【1】記憶喪失な彼
トキビトシリーズの一部で、ナツ様の共通プロローグ参加作品です。冒頭部分は規定のものとなります。単品で読めます。
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。
青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
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「とまぁ、そんな感じであなたが私を拾ったわけ。これはあなた本人から聞いた話なんだけどね」
「そうなんですか」
人が折角話してやっているというのに、目の前のグエンときたら、へぇ~、ふーんなもんで完全に他人事にしか思っていないようすだ。
「あなたの話を総合すると、ぼくはこのラザフォード領を守る騎士団の隊長で、あなたはぼくが拾ってきた居候という事でいいんでしょうか?」
グエンが小首を傾げたが、はっきり言おう。
全くその動作は似合っていない。
ぞぞっと背筋に悪寒が走ったのは、しかたのない事だと思う。
ベッドで上半身を起こして座っているグエンは、三十代の男盛り。
筋骨隆々としたしなやかな体躯に、頬には刀傷。
灰色がかった銀髪に、濃紺の瞳。
一応騎士団の隊長なのだけれど、騎士っていうより山賊ですよねと言いたくなる風貌の男なのだ。本来は。
荒々しい言動に加え、口を開けばからかいの言葉ばかり。
セクハラ?何だその言葉知らねーなと、人のお尻を触ってくるような奴だったのに、これはどうしたことだろう。
気の弱い子供みたいな顔で、どこぞの貴族のお坊ちゃまみたいなオーラを身に纏っている。
ちょっと前にこの領土で大きな戦争があった。
その際にグエンは酷い怪我をしてしまい、それ以来ずっと寝たきりだったのだけれど。
戦争がどうにか終結して約二週間経った今日、グエンの看病をしていた騎士団の新入りが私を慌てた様子で呼びにきた。
グエンが目覚めた。
そう聞いて、私は急いで駆けつけた。
あんな奴でも心配でしかたなくて、無事なのを確認したらきっと泣いてしまうと思った。
けれど、私の涙は全てそこにいるまるで別人のグエンに持っていかれた。
これは一体どういうことなのかと、ただ今混乱中だ。
「ちょっとコレ、どういう事なのヴィルト。私の事居候とか言ってるし、騎士団のことも覚えてないし、自分のことぼくって言ってるんだけど!」
「いや俺が聞きたくて、姐さんを呼んできたんです。もう俺、怖くて怖くて……」
あまりのことに私を呼びに来てくれたヴィルトも動揺している様子だ。
あとナチュラルにヴィルトは私の事を姐さんと呼んでいるが、私はグエンの妻でもなんでもない。
いつもならつっ込むところだけれど、その余裕すらなかった。
私は居候ではなく、正しくは捕虜だ。
色々あって罪を犯し、数年前に隣の国から逃げてきた。
その際に、ラザフォード領で行き倒れになり、そこをグエンに拾われて捕らえられた。
なぜか、今はこのラザフォード騎士団の料理人兼メイドをしている。
このラザフォード領は、ウェザリオという豊かな国の外れにある、険しい山の中にある。
魔力の元となる魔素が不安定のため、天気はいつだって大荒れで、強い魔物がゴロゴロ。
加えて好戦的な魔法大国との国境にあり、元々はそちらの領土だったため、取り返すためによくかの国が攻めてくる。
危険度が高く、住み辛いことこの上ないこの場所。
ここにいるのは、国境を守る騎士くらいのもので、一般人などいない。
誰も進んで来たがらないこの地に配属されている騎士たちは、大抵三種類に分類される。
腕はあるけれど性格に難がある奴。何かしでかして左遷された奴。てっとり早く武勲を挙げたい奴と、こんな感じだ。
つまりは皆、荒くれ者か変人ばかり。
その頂点に立つ男が、目の前のグエンだったりする。
基本ここにいる奴らは、脳の中まで筋肉な奴がほとんどなので、強いやつに従う。
グエンは相当に喰えない奴だったけれど、彼らを従えるだけの強さと、カリスマ性を持った男だった。
隊長がこんな風になってしまったと知ったら、きっと大騒ぎになるだろう。
いつも胃を痛そうに抑えている副隊長が、今度こそ倒れるかもしれない。
ただでさえアクの強い連中が、どうにかまとまっていたのはあまり認めたくはないけれどこのグエンが隊長だったからだ。
「あのさ、グエン。自分の名前わかる?」
「……ぼくの名前はグエンというのですか」
おそるおそる問いかければ、グエンがそう口にした。
「よかった。ヴィルト、名前は覚えてるみたい!」
