【9】グエンという男
私と出会った時、グエンは二十九歳だった。
この若さで、こんな辺境の荒くれ騎士達の一番上にいるのは、異常なことだと私でもわかった。
一体どういう男なのか。
興味が湧いて他の騎士たちに尋ねれば、皆が語るのはグエンの武勇伝ばかりだった。
十代の時に盗賊団を全滅させたとか。
以前熊みたいな魔物が大量発生した際には、一人で始末していたとか。
レティシアの有名な魔術師集団を瞬殺したとか大体そんな感じだ。
グエンは、ラザフォードの人狼とか、狼使いと呼ばれて、恐れられているようだった。
灰色の鬣のような髪と、人間離れした強さ。
それもそう呼ばれる原因の一つだけれど、グエンが狼を従えていることが一番の理由だ。
グエンは狼と意思疎通ができる。
この領土で異変が起こっていち早く知ることができるのは、グエンのこの狼たちのおかげだ。
そんな能力を持つ人間を、私は初めて見た。
しかし、そんなグエンなのだけれど。
出身地や、騎士団に入る前の事を誰も知らない。
グエンというのは、隣の国であるレティシアの言葉で『狼』という意味だ。
確実に偽名だろうに、誰も本名すらわからない。
謎の多い人物だった。
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二年も経つのに、グエンのこと何も知らないな。
ふいにそんなことを思って、騎士たちに聞いてまわっていたら、当の本人がご機嫌な様子で現れた。
「よぉ、リサ。オレのこと嗅ぎまわってるんだって? 直接聞いてくれたらいくらでも教えてやるのに」
「もちろんベットの上でとか付くんでしょ。このセクハラ男!」
尻を触ってきたので、思いっきり振り向き様にビンタをお見舞いしてやれば、グエンは笑いながらそれを避けた。
「ははっ、お前もわかってきたじゃないか。それにしても、そのせくはらっていうのは一体どういう意味だ? よくその言葉つかうよな。褒められてない事くらいしかわからねぇんだが」
「権力を利用して、下の者に性的嫌がらせをしてくる下種に対して使う言葉よ」
そう教えてやれば、面白そうにグエンは唇の端を吊り上げる。
「嫌がらせねぇ? オレとしては愛情表現のつもりなんだがな」
「こんな愛情表現があってたまりますか。私のいた世界なら、訴えて刑務所行きにしてるところよ。それがないから、私が裁いてるの」
右手を翳して、魔術を放つポーズをとってやれば降参だというようにグエンが手をあげた。
「おっかないなリサは。まぁ用は、せくはらにならない関係になれば万事解決ってことだ」
おどけた様子でグエンは肩をすくめ。
次の瞬間、その目が鋭くなったと思えば右手を掴まれてしまう。
手の甲の紋章を包み込むようにされてしまえば、魔術は使えない。
いとも容易く封じられて、悔しく歯噛みする。
ぐいっと手を引かれて抱き寄せられれば、グエンの逞しい筋肉がすぐそこにあった。
「お前が好きだ。オレの妻になれ」
腕の中に閉じ込められて、藍色の瞳で見つめられながらそんな事を言われる。
ふざけてるという感じではなくて、ちょっと焦る。
「なっ、またあんたはそういうことを。からかうのは止めてって何度言ったらわかんのよ!」
「こっちはいつだって真剣なんだがな。この告白、わかり辛いか?」
グエンは顔を近づけてくる。
戸惑いから赤くなった私の顔を見て、満足そうに笑った。
「オレはリサを気に入ってる。このオレを恐れず、ビンタをしようとする気の強いところとかな。それにあの馬鹿どもも懐いてるし、皆もうお前がオレの女だって思ってる」
「気に入られたって嬉しくないわよ。それにあんたがベタベタしてくるから、皆に勘違いされるんでしょうが!」
抑えられていない左手で、グエンの胸をつっぱったけれど、厚い胸板はびくともしなかった。
「大体、会ったばかりの女にいきなりキスとかありえないから」
思い出すのは、騎士団のメンバーに紹介された時の事。
あそこでグエンがキスしてきたせいで、皆の私を見る目が変わってしまったのだ。
「お前もしつこいな。オレのお手つきって事にすれば、多少は襲ってくる馬鹿も減るかと思ったからあぁしたんだって、説明しただろうが」
グエンが私のことを考えてしてくれたんだという事はわかるけれど、やっぱりそれとこれとは別だった。
「まぁ今は、余計な世話だったって事がわかってるけどな。お前はオレが守る必要もなかった」
「……どーせ私は可愛げがないですよ」
古傷のようなトラウマが、一瞬チクリと痛む。
男は皆、私の姉さんのような守ってあげたいタイプが好みなのだ。
私のように自分でなんでもやってしまうタイプは、頼れるねなんていわれるけれどそれだけだ。
グエンもきっと、からかっているだけだ。
それがわかっているから、傷つくこともないのに、今でもやっぱり引きずってしまっている。
本当に情けない。
あれから何百年も経っているのに。
別に姉の彼に対する執着心はもうなかった。
元の世界へ帰りたいという気持ちは、とうの昔に無くした。
ただ、そのコンプレックスだけは胸にしこりのように残っていた。
二度目の恋も、似たようなものだったから。
私はもう、元の時間には戻れない。
自分がこの世界でしてしまった罪を、清算できるなんて思ってはいない。
でも死ぬことも許されてなかったから、ずっと神殿や研究施設を破壊する目的のために生きてきた。
あと一つ。
この地にあるはずの神殿を壊してしまえば、全てが終わる。
終わって後の私には、何も無い。
執着するモノも、時間も。
耳元で狂った時計の秒針が回る音がする。
ヤイチ様はちゃんと終わりを私にくれるだろうか。
もしも、ヤイチ様が終わりをくれなかったら。
――何もない私は、どうやって終わりを迎えようか。
服の下からチェーンで胸に下げていたはずなのに、いつの間にか手の中には、錆び付いた時計の感触。
トキビトが皆持ってるこの懐中時計は、どこかトキビトの心と連動している節があって。
現実での未練を受け入れることを決めて、時計を飲み込めば、その時間へ帰れる。
私の未練がある時間。
それは異世界にあるわけじゃなく、過ぎ去った過去だ。
戻ることのできない、錆びついて、囚われた時間。
あぁ、そうだ。
いっそ、この時計を――
「ひゃぁぁ!」
ぺろりと頬を舐められた感触がして、我に返る。
「ちょ、グエン! あんた人の頬を舐めるなんて、何考えてるのよ!」
「お前が人の話を最後まで聞かないで、物思いにふけるから悪い」
不機嫌そうにグエンは口にして、わたしの体を抱き寄せた。
「守る必要がないくらい強いからって、リサは何でもひとりで背負いすぎなんだよ」
低く溜息混じりに、グエンが呟く。
筋肉質な胸元からトクトクと音がして、熱がグエンから伝わってくる。
「抱えきれなくなったら、頼ったっていいんだ。それをずっと待ってるやつがいるってことをちゃんと覚えておけ」
その声に普段の軽い調子はなくて。
すぐにグエンは私から離れて行ってしまったけど。
グエンのくれた温かさが、まだ私の中に残っている気がした。