【30】新しい家族
グエンの熱っぽい、潤んだ瞳と目があって。
その後は、自然と口付けを交し合った。
てっきりそういう事をするのかなと思いきや、グエンは私をまるで抱き枕のように抱きしめたまま何もしてはこなかった。
「えっと……しないの?」
私からそういう事を言うのはどうなのかとは思ったけど、グエンと触れ合いたかった。
そんなことを言えば、グエンはなにやら葛藤をしているみたいで。
眉間にシワを寄せて私の頬に手を伸ばそうとして、直前で大きく息をついてやめた。
「しない。お腹の子に負担がかかったら嫌だからな」
「……?」
グエンの言葉に思わず首を傾げる。
「リサ、お前妊娠してるんだ。もう妊娠三ヶ月になる」
「えっ?」
一瞬意味がよく飲み込めなかった。
グエンが愛おしむような手つきで、私のお腹に手を当ててきた。
「ここにオレとリサの子供がいるんだ」
ふわりとグエンが幸せそうに微笑む。
こんなにも優しい顔でグエンが微笑んだのを、私は初めてみたかもしれない。
慈しむようにちゅっと私の唇を、グエンが啄ばむ。
「ええっ!?」
驚く私に、グエンは笑った。
「リュリカミルクは、胎児にいいって有名なんだ。母乳がよく出るようになるって話もあって、妊婦によく贈られる。しかもお前吐いてたし、普段食べないすっぱいものまで口にしてたしな。医者を問い詰めたら、妊娠三ヶ月だって言われた」
グエンがそれに気づいたのは、ミサキが私に飲ませたリュリカミルクがきっかけのようだった。
最近やけに吐くと思ったら、あれはつわりだったらしい。
味覚が変わっていたのもそのためで。
ヴィルトの屋敷で医者に見せたときにそれが発覚したようだ。
ミサキは記憶喪失の私を気遣ってか、グエンにはしばらく黙っているつもりでいたらしい。
しかし、つい気を回しすぎて、グエンがそれに気づいてしまったようだった。
計算するとおそらく。
初めての日にここに、新しい命が宿ったんだろう。
全く実感は湧かなかったけれど、グエンはそれを心から喜んでくれているようだった。
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「リサ、これにサインしてくれ」
次の日、グエンに渡されたのは薄桃色の用紙。
少し厚手の紙で、そこには色々文字が並んでいた。
これがどうやらこの世界の婚姻届らしい。
……どこかで見たことあるな。
ふいに旅していた時に、ずっと肌身離さず持っていた紙を広げる。
記憶喪失になった直前に、私の体に張り付いていた紙切れ。
魔術で復元したけれど、あの時の私にはこれが何かはわからなかった。
でもどうしてか捨てることができず、折りたたんで常に持ち歩いていたのだ。
「お前、それ……」
グエンがうろたえた顔になる。
私の持っているこの紙は、グエンに差し出されたものと全く同じだ。
『捕虜でも保護下のトキビトでも何でもないから、勝手にどこにでも行け』
そんな事を言いながらグエンはこの紙を千切っていた。
だから、てっきり雇用上の書類か、トキビトの申請書類だと、記憶を失う前の私もさっきまでの私も思っていた。
「もしかしてグエン、あの時私に結婚を申し込むつもりでいたの……?」
口にすれば、グエンは「あー」とか「んー」とか言いながら視線を彷徨わせて。
観念したように、小さな声でそのつもりだったと呟いた。
「……最後の神殿をお前が壊し終えて、全部が終わったら。プロポーズするつもりでずっと持ってたんだ」
格好悪いというかのように、グエンは片手で自分の額を押さえた。
「なのにお前はカナタと……いや、誤解だって今じゃわかってるんだが、あの時は本当にそうとしか思えなくてだな」
それで衝動的に婚姻届を破り捨てて、どこにでも行けなんて言ってしまったんだとグエンは呟く。
――やばい、嬉しいかも。
顔がにやけてしまうのがわかる。
そんな私を見て、グエンが頬を軽く抓ってきた。
「にやにやするな。オレが恥ずかしくなるだろうが」
怒ったような口調だけど、これは照れ隠しだ。
ニホン語で婚姻届に、私の名前を書く。
そしてグエンに、両手で賞状を渡すかのように手渡した。
「私が……そういう意味で好きなのは、グエンだけだから。赤ちゃん共々、これからよろしくお願いします!」
恥ずかしかったけど、ちゃんと言葉にする。
不安にさせてしまわないように。
婚姻届を受け取ったグエンを見上げれば。
感慨深げにそれを見つめてから、私を優しく抱きしめてくる。
「オレの一生をかけて大切にしてやる。よろしくな、奥さん」
耳元で低く囁く声は、甘くて。
そこから蕩けてしまいそうだと、柄にもなくそんなことを思った。
