【28】私と優しい狼
「体調大丈夫か?」
「平気。ありがと」
朝になってグエンが心配そうに尋ねてきたので、軽い調子で答える。
そうすれば彼は肩の力を抜いたようだった。
「悪い、オレのせいだな。強引に事を運んだせいでリサに負担をかけた」
グエンは反省しているようだった。
「別にあれはあんたのせいじゃないから。ちょっと前からあんな感じなの。医者も健康そのものって言ってたから、心配しなくても平気よ」
別に病人でもないのに大げさなと思ったけれど、それだけ私が吐いたことを彼は気にしているようだった。
「リサさえよければ、側にいてもいいか。何もしないと約束する。なんなら、狼姿になってもいい」
「狼?」
私が尋ねれば、グエンはその場で人から狼の姿になった。
「うわっ、凄い!」
銀灰色の鬣を持った、大きな狼。
凛々しくてとても格好よかった。
「やっぱりリサはこの姿のオレが好きなんだな」
少し複雑そうな声をグエンは出したけれど、触っていいぞと言ってくれたので、思う存分もふもふの感触を楽しんだ。
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その後、狼姿のグエンと共に朝食の席に着く。
「遠慮せずに好きなものを好きなだけ食べてくださいね」
ミサキが準備してくれた朝ご飯。
それは妙に豪華だった。
リンゴに苺に、レモン。
これでもかというくらい、色んな果物が皿に盛られている。
麦芽のパンに、チーズ。
栄養価が高そうなものがずらりと並んでいて。
貴族の屋敷だからこれが普通なんだろうかと、少し驚く。
「リュリカミルクをどうぞ」
ミサキがドリンクを注いでくれる。
あまり飲んだことがない甘いミルク。聞けば海の向こうの島国にしかいない、珍しい動物の乳という事だった。
飲みやすかったのでごくごくと飲む。
「いつもこれ飲んでるの?」
そういえば高校時代、誰かがミルクは胸の成長にいいとか言っていた気がする。
もしかしてこれがミサキの胸の秘密か。
そう思って食い付けば、ミサキは首を横に振った。
「いえ、とても栄養価が高くていいミルクなんですが、貴重なモノなので普段は飲みません。今日の朝、市場を探して手に入れてきました」
どうやら違ったみたいだ。
もっと飲んでくださいとばかりに、ミサキがコップに注いでくる。
「わざわざ買ってきたの? なんで?」
「えーっとそれは……」
尋ねればミサキは視線を明後日の方へ向けた。
なにやら困っている様子だった。
「あ、わかった。狼のグエンのために?」
「そう、そうです! 牛乳だと犬はお腹を壊してしまうと聞いたことがあったので、急いで買ってきたんですよ。そういえば、グエンさんの皿にまだ注いでませんでしたね!」
私の答えに慌てたようにミサキはそう言って、すぐさまグエンの前に皿を置くと、リュリカミルクを並々と注ぐ。
椅子の上に座って行儀良くしている狼姿のグエンは、そのミルクの入った皿をじーっと眺めていた。
「どうしたの? もしかして犬扱いされて怒った? ミサキちゃんの好意なんだからちゃんと受け取りなさいよ」
「いや、それも気になるんだがな。犬用なら安いシャリオミルクがいくらでも売ってるはずなんだ」
小声でたしなめると、グエンはなにやら思い悩んでいる様子だった。
「リュリカミルクは高価だからな。それこそ新婚夫婦への贈り物とか、出産祝いくらいにしか……」
そこでグエンははっとしたように、レモンのスライスを食べている私を見る。
「……お前、すっぱいのはあまり好きじゃないはずだよな?」
「よく知ってるわね。でもなんか最近、味覚変わったのか酸味のあるものが食べたくなるの」
私が呟くと、グエンは椅子から飛び降りた。
「医者の部屋はどこだ!」
「二階上がって左の突き当たりです」
ミサキに怒鳴ったかと思うと、何事かと思う私を置いて走って行ってしまう。
「一体何なの?」
「……きっと家族が増えたことに気づいたんだと思います」
私の言葉にミサキが、意味ありげに微笑んで答えてくれたけれど。
全く、意味がわからなかった。
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「寒くないか? 揺れは大丈夫か? 疲れたなら言え。すぐに止めて休むから」
グエンがことあるごとに私に尋ねてくる。
あの後すぐに私はグエンに馬車に乗せられ、ゆっくりとした速度で王都へと向かっていた。
しかし、グエンは甲斐甲斐しい。
妙にそわそわして、落ち着かない様子だった。
人型に戻ったグエンは、病人じゃないと言ってるのに何かと私の世話を焼こうとする。
馬車に乗っていると結構暇だったので、とりあえず面白い話とかないのと無茶振りしてみた。
そうすれば、少し悩んだ様子を見せて、グエンは自分が記憶喪失だったときの話を聞かせてくれる。
「あんたそんな顔して、苺とホットケーキが好物なんだ……ふふっ」
グエンは記憶が過去にもどって、普段じゃありえない行動を取りまくっていたらしい。