「落ちついてください姐さん。今の様子だと、姐さんが名前言ったから口にしただけだと思います!」
喜ぶ私に、ヴィルトがつっこむ。
「うっ……確かに」
先の戦争の際に補充要員としてやってきた、新入りのヴィルトという少年は、この城でかなりマトモな部類の人間だった。
難関である王の騎士になりたいのだと、武勲をあげるためにやってきた子だ。
ウェザリオの民らしい、金髪に青の瞳。
真っ直ぐな性根で、なかなか見所のある子だと思う。
すでにヴィルトは、私よりも冷静さを取り戻していた。
「まずは、何か覚えているか聞いたほうがいいんじゃないですかね?」
「そうだね。ねぇ、グエン。何か覚えている事はある?」
ヴィルトに言われて、グエンに尋ねる。
グエンはゆっくりと首を横に振った。
「これ……まさかとは思うけど、記憶喪失ってやつ?」
「やっぱり姐さんもそう思いますか」
グエンを見て呟くと、ヴィルトも同じ事を思っていたみたいだった。
「姐さんいうな。どうしよう、どうやったら治るかな。テレビみたいに叩いたら治ったりしないかな?」
「てれび? よくわかりませんが、隊長を叩く勇気があるのは姐さんくらいだと思います」
混乱のあまりそんな事を言った私に、ヴィルトが答える。
そもそも怪我人を叩くなというつっ込みはないようだ。
まぁ叩いたところで死ぬようなタマじゃないからだろう。
「あっでも、一つだけ……」
「何? 何でもいいから教えて!」
グエンの言葉に食いついて、身を乗り出す。
私の心の平穏のためにも、どうにかして元に戻って欲しかった。
「……あなたのことは知ってる気がする」
ぽつりと呟いて、グエンが私の服を掴んで見上げてきた。
迷子の子供のように心細い瞳で、すがるように。
「不安なんです。側に……いてほしい」
その言葉に思わず固まり、目をしばたかせる。
私の知っているグエンなら、口が裂けても言わない。
こんなことをするキャラでは断じてない。
その落差が酷すぎて、思考がついていけなかった。
「あーやっぱり、好きな人だけは覚えてるものなんですね」
隣ではうんうんとヴィルトが頷いている。
とてもいい少年であるのだけれど、彼もまた変な子ではあった。
最年少で騎士学校を卒業という将来有望っぷりで、貴族の次男坊。
何もしなくてもそれなりの騎士団に入っていい地位につけるのに、彼はわざわざこんな危険な場所へくることを志願した。
一刻も早く彼はこの場所で武勲を挙げて、王の騎士になりたいらしい。
手段を選ばす、騎士なら誰もが嫌がるこの場所にわざわざやってきたのだ。
生半可な覚悟じゃできない事だ。
きっとそれなりの理由があるのだろう。
そう思って理由を聞いたら、好きな人が結婚するなら王の騎士じゃないと嫌と言ったから、早く王の騎士になるためにここにきたらしい。
そんな理由と言っては悪いけれど、それに命を賭けられる彼はかなりの変人だと思った。
好きな人のためになんて口ではよくいうけれど、実際はなかなかできることじゃない。
「だから、私とグエンはそういう仲じゃないって!」
時々ワンコに見えるこのヴィルトという子を、なんだかんだで私は気に入っている。
しかし、この恋愛脳すぎるところはいかがなものかと思う。
私はグエンの恋人でもなんでもない。
そう何度も言ってるのに聞きはしない。
ヴィルトは懲りずに私の事を姐さんと呼んでくるのだ。
「いいから姐さんは隊長の側にいてあげてください。俺、アーデルハイトさん呼んできますから」
城に在駐している医者を呼びに行くため、ヴィルトはドアへ向かう。
とても優しいまなざしをこっちへ向けていた。
何あの気をつかったような雰囲気。
とりあえず、明日からヴィルトだけ、三食奴の嫌いなねばねばした魔物のトマト煮込みにしてやると心に誓う。
グエンの方に視線をむける。
いつもは血に飢えた狼のような、鋭い眼光がそこにはない。
口元には常に人を小ばかにしたような笑みがあるのが常なのに、今は不安な表情で私を見つめるばかりだ。
「えっと……大丈夫。ど、どうにかなるって!」
気休めを口にして、ぽんと肩を叩く。
そうすれば、グエンはその私の手に自分の大きな手を重ねた。
「……不思議です。あなたが言うと、本当に大丈夫な気がする」
私に向かって、グエンが微笑みかけてくる。
にぃっと何かを企むような笑い方じゃなくて、ふんわりと。
ぞぞっと寒気がした。
悪鬼が天使のような顔で微笑むとか、恐怖以外の何者でもない。
何企んでるのと普段なら言うところだけれど、目の前のグエンの纏う空気は純粋で真っ白で、なにより目が澄みきっている。
本当に誰なんだコレは。
あまりにも知っているグエンと違いすぎる。
不気味すぎて、今すぐに叫びだしたい気持ちだった。