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真っ白なウェディングドレスに身を包む。
お腹の大きくないうちに式を挙げようとグエンが言って。
気がつけばトントン拍子に話が進んでいた。
ヤイチ様の屋敷の近くにある式場で結婚式は行われることになった。
私としては、できればラザフォード領にあるお城で式を挙げたかったのだけれど。
「リサ、あそこに招待客の何人が辿り付けると思ってるんだ?」
グエンにそう言われて、確かにと笑ってしまった。
「あなたの花嫁姿を見ることができてよかったです」
私をグエンの元までエスコートしてくれるのはヤイチ様だ。
あの日、ラザフォード領で別れてから、ヤイチ様もグエンに協力して私を探してくれていたらしい。
「てっきりあなたはグエンを選んで、この世界で生きることを決めたとばかり思っていましたから、いなくなったことに驚きましたよ」
「心配かけてごめんなさい」
お小言のような口調のヤイチ様に謝る。
「どうして、グエンから逃げたりしたんです。誤解だと説明すれば済んだでしょうに」
ヤイチ様は溜息をついた。
少々呆れているようだ。
「グエンと一緒に歳をとっていけないって思ったら、辛くなっちゃって。ヤイチさ……ヤイチもトキビトなら、わかるんじゃないですか?」
今私はトキビトではない。
グエンと一緒にいると決めた瞬間に、胸に埋まっていた時計は消えて、私の時は動き出した。
でもあの時は、こんな風にグエンと同じ時が過ごせるようになるなんて、全く予想もしていなかったのだ。
そう告げるとヤイチ様は首を傾げた。
「この世界で大切な人を見つけて、想いが通じ合えば、時計は壊れてトキビトではなくなる。私は、事前に教えてあげましたよね?」
「いえ聞いた覚えはないです」
私の言葉に、ヤイチ様は目を瞬かせた。
「あなたが過去に助けた犬がグエンだったという話をした時に、私はそれを伝えたつもりでいたのですが……もしかして、生返事だったのですか。あの時のリサは様子がおかしかったですし」
ヤイチ様は思い当たる節があるようで、考え込んで独りごとのように呟く。
思い返せば、あの時期の私はぼーっとすることが多くて、何か会話をしていても適当に相槌を打つことが時々あった。
「すいません。私がちゃんと伝えていれば、もう少し事態は簡単に収拾できていたのに」
「ヤイチのせいじゃないですよ!」
ぶんぶんと横に手を振れば、ヤイチ様は本当にすいませんと悔しそうにもう一度謝ってきた。
「実はですね。リサがいなくなって、カナタがグエンに対して怒りを爆発させまして。グエンとリサの部屋どころか、城が半壊してしまったんです。それで今城は工事中なんですよ」
ちょっとバツが悪そうに、ヤイチ様は色んなことを教えてくれた。
ラザフォード騎士団のメンバーは交代でレティシアに忍び込み、私を捜し続けていたこと。
それで私を見つけて後は、カナタが魔力の補給ができないウェザリオに、私を追い込む役を担っていた事。
セイジュウロウさんはそもそもヤイチ様の知り合いであり、トキビトを保護したことを知らせてきて、それで偶然私の居場所を知る事ができたということ。
丁度ヴィルトの領土だったので、私と顔見知りのヴィルトとクライスを先に派遣して、グエンの到着まで見張らせていたのだとヤイチ様は暴露した。
「でもよかったです。あなたが錆ついた時計や、狂った時計の方を食べていたなら、こうやって今のあなたに会える確率はかなり低かったと思いますから」
ヤイチ様がほっとしたようにそんな事を呟く。
「そういえば、私時計を食べたのに現実の世界に戻れなかったんですよね。なんとなく食べても戻れない気はしてましたけど、まさか記憶喪失になるなんて思ってもなかったです」
「あの時計を食べても、現実の世界に戻れない例外が三つだけあるんですよ。どれもあの残酷な神様の優しさなんでしょうけどね」
疑問を口にした私に、ヤイチ様が答えてくれる。
「未練がある現実の時間で止まっている時計を飲み込めば、元の時間へ戻れます。この世界の人々に触れて心が動き出したり、現実への愛着はあっても未練が薄れて秒針が動き出した時計を飲めば、こちらにきた時間よりも進んだ現実の世界へと戻ることができます」
これが普通のトキビトの時計ですと、ヤイチ様は前置きした。
ただ三つだけ、現実の世界へと繋がらない時計が存在するらしい。
今回私が食べた時計は『秒針も文字盤もない時計』。
これは、現実への未練も愛着もほとんどなくなって、それでいてこちらの世界も否定して、全てを忘れて楽になりたいと願うトキビトの時計に起こる症状のようだった。
