反骨精神
最近の本屋は売りたい本を全面的に押し出してきているから、欲しい本が多面展開されていたりすると売手側の思惑通りになりたくないという葛藤に苛まれてしまう。だから本屋よりも図書館が好きだ。夏休み中の大学図書館の地下一階、階段からもカウンターからも離れた「小冊子集合B」という、移動棚に囲まれて全体的に褪せたエリアが私の居場所だった。花の20代前半をこんなところで過ごす人間がいるはずもなく、経済学部なのに哲学書ばかり漁り、文学や映像の授業ばかり受講する学生などいなかった。それでも私は自分がおかしいとは一ミリも思わなかった。
成人して一番嬉しいのは、行きたくないところに行く必要が本当になくなったことだ。読みたい本を読み、描きたいものを描き、言いたいことを言える。成人した子どもの状態である現在は限りなく自由である。カンテを読もうがハイデッガーを読もうが、そのせいでマルクス資本論が全く頭に入ってこなくてもいいのである。思うに、この世をクソ溜めにした資本主義経済のことなど一ミリも知りたくない。アダム・スミスもリカードゥも私からしたら胡散臭い宗教家と同じである。誰がどれだけ偉かろうが僕たちは言う事を聞く相手を選ぶことができる。
経済学者だけでなく、フィボナッチやラインハルトのようにこの世を支配した数学者の言うことすら我々は大して理解していないのだ。だったら今更、目の前の萎びた上司や先生や教授如きの言うことを理解してやる必要もないだろう。




