十一話
翌朝早朝に目覚めた坂口は、まだ寝ている春香を起こさないよう気遣いながら、三本ラインの黒いジャージに着替えて部屋を出た。
そしていつものランニングコースを走り出し、アパートから数キロ離れた河川敷まで辿り着くと、日課のアクロバットを始める。
側転からのバク転バク宙や、捻りを加えた宙返り等の、様々なメニューを流れるようにこなした坂口は、額の汗を拭いながら朝日を眺めた。
その後坂口は、再びアパートを目指して走り出した。道中にあったコンビニに寄って、二人分の朝食と、飲み物や煙草を購入する。
買い物袋を手に持って帰宅した坂口は、まだ眠ったままの春香を横目にしながら、バスルームに移動した。冷たいシャワーを浴び終えて、グレーのスエットに着替える。
続けてソファーに座った坂口は、買ってきた煙草に火をつけ一服した。
やがて目覚めた春香が、まぶたを擦りながら、ベッドから起きてきた。
「おはよう拓ちゃん、早起きなんだね」
「おはよう春香、よく眠れたか?」
「うん、なんか久しぶりにぐっすり眠れた。あいつがいないからかな。あと、拓ちゃんがそばにいてくれたおかげかも」
「そっか、よかったな。コンビニで朝飯買ってきたから、一緒に食おうぜ」
「うん、じゃあ顔洗ってくるから、ちょっと待っててね」
身体にフィットした、薄いピンク色のスエットを着ている春香は、そう言うと洗面所に向かった。ほどなくして戻ってきた彼女が、坂口の隣へ座る。
「適当にサンドイッチとかおにぎりとか、色々買ってきたから、好きなの食えよ」
「ありがとう、拓ちゃん。じゃああたしは、これにしよっかな」
テーブルに並べてあった幾つかの食料品の中から、春香はサンドイッチを選んだ。彼女のあとに続いた坂口は、鮭のおにぎりを手に取ると、包装を破いてかぶりついた。
「飲み物もあるから、好きなの飲めよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、これにするね。そういえば拓ちゃんは、どんな仕事してるの?」
サンドイッチを食べながら、オレンジジュースを手に取った春香が、坂口に訊ねてきた。
現在無職の坂口は、その質問にどう答えるか少し迷ったあと、当たり障りがなさそうな返事をした。流石に悪党退治で金を得る、正義の味方をやっているとは、言えなかったからだった。
「俺は仕事っていうか、この部屋でパソコン使ってさ、個人で株とかのトレードやって、金稼いでるんだよ」
「へーそうなんだ。拓ちゃんって頭いいんだね。あたしはパソコン苦手だし、株とかも、全然わかんないもん」
「確かに最初は難しいけど、慣れればじゅうぶん生活出来るくらいは稼げるんだよ。でも情報集めが大変だけどな。普段はずっとパソコンとにらめっこさ」
「ふーん、なんか大変そうだね。あたしにはきっと無理だろうなぁ」
「まあ素人は迂闊に手を出さねえほうがいいよ。真面目に働いたほうが、ずっと安定してるしな。俺はほら、会社勤めとかがあんまり性に合わねえから、やってるだけだよ」
「そうなんだ。でもちゃんと稼げてるならいいよね。すごいなぁ拓ちゃんは」
自分がついた嘘に納得した様子の春香を見て、坂口はホッとしていた。が、彼女は再びきつい質問をぶつけてきた。
「じゃあ拓ちゃんは、毎日この部屋にいるってことだよね。それならなんで昨日は、あんな遠い川原に居たの?」
「そ、それはあれだよ、俺はバイクが趣味だからさ、トレードの気分転換にツーリングしてたんだよ。そしたら偶然お前が追われてるのを見かけたんだ」
「ふーん、そうなんだ。ツーリングかぁ。じゃああたしは、ラッキーだったんだね。拓ちゃんがあそこに来てなかったら、あたしあいつらからきっと逃げられなかったもん。あっ、でもさ、あのマスクはなんで被ってたの?」
「あ、あれはその、なんつうか……プロレスやってた時にずっと被ってたからさ、あれ被ってると、なんか力が湧いてくるんだよ。だから大体いつも持ち歩いてるんだ。俺は運動が好きだしな