プロローグ1
『貴方の悩み、解決します。オーディン』
ぼんやりとオレンジ色の光が照らす古びた壁に、茶色い額がかかっていた。普通なら店名が書いてあるだろう小さな額に、小学生男子が書いたようなすこぶる汚い文字で短い文言が殴り書きされていた。
「ここか……」
あまりにも聞いた通りの外観に、万台龍一はため息をもらした。ビルの合間の細い路地、さらにその路地から伸びた地下への階段を下って、ようやく辿り着いた悪友お勧めの店には、まるで人気がなかった。
「大丈夫かよ」
人ごとながら、龍一は心配になった。今は四月後半、ゴールデンウィークが始まったばかりの時期だ。観光客も多く、皆外出するであろうこの時期にガラ空きでは、経営はかなり苦しいのではないだろうか。人の悩みを解決するどころか、悩んでいるのは店主の方だろう。
しかし、数多の店を渡り歩いた明石が勧めるだけあって、立ちこめる雰囲気は悪くない。煉瓦造りの壁に、チョコレートのようなこっくりとした照りのある扉がどんと立っている。昨日今日作ったのではない、ゆったりとした風格が感じられた。触れると木肌は温かく、龍一を歓迎するように扉はなめらかに動いた。
普通なら店主か店員が出迎えてくれるものだが、中には誰の姿もなかった。左手に古びた黒いレジスターが見え、その奥には一枚板のカウンターが伸びている。右手には四人がけのテーブル席が二つあった。客がいない店にしては、きちんと白いテーブルクロスがかかり、花まで飾ってある。
「だ、誰もいませんか」
龍一がおそるおそる声をかけると、カウンターからうんにゃあ、と呑気な猫の鳴き声がした。よく見ると、猫が二匹も我が物顔で一枚板の上にいた。いずれも呑気に腹を見せて寝ている。
一匹は全体的に茶色く、ひどく足が短く丸っこい。今、女に人気のマンチカンだろう。もう一匹は対照的にすらりと手足が長い。顔と耳、手足と尻尾が黒く他は白い毛で覆われていた。
「えーっと、お前は何て言ったかな」
「シャム」
「そうだそうだ、シャム猫だ」
一瞬すっきりした龍一だったが、すぐに顔から血の気が引いて行った。今、「シャム」とはっきりしゃべったのはこの猫ではなかったか? 鳴いたのではなく、やけにはっきりヒトに近い、若い男の発音で喋っていた。龍一がじっとシャムを見つめると、この美猫の顔が大きく歪んだ。
「やっべ」
「うわあああああ」
もう聞き間違いでもなんでもない。はっきりこの猫の口が動き、喋るのを見てしまった。龍一は慌てて鞄をつかみ、店から逃げ出そうとして扉に手をかけた。
「あ、開かない!」
さっきはあんなに滑らかに動いた扉が、釘でもうったかのようにびくりともしない。押してもだめ、引いてもだめ、アブラカタブラ開けゴマもだめだった。
「何がおすすめだ明石の野郎! 必ず戻ってブッ殺してやるううう!」
龍一は呪いの言葉を吐きながら、分厚い扉に向かってドロップキックを放つ。扉は揺らぎすらしなかったが、何かせずにはいられないのだ。ひたひたと押し寄せる恐怖から逃れるために、無駄なことでもしていないと気が狂ってしまいそうだった。
「うななー、何ですかー、うるさいですよー」
「姉貴、悪い。ヴェーがしくじりやがってよ。お客さんだ」
「あれま、これは分かりやすく取り乱していらっしゃる」
龍一の背後から、朗らかな女の声が聞こえた。悪魔がまた増えた、と髪をかきむしる龍一の肩に、そっと柔らかいものがのる。その温かさが、龍一を恐怖の世界から連れ戻してくれた。おそるおそる、後ろを振り返る。
「いらっしゃい。私はオーディン、ご用は何でしたでしょう?」
龍一はぽかんと口を開け、己の肩に手を置いた人物を穴があくほど見つめた。
繊細な金細工でできているようなつやつやと光る髪をした、若い女が立っていた。きれいな二重まぶたの下にある、青と緑を混ぜた色の瞳は吸い込まれるような奥行きをたたえている。会って間もないのに、自分の全てを見透かされたような気がして龍一は恥ずかしくなった。明石がここを勧めた理由は、間違いなく彼女だ。
「悩みを、聞いて、くれるんですか?」
「はい、承りますよ」
オーディンと名乗った彼女はにっこりとほほ笑み、深々と龍一に向かって頭を下げた。