食べても現実へは戻れない。
けれど、全てを忘れて楽に生きることができるようになる。
時に執着を持たず、人にも執着を持つことがなくなる。
例え仲のいい人ができても、自分から遠ざけたり、また忘れて旅を繰り返す『空白のトキビト』と呼ばれる者になるらしい。
もう一つの例外は『錆ついた時計』。
もう戻らない時間に強く執着するトキビトに起こりやすいとの事だった。
大切だったけれど、失ってしまった過去に執着するあまり、現実にも戻れずにこの世界で生きることも拒絶してしまって、この時計を口にした場合は。
失った時間の中で、優しい夢を見ながらずっと過ごすことができるらしい。
つまりは永遠に夢の中。
おとぎ話の眠り姫のように、目覚めることはなく。
永遠に時を止めて、幸せな夢を見ながら眠り続ける。
こうなって目覚めた例を、ヤイチ様は知らないとの事だった。
最後は『秒針の狂った時計』。
これは一番厄介なのだと、ヤイチ様は言っていた。
現実もこの世界も全て拒絶して。
取り巻く時の全てを恨んで、何もかも壊してしまいたいような衝動のままに時計を口にした場合。
そのトキビトは狂う。
狂ってしまえば、何も怖くないし、痛みを感じることもなく生きられる。
この『狂ったトキビト』は、他人の時を自分と同じように狂わそうとしたり壊そうとしたりする傾向があるらしく。
人の不幸を楽しむような、残虐な性格へと変貌してしまうらしい。
そうなれば切り捨てなきゃならないこともあるのだと、ヤイチ様は苦い顔で口にしていた。
つまりこの例外は3つとも、現実もこの世界も拒絶した時に起こる症状のようだった。
忘れたり、夢の中で生きたり、狂ったり。
そうなれば、苦しむ事もなく痛みを感じることもない。
その人にとって救いにはなるかもしれないけれど。
果たして、それは本当に幸せなんだろうか。
私にはよくわからなかった。
でも一つわかるのは。
あの状態は楽ではあっても、決して楽しいものじゃなかったということだ。
辛い事があっても手放したくない幸せに気づいたから、今の私はこうやってここに立っていた。
「……ヤイチって、私に対して結構過保護ですよね」
「友達思いと言ってくださると嬉しいです」
呟けば、私の言葉にヤイチ様はちょっぴり苦笑いする。
その自覚が少しあるんだろう。
「あなたって、どうしてか放っておけないんですよね。何でも背負い込んで、自分だけで解決しようとするような強い女性に、私は弱いのかもしれません」
ふっとヤイチ様は笑う。
まるで誰かを思い出して、慈しむような顔をしていた。
「さぁ、そろそろ行きましょうか。グエンが待っていますよ」
そう言って、ヤイチ様が腕を差し出してくれて。
進んだ先にはグエンが待っていた。
グエンが差し出した手を、迷いなく取る。
にっと悪戯っぽい少年のような笑みをグエンが浮かべて。
それに応じるように、私も満面の笑みを返す。
この異世界に来て、色々あった。
辛い事の方が多かったような気もしていたけれど。
それで今の私があって、グエンに出会えたのなら。
それも必要なことだったのだと思えた。
長い旅が終わってたどり着いたこの場所には、大切な人がいて。
過去の罪や、未来の後悔に囚われるよりも、私はグエンといる今を選んだ。
不安がないわけじゃない。
でも、グエンはいつだって私を待っていてくれるから。
ちょっとずつでも進んでいこうと決めた。
新しい家族も一緒に。
指輪を交換して、グエンと口付けをする。
グエンは私を抱き上げて、そのお腹にキスをした。
きっとグエンはいい父親になる。
男の子かな、女の子かななんて、今から凄く楽しみにしているから。
会場内では、騎士団の皆が男泣きをしていて。
ヴィルトはクライスと一緒に、赤ちゃんのゆりかごをプレゼントしてくれた。
ヤイチ様は微笑みながら、泣いてるカナタにハンカチを差し出して。
ミサキからはおめでとうのメッセージが添えられた、リュリカミルクが大量に届いた。
私とグエンの周りはこんなににぎやかで。
きっとこの子も、気に入ると思った。
――早くあなたに会いたいな。
そんなことを思いながら、私はお腹をさすった。
長くなりましたが、これにて終了です! 読んでいただきありがとうございました!
同シリーズの「育ててくれたオネェな彼に恋をしています」の方に、こちらの完結記念の番外編を上げましたので、よければどうぞ!
あちらの主人公であるアカネと、グエンが何故かおままごとをする話となっています。
★2015/8/18 リサの失踪していた期間を、妊娠周期の関係から「3ヶ月弱→1ヶ月半」 に修正しました。報告ありがとうございます!