畏怖
22歳になって大切なことが何となく分かってきて、それでも死にたかった18歳の頃と変わらず夏休みは退屈で苦しい。晩夏の夕日はいつも嘲笑するように僕達を見下していて、それでいて絶望するほどに美しいものだから、自分はそろそろ寿命なんじゃないかと錯覚する。
大事なものが崩れ去っていくのを感じる。前歯はきっとなくなる。身体は思うように動かなくなる。視力は落ちる。青春は終わる。昔好きだと言い合った人たちの姓は知らないものになっていく。熱量も怒りも無くなっていって、心身の痛みを感じることも減っていく。
そんな自分がたまらなく怖いのです。
私が生まれてから父親と過ごした時間よりも、死後の時間の方が長くなった。もう声も顔も、匂いでさえ思い出せない。胸を刺すような痛みももうあまり感じない。克服は忘却だ。忘却は老衰だ。真夜中に観る映画の本数ばかり増えていく。今後40年間労働者として生を終えることに今更抗えるほどの怒りもない。中流階級の頂点に立ち、何十年生きようともそれなりの幸せを手に入れられる保証はもう手中にある。
私の人生はもう終わったのかもしれません。
「老人笑うな行く道だ」と人は言うが、行く道を行ける保証はどこにもない。保証がなければ人は不安になり、保証されると人は絶望する。実はもうとっくにかっこ悪い大人になってしまっているのかもしれない。
自暴自棄になって当たり散らしたくなった。ごめんね。




