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前編

「どっか遠くへ連れて逃げようと思ってた」


居酒屋の喧騒が一瞬、全て消えた。


「結局は間違いだったんだけどさ」


明るい彼の声が私に喧騒を取り戻させる。


「妊娠が?」


私の問いかけに彼は頷いた。


「連れて逃げようだなんて、駆け落ちってことですよね?」


畳み掛けるように私は質問を続ける。


「……え?ああ、そ、だね」


少し驚いたように彼はぎこちなく答える。


「本気だった、ってことですよね?」


握りしめたビールジョッキ越しに距離をつめ、小声で仕上げの質問をした。


「え……ああ、うん……いや、でもさ、高二の頃の話だよ?その時はただ必死だっただけで……親とかに言わなきゃいけないし、そうなるのが怖かったのが大半だよ」


なぜか照れくさそうに彼は片手を顔の前で振った。


「……妊娠が間違いじゃなくて、本当に逃げたとしたら産んでたってことですよね!」


「ちょっ……何だよ。昔の恋ばなをお互い言い合うだけって……なにムキになってんだよ……」


興醒めしたのか、彼は不機嫌を隠さなかった。


「す、すみません……」


私はちっとも悪いとは思っていなかったが、しゅんとして見せる。


「べ、別に、いいよ。でも、終わったことだから、たらればの話は勘弁してよ。若気の至りってことでさ」


彼は簡単に不機嫌を取り消した。

そして、私の機嫌を取るようにおどけて笑った。


「はい。分かりました」


私も笑う。

反省したように少しだけ困った感じで……


「う、うん」


ビールはもう三杯目なのに顔色の変わらなかった彼が、わずかに頬を赤らめる。


「じゃあ次は君の番」


これ以上は勘弁してくれ、と肩をすくめて彼が促す。

私は頷いて話し始めた。


誰でも経験してきたような恋のこと。


できるだけ彼が不快に感じない程度に事実を葬りながら、許容範囲の経験を語る。


実際にもたいしたことはないけれど。

本当のことを本当のままに伝えるのは私にはできない。

だって、ほとんど忘れてしまった。


それよりも、私は彼のさっきの話をもっと聞きたかった。


遠くへ連れて逃げようと思ってた、ってすごく、男性的で、そうされる女性はすごく羨ましい。


彼が高二で実際にそんなことをしていたら、当時、専門学校生だった二十歳の彼女に相当な負担がかかっていたに違いないけれど。


目の前で私の話を安心したように聞いている彼は、たった高二で自分の彼女を連れて逃げようと思った………


今、三十歳の彼には考えられないことだろう。

そもそも、思わぬ妊娠をさせるようなことにはならない。


「……君、あんまり長く続いたことないんだね。まぁ、まだ若いしね」


「もう二十三ですけど」


「若いよ。おれが二十三の時なんてそんなにしっかりしてなかったし」


「しっかり……どこがです?」


「だって、おれと結婚するつもりなんだろ?」


「………」


「おれはいいけど、本気なの?おれ、騙されてない?」


「親が間に入ってるのに、それはないんじゃないですか」


「だよねぇ!これってお見合いと一緒だと思ってた」


「もしかして、酔ってます?」


「うん。嬉しくって……舞い上がってる。だってさぁ、君、かわいいもん」


「私、かわいくないです」


「かわいいよ。ちょっと困ったように笑ったとこが」


「………」


私はもう一度、笑う。

もちろん困ったように。


「うっ!それそれ!かーわいい!もう、明日にでも籍入れよう!」


「……」


「だから、今日はおれのとこに泊まっていってよ」


「ご実家ですよね」


「そうでした。すみません」



「今日はもう帰りましょうか。明日もお互い仕事だし」


「……ああ。そ、だね」


「これ、私の分です」


カバンから財布を取り出して、約半額分の千円札を数枚テーブルの上に置いた。


「いいよ。おれが出す」


彼が札を片手で器用に折り畳んで私のカバンにさっと入れた。


「……ありがとうございます。ごちそうさまでした」


無理強いは彼に失礼だと、私はすぐに深々と頭を下げた。


「いえいえ。楽しい時間をこちらこそ、ごちそうさまでした」


にっこりと彼は笑って席を立った。


自宅まで送ってもらい、彼は帰った。

徒歩数分の私の家から見える、彼の自宅に。


「おかえり。どうだった?」


母がいそいそとエプロンのずれを直しながら玄関まで出できた。


「うん。明日から一緒に駅まで行くことになった」


「……そっそう!まあまあ、寝坊しないようにね」


喜びを隠せない母は、声を上ずらせながらリビングへと小走りに戻る。


父に一刻でも早く報告したくてたまらないのだ。


私は洗面所で化粧を落とし、自室に戻る。


部屋の電気は点けないまま、彼の自宅を窓から眺めた。


家々の群れに阻まれて、屋根の部分が小さく見える程度で、窓の明かりさえ確認できなかった。


生まれたときからこの家に住んでいる私、彼も同様にずっとあの家に住んでいる。


こんなに近くに居たのにすれ違ったことすらなかった。


母親同士がカルチャー教室で知り合ったのが始まりだった。


お互いの子供にそれとなく相手の子供の写真を見せて、ひょっとしたら……と淡い期待に盛り上がった計画だった、と後から聞いた。


私は彼の写真を見た時、何も思わなかった。

しかし、母が期待に満ちた目で私の返事を待ちわびていたので、つい、いい人そうだね、と言ってしまった。


母は手を叩いて喜んだ。

オーバーリアクションはいつものことだ。


母は写真の相手が私と一度、食事をしたいらしいと言ってきた。


私は断りたかった。

でも、母の悲しむ姿を目の前で見たくない。

だから、結婚相手の候補として会えるなら、と言った。


私は親の為に普段から早く結婚したいポーズをとっていたのだ。

だから、この私の申し出は不自然ではなかった。

きっと相手は怖じ気づいて断るか、考えさせてほしいとフェードアウトするかどっちかだ。


相手もあながちただの社交辞令な気持ちかもしれないし。


しかし、相手は二つ返事で了承した、と母は涙目で私に報告してきた。

よっぽど姉の婚活がトラウマになっているのだろう。かわいそうに……


どこそこのホテルのディナーを予約するが構わないかとその晩、彼から電話があった。


家電なのですぐそこで両親が聞き耳をたてている。

私は断ることもできずに、せめて、気兼ねのいらない店にしてくれ、と訴えるのが精一杯だった。


そして、実際に会った彼は写真よりも若く見えた。


写真ではスーツで今はカジュアルな服装のせいかもしれないが、まだ男の子、という雰囲気を全体にまとっている。


しかし、私は断るタイミングを笑顔の下で必死に探っていた。


そこで思いついたのが過去の恋ばな暴露大会だった。


私は男が嫌がりそうな恋ばなを捏造する。


それだけの作戦だ。


そうすれば、私から断らなくても向こうから断ってくる。


さすがに親には過去の恋愛が……とは言えないだろう。


でも、彼の恋ばなは私の作戦を潰してしまった。


私はどうしても彼に遠くへ連れて逃げてもらいたくなった。


高二の彼に。


もう高二じゃない彼は連れて逃げてはくれないだろうが、私は諦めていない。


今のところ確実な手札は困った笑顔だけだ。



時間をかけて手札を増やしてきっと高二の彼を引っ張り出してやる。


私はパジャマに着替えてベッドにもぐり、久々の胸の高鳴りを抱えて目を閉じた。





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