収容所
この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。この家は毒だ。街も、電話も、階段も、家族も、テレビも、毒だ。息苦しい。イライラする。息苦しい。イライラする。不満ばっかだ。嫌なことは嫌な時に起こる。その度に何の関係も罪もないものに当たり散らす。
僕はやっぱり生きてちゃいけない人間でした。俺はやっぱり生きてちゃいけない人間でした。私はやっぱり生きてちゃいけない人間でした。僕も俺も私も生きてるだけで誰かを悲しませ、泣かせ、苦労させ、破壊し、重い空気を充満させ、伝染させる公害でした。文字を打ち間違えるとキーボードを叩き割りたくなる。ごちゃごちゃうるさいテレビは粉々になるまで蹴り飛ばしたくなる。生きててごめんなさい。死ぬことも許してもらえないなら、存在することもしないことも良しとされないならもうどうすれば。
不幸を滲ませる人間はいつか鬱陶しがられると、いつまでも悩みを抱えている人間は腫れ物扱いされると、それが世間の常識だと教えられた。上手に生きなければ。明るく生きなければ。どうすれば上手に生きられたんだろう。先送りにしてきただけだった。向き合わなければいけない現実に目を背けて、普通になることに精一杯だった。普通のふりをしていれば時間が解決してくれると信じていた。逆だった。普通のふりをすればするほど違和感は濃くなった。結局今現在、爆発してしまった。僕は生き方を失敗した。生きるのに失敗した。失敗。人生失敗。お疲れ様でした。
例えば誰かが「死にたい」と言ったとして、それを聞いた周囲の人間は相談に乗るだの、気分転換に誘うだの、優しい言葉をかけるだのするわけだが、その根本にあるのは「この人を助けたい」という意思ではなく、正確には「自分の知り合いが自分の知ってる範囲で死なれては後味が悪い」という都合の悪さからであって、近しい人間が目の前で死なれることの漠然とした拒否感であって、そこまでいかなくとも、誰かが悩んでいたり不満そうな顔をしていた時に相談に乗りたいという思いは、「悪い空気を伝染させている原因を突き止めなければ自分まで汚染されてしまう」という危機回避からくるもので、人間関係なんてそんなもんだ。
優しさと厳しさ。正義と悪。敵と味方。こういう言葉が憎い。曖昧で都合が良くて、この世の良くない部分を凝縮したような、人間の汚い部分を凝縮したような言葉だと思う。
「そんな暗い顔するなよ。気分転換しよう」って、だったらお前みたいなやつは死んでくれ。そしたら今より多少スッキリするはずだから。「いつもお前の味方だよ」って、嘘つけ。悪者になりたくないだけだってことくらいわかってるよ。「何か話したいことあるなら聞くよ。聞くことしかできないけど」って、話したいことが、聞いてほしいことが多すぎてわかんないんだよ。頭がぐちゃぐちゃになって「やっぱりいいや」って言っちゃうんだよ。
こんなクソを心配してくれるような、一緒に泣いてくれるような本当に優しい人は俺なんかと一緒にいてほしくなくて、こんな不幸の根元みたいなやつとは縁もゆかりもないようなところで、死ぬことなんて一ミリも考えたことないようなバカと一緒に幸せになってほしくて、心配されればされるだけ迷惑かけてごめんなさいと思ってしまう。平和な時間を、幸せな時間を奪っていると思ってしまう。俺が暴れているところなんて見られたら、きっとドン引きじゃ済まないと思う。「どんなあなたでも見捨てたりしない」って、絶対嘘だと思う。人を信じるなんて当分していなくて、「この人になら裏切られてもいいっていう人を探す」って、素敵な言葉だと思っていた。でもそう思えるような人に裏切られたら多分俺は本当に生きていけないと思った。だったら何も知らせないまま、何も変わらないままでいいと思った。このまま何も変わらなければ、暗い部分を移すことなんてせずに、優しくて美しいこの人を汚すことなくいられるならそれでいいと思った。
僕が好きになる漫画の主人公は悩みつつもいつも最後、前を向いて生きていくという終わり方になることが多い。特定の誰かと一緒に。生きるのを助け合いながら。羨ましいといつも思っていた。小説や映画の場合は自分の弱さに耐えられなくなって死んでしまうことが多かった。いつも人ごとのようには思えなかった。そういう物語は売れていないことが多かった。やはり自分は必要とされていないと思った。隠していて良かったとその度思った。それが嬉しいとか悲しいとかは特になかった。
今日もきっと眠れない。




