
美しい67層の模様が刃に浮き上がり、惚れ惚れするような素晴らしい一品である。
彼がペティナイフを見つめているのを尻目に彼女は次の工程に取り掛かった。
ガラス製のフルーツ搾り器を取り出すと、切ったレモンを持ち、軽く搾り器に当てるとレモンを押し付けずに手の握力で搾り出した。
「ぐりぐり押し付けて搾るとどうしても内部の芯や袋が潰れてしまって苦味や渋味の元になってしまうんですよ。」
彼女はそう教えてくれた。
「1つ、ブレンド」
彼女はそう言うと、バーマットの上に置かれたシェイカーにメジャーカップも使わずにジンをスッと注ぎ入れると、続いて搾り器の中のレモンジュースと小さなボトルに入ったシュガーシロップをシェイカーに注ぎ入れた。
その流れる様な動きには戸惑いは見られない。
彼女が自分の目視での計量の技術に絶対の自信を持っている証である。
「2つ、シェイク」
彼女はそう言うと、アイストングでキューブアイスを掴み、カコッ!カコッ!とまるでパズルを組むように入れていく。
すかさずバーマットの上でボト厶にストレイナーを被せると、次にキャップを被せた。
「ストレイナーにキャップを被せたままボトムに被せると、シェイクした後にキャップが外れなくなっちゃうんですよ⋯」
彼女は彼にそう言うと、シェイカーを胸の高さに少し斜めに構えると、鮮やかに上下に振り始める。
キンキンキン!と店内にシェイクする音が響き渡る。
相変わらず彼女のシェイクは美しい。
基本的な2段振りだが、シェイカーを少し斜めに構えて柔らかく8の字を描くようにシェイカーを振る。
その美しい姿は何時まで見ていても飽きない。
因みにハードシェイクを行う場合はシェイカーを斜めに持っての1段振りに彼女は切り替える。
「3つ、ビルド」
シェイクが終わると、バーマットの上に置かれていた曇り一つなく磨き上げられたバカラのパーフェクションタンブラーにシェイカーの中身をスッと注ぎ入れ、シェイカーのストレイナーを外して中の氷をアイストングで挟んで入れて行く。
始めに大ぶりの氷を沈め、その上に少し小ぶりの氷を2個沈める。
「ソーダでもトニックウォーターでも、炭酸系の飲み物を注ぐ際は氷にぶつからない様に注ぎます。氷にぶつかる事で起きる急激な温度変化でガスが抜けてしまいます。」
美和さんはソーダの瓶を傾けると、氷の隙間を縫うように静かに注ぎ入れていく。
「4つ、ステア」
美和さんはそう言うと、バーマットの脇に置かれた水の入った大型のブランデーグラスの中に差し込まれていたバースプーンを取ると、布巾で軽く拭ってグラスの中に差し込んだ。
因みに彼女の使っているバースプーンは特注で45センチの長さかある。
通常は30センチ位の物が主流なのでかなり長いが、彼女が言うには長いほうが素早くステアが行えるし、所作が美しく見えるから長いバースプーンを使っているそうだ。
差し込んだバースプーンのスプーン部分で氷をゆっくり持ち上げる。
その動作を2回繰り返すと次は軽くステアする。
あっと言う間に美味しそうなジンフィズが完成した。
「お待たせ致しました、ジンフィズです。」
美和さんはそう言うと、彼の前のコースターの上にグラスをそっと置いた。
美しいバカラのクリスタルグラスの中に透明な氷が3個うかび、その中を満たすのは美しい乳白色のカクテルでシュワシュワと細かな泡が立ち上っている。
「頂きます。」
彼はそう言うとゆっくりとグラスに口を付ける。
唇が切れそうなほど薄いクリスタルグラスを傾けると、スッキリとしたカクテルが喉を滑り落ちる。
「レモンが効いてすっきりして美味しいです。流石ですね。何杯でも飲めそうですよ。」
彼がそう言うと、美和さんは嬉しそうに微笑んで、「嬉しい事言ってくれますね。じゃあ1杯、私からサービスさせて頂きますね♪」
と言って新しいカクテルを作る準備を始めた。
グラスを傾けながらその様子を見ていると、新しいグラスとシェイカーを取り出した他は冷蔵庫から牛乳を取り出しただけである。
何をつくるんだろう⋯彼がそう思いながらグラスを傾けつつ見つめていると、美和さんはテキパキとシェイカーにジンとレモンジュースとシュガーシロップを注ぎ入れると、最後に牛乳を注ぎ、おもむろにシェイクを始めた。
そしてタンブラーに中身を注ぎ氷を入れると、それにソーダを注ぎ入れて軽くステアした。
余りの手際に呆気にとられている彼の前にもう一枚コースターを置くと、先程のグラスをそっと置いた。
「はい、ジンフィズです。」
いたずらっぽく微笑みながら美和さんは彼にそう言った。
「え、これもジンフィズですか?」
びっくりして彼がそう問いかけると、美和さんは
「はい、こちらのカクテルは正式名称は『モーニング・ジン・フィズ』と言います。このカクテルは『東京會舘』のレシピです。戦後、GHQの将校達が昼間からお酒を飲んでいると分からない様にジンフィズに牛乳を入れた物をオーダーしたのが始まりだそうですよ。」
と教えてくれた。
一口飲んでみると、独特のまろやかさとがあってこれはこれでとても美味しい。
目を瞑ると、戦後の混乱期にGIの集まるバー⋯其処は別世界だったんだろうな⋯そんな店内で軍服姿の軍人が昼間からカウンター飲んでいたカクテル⋯そんな光景が思い浮かんで来る。
「同じジンフィズでもこうも違うのか⋯また一つ勉強になりましたよ。」
彼がグラスを軽く持ち上げながら美和さんにそうお礼を言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
暫しカクテル談義に花を咲かせていると、突然、ぴくっと何かに気付いたかの様に、美和さんがいきなり入り口の方に顔を向けた。
それにつられて彼も入り口の方に目を向けると、それに合わせるかのようにキィ⋯と小さい音を立てながら店の入口の扉が開いた。
「とても懐かしい気配がしたと思いましたが、やはり貴女でしたか⋯」
美和さんが笑みを浮かべながら小さく呟いた。
其処には先程道で見かけたあの白人の女性が微笑みながら立っていた。