その話はなかなか面白かった。
「大体皆、今のお前みたいな反応するから、普段は隠れて食べてたんだ。なのに騎士団に戻ったら皆知ってて、からかってきやがった」
グエンは、恥ずかしいのか眉間にシワが寄っていた。
ちょっと微笑ましくなる。
「他には何かないの? 記憶喪失でやってしまったこと」
「あとはそうだな……リサにずっと隠してた事がばれた事とかか」
尋ねると、グエンは苦い顔をしてそう口にした。
「何? 後ろめたいこと?」
ちょっと興味があってたずねれば、そういうものじゃないとグエンは真っ直ぐ私の目を見つめてくる。
「雪山でお前を拾ったのが、初めての出会いじゃないんだ。オレは前からリサを知っていて、リサがあの場所に来るのをずっと待ってた。あそこで出会う前からリサの事が好きで好きで、しかたなかったんだ」
それは愛の告白のようだった。
トクトクと心臓がうるさく跳ね出して、顔が赤くなるのが分かる。
「ただ柄じゃないし、狼人だと知られて嫌われるのが怖くて、なかなか言えなかった。でも記憶喪失の間にそれがばれてて。それでもリサはオレを受け入れてくれた」
照れくさそうに、でも嬉しそうな笑みを口元に浮かべながら、グエンが私に語りかけてくる。
熱がこもる瞳に、こちらまで焦がされそうになった。
記憶喪失前の『私』はこんなに誰かに想われる人間だったのか。
「へぇ、そうなんだ」
うらやましく思う気持ちがこみ上げてくるのを感じながらも、その視線に耐えられなくて。
そっけなく、私は目を逸らした。
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グエンは色々な事を話してくれた。
以前の私は人の姿のグエンと、狼の姿のグエンが同一の存在だと、長い間知らなかったようだった。
「狼姿のオレに、色々相談してきてな。オレが以前に胸が大きい方がいいと言ったのを気にしていたらしくて、一緒に寝てるのに何で手を出してこないのかと言われた。もしかして手を出してもいいのか思って、その日の夜それとなく胸を揉んだらビンタされた。酷いと思わないか?」
グエンが溜息混じりにそんな事を言う。
「女心は複雑だからね。特に胸の話はデリケートだから」
「まるで他人ごとだな。あと一応言っておくが、胸は確かに大きい方が」
うんうんと頷いた私に、呆れたようにグエンが何か言いかけたので、反射的にその足を蹴り上げる。
「痛っ! 最後まで聞け! オレはどんなサイズだろうと、触りたいのはリサの胸だけだって言いたかったんだ!」
「余計に悪い! そういうのセクハラって言うのよ!」
真面目な顔で何を言い出すかと思えば。
とりあえず魔術をぶちかましてやろうと手を構え、篭手が装着されていた事を思い出してやめる。
本当にありえない。
なんという男だろうと、そう思うのに。
そんな事を言われる、前の『私』がうらやましいと思う自分がいた。
馬車に揺られる時間はそれなりにあって、その度にグエンと話をした。
よく尽きないなと思うほどに、グエンは私の話をしてくれた。
幼い自分を助けてくれた時のこと、喧嘩してやりすぎたと思う時は、寝る時にグエンに背中をぴったりと寄せてくること。
クールに見えて情に厚く、頼られると答えようとすること。
何でもかんでも自分だけで背負って、解決しようとする癖があること。ひとりが好きなように見えて、実は寂しがり屋だということ。
照れたときとか焦った時の表情が可愛くてしかたなくて、怒らせて構ってもらうのが楽しいという事。
食べっぷりがよくて、そこがとても好きだということ。
いつも酔わそうとするのだけど、飲み比べでは負けて悔しいということ。
これだけ聞けば、グエンがどれだけ記憶喪失前の『私』を好きかは十分にわかった。
恥ずかしいのか眉間にシワを寄せながらも、一生懸命にグエンは話してくれる。
きっと私に自分の事を思い出して欲しいのだろう。
彼の話している『私』は本当に、私なんだろうか。
別の誰かのように思える。
だって、私はこんな風に人に好かれる人間じゃない。
そう思うのに。
これだけ想われている『私』がうらやましくて。
彼が想う『私』が、私ならいいなと思った。
思い出したいな、なんて彼の熱に当てられて思う。
そのたびに胸が痛む。
頭の中で声がする。
――思い出したら、また苦しくなるよ。
いつかグエンも私の前からいなくなるんだから。
大切になればなるほど、失うときが辛くなるよ。
だから、自分から手放したんでしょう?
これは、私の声だ。
――全部忘れてしまえば、辛くない。
何も執着する時間を持たなければ、苦しむこともないんだよ。
これは、私の声じゃないような気もする。
この世界に来る前に出会った、帽子のお兄さんの声に似てるような、そうでもないような。
胸が痛い。時計のある辺りが。
トクトクと波打つ心臓が、早くなる。
私は、何かを忘れてる。
――それは本当に、忘れていいことだったんだろうか?




