雨上がりの夜と戯言
目につくもの全て憎んでいた。何もかも下らないと馬鹿にしていた。汚らわしい、気色悪いと軽蔑していた。
確かに僕は独りで、本当は色々なことが羨ましかった。
僕の10代はそんな風に終わりました。
昔よりも泣くことが増えた。笑うことが減った。怒ることが減って、また泣くことが増えた。叫ぶことが減った。暴れることが減った。口にする言葉が増えた。それでも吐き出し足りない時は、涙が流れるようになった。
あの時間はなんだったのだろうと、ふと考える。閉鎖された世界で、日に日に酸素が薄くなっていく。両手両足に枷をはめられ、首輪で繋がれ、「ああ、こうして人生なんて終わっていくんだな」と諦めていた。死ぬことも許せなかった。残された人の苦しみを知ってしまったから。何より死ぬなんて怖かった。
いつも寂しくなくなる方法を探していた。好きでもない男と仲良くなり、好きでもない女と時間を過ごした。こんなに嘘つきで空っぽな自分を好きになる女性が理解できなかった。自分のことだけで精一杯で、誰かに安心を与える余裕なんて持っていなかった。「必死に頑張って生きているあなたが好き」と言ってくれる人を、たったそれだけの言葉に出会えないかと、泣きながら彷徨っていた。きっとそれすらも贅沢な願いだったのだろうと思う。
この5、6年間ずっと「何もない何か」を見つめ続けてきた。真っ黒か真っ白か、真っ青か真っ赤か、はたまたごちゃごちゃの混色か、姿形も見えず、正体不明の「それ」に絶えず悩み続けてきた。悩み、考えた結果何かが好転したことはほとんどなかったように思う。
いつも意味のない嘘をついて、そのたび虚しい自分が出来上がっていった。それでも、そんな僕にも大切な人たちができた。黙って話を聞いてくれた。一緒に泣いてくれた。何も知らないくせに、泣いてくれた。「お前なんかに何が分かるんだ」と、「部外者が知ったようなふりをするな」と、吐き捨ててやろうと思ったが、なぜか僕よりも泣いていた。わけがわからなくて、頭の中も顔面もぐしゃぐしゃになって、何一つ理解できないまま涙だけが流れた。「おかえり」と言ってくれた。「めんどくさくなんかない」と言ってくれた。自分がこんなにもかまってちゃんだとは、僕も知らなかった。
僕にはどんな可能性があるんだろうと、今は少し思います。あの時死ななかった意味はあるのかなと、今でも思います。
僕は、もうすぐ20歳になります。




