最後の自分語り
「まとも」の定義がわからないがおそらく私の親族は揃って「まとも」ではなかったと思う。父親はとっくの昔に自殺した。母親は俗にいう統合失調症である。祖母の人格が破綻しているという理由で他の親戚からは縁を切られていて顔を合わせたこともなければその祖母とは私の口から縁を切ったし、唯一面識のある叔父は失踪していて行方不明なのが現状だ。
今年の2月15日、駅で電車を待っていた私は気づけば見知らぬ部屋にいて、視界に入るそれが駅の事務所の天井であるとに気づいたのは、 駅員さんであろう格好をした人に「あー、目え覚めたね」と声をかけられた時だった。見知らぬ部屋で見知らぬ人たちに声をかけられ、訳の分からぬ状況だったが、なぜか全く焦っていなかったことも覚えている。
話を聞けば、「電車が来てるのに、ホームの黄色い線より前でぼーっとしてるもんだからちょっと気になって見てたら、そのまま落っこちそうになるんだもんよ」とのことだった。
つまりはそういうことである。そんな思い悩んでいるつもりはなかったし、死んだら死んだでいいやとは思っていても死にたいとは思っていなかった。それ以来、そういうことは起こっていない。
なんというか、うまく言えないことをこれから書く。
「なんで誰も助けてくれないんだ」とか「なんで自分ばっかりこんな目にあうんだ」とか「もっと幸せな家庭に生まれたかった」とか「どうすればよかったんだろう」とか「眠れない」とか「どうしてみんなと違うんだろう」とか「どいつもこいつも幸せそうでいいな」とか「全員死ねばいいのに」とか「全員殺してやる」とか「もう全部どうでもいい」とか「死んだら何か変わるかな」とか「死ねよ母親クソ障害者が」とか「父親を生き返らせてもう一回ぶっ殺してやりたい」とか「馬鹿は消えろ」とか「てめえごときに構ってる暇なんかねえんだよ」とか「なんで馬鹿にしか好かれないんだろ」とか「どうせ役に立たねえくせに何が『悩みがあるならいつでも聞くよ』だよ死ねクソ」とか「寂しい」とか「こんなに頑張ってるのに」とか「ただ抱きしめてくれるだけでよかったのに」とか「幸せになりたい」とか、そういうのにもう、気づいたら飽きていた。
飽きる。他人を一人大切にするなんて途方もないエネルギーがいる。当たり前だ、命を大事にするってことが軽いはずがない。あとで後悔すると覚悟してダメな方を選択する自分にも飽きる。
不思議なもんで、死にたいなんていうのにも飽きてしまう。決して生きる希望がある訳じゃないけど、ダメな自分を許せないことさえそのうちどうでもよくなる。答えの出ないことなんて無限にあって、それに対して真剣に悩むってことは絶対に必要なことで、どんだけ時間をかけたってどんだけ重く深く考え込んだっていい。諦めるなら諦めるで、それでいい。自分だ。絶対に自分が重要で、自分がつけた色が何色だっていい。何も色をつけなくたっていい。
逃げず、腐らず、毎日ご機嫌に、そんな理想を毎日追い求めて生きていくために今、自分にとって不適切なその感情や虚無感は絶対に重要だ。一生悩み続けて生きていくんだから、今のうちに飽きてしまえばいい。
「悩めるのも若いうちだけだよ」なんて言ってくる馬鹿は殺してしまえばいい。




