「茶番劇」 題目:哲学
大人と子どもは今までもこれからも境界が曖昧だ。この歳になって一つ思うのは、「自分の中につかなければいけない嘘が生まれたとき」がその境目の一つのように感じている。子どもは大人よりも賢く、強く、正しい生き物であり、彼らを守る為につかなければならない嘘もあるだろう。家庭内だけでなく、世界中を見渡してもそういう構造になっているのは明白だ。最も我々からしたらお節介極まりない上に、世界の汚い部分を一つ二つ知ったところで今更手遅れであるのだが。
親が子を産むのは当然である一方で、子どもから大人が生まれるのもまた真理である。同様に生から死が生まれる。果たして死から生が生まれるのは真理であろうか。古代哲学者の大半は輪廻転生を信じ旅立っていった。「死から生が生まれるならば死を恐れる必要は全くなく、死から無が生まれるならば莫大な儲けである」とはソクラテスの言葉だ。資産家も貧民も、何を築き何を壊しても、死んだら等しく無に還る。現在が未来の架け橋だろうが過去の自分が今を支えていようが全部無駄。時々何もかも虚しくなる。私は死を儲けだとは思わない。
しかし、死を損得で考えるようになったのはいつからだろうか。
失うと怖いと思うほどには自分の人生が充実していると評価している証拠ではないだろうか。死んだら全部虚無に還ることを恐れるほどには私は私の人生、ひいては世界を肯定してしまっている。矛盾だ。結局ソクラテスも私も、くだらない資本主義の上に成立した価値観をもとに哲学に望んでいるだけなのかもしれない。そんな矛盾を孕んだとしても、「うるせえ馬鹿」と唾棄できるような子どもであり続けたいと、ふと思った。




