なし11
こんばんは。台風が過ぎ去ってしまってもう、夏は終わるのでしょうか。定義なんてなくとも、必ず夏が終わる。今年は一体何人が死んだだろう。
一日中、ずっと苦しかった。胸の辺りのグズグズしたした塊と、全身を泥が駆け巡っているような感覚。血が出ているかもわからない。死にたいと思う余裕もなかったが、本当に思っていたらどれだけ余裕なんかなくてもそう思っているはずだから、きっと私はそれほど死にたいと思っていないのだ。壁のあれは穴か、染みか。手がグチャグチャする。キーボードは、痛い。そうして天井を見上げた。後ろには誰もいない。生きたいなんて思わないようにしている。願ったら死んでしまう気がするから。死にたいと思わないようにしているけれど、苦しい。呼吸なんて誰が教えてくれたんだろう。言葉も広辞苑も教科書も本も、結局役に立たない延命装置だった。無理やり引き延ばしているだけだった。何も解決しなかった。全員死んでしまえと本気で思ったし、思っている。私に殺せる人間など誰もいない。自分ですら自分で殺せず、だらだら生きている。過去も今も未来もいつも曖昧だ。自分も他人も曖昧だ。薄っぺらい文章しか書けない。薄っぺらいとは何かもわからないのに。障害者を差別してはいけませんという究極の矛盾。人間は人間だ。一種類しかいない。健常者も障害者も黒人も白人も全部嘘だ。
もう生きるとか死ぬとか終わりにすべきなのかもしれない。自殺とか殺人とかもうしなくて良いのかもしれない。誰も救われず、全員涙も流さずただぼーっと虚空を眺めていれば、世界は良くなるのかもしれない。勉強も仕事も家族も全部必要だから、なくては生きていけないから、幸せも温もりもいつか消え去るようにできているんだろう。私たちが安心して死んでしまえるように。憤怒と諦観と悲哀が、濃く、幾重にも重なり合ったような言葉を吐けるようになったとしても、今と何も変わらないんだろう。自分を大切にしたから死んでしまうんだろうし、殺されたくて愛してしまったんだろうし、とっくの昔に終わってしまったから今生きているんだろうし。罪とか刑罰とか地獄とかもういらないと思う。渋谷の路地裏の空き缶一つ拾ったところで、2秒に1人どっかで人が死んでいる。願ったかどうかに関わらず。
明日は死にたくないと思う。そうやって後何十年と生きていく筈が、明後日死んでしまうのだ。呼吸が止まっても脳が機能しなくなっても人間は死ねない。飛び降りても、手首をどれだけ深く切っても、首をくくっても、新幹線に轢かれても、東京タワーから飛び降りても、人は死ねない。寂しくても、退屈でも、どれだけ後悔しても。
もう1日、もう1時間、もう1分、後ほんのすこしだけ、生きたいと心の底から思った時にしか、人は死ねない。生きたくて生きてくてどうしようもない時、走馬灯なんか見ている暇もないくらい明日への希望を胸に抱いている時にしか、人は死ねない。死にたい時に死にたいと言っても大体死なないから、もうやめるべきだ。死にたいと思うのは、「明日はいいことがありますように」と同じなのだから。本当に生きたいと思えたなら、もう何もかも勝手にする自由が手に入ったということだ。
だから私は全員死んでしまえと、何もかもぶっ壊れてしまえと、心から叫ぶようにしている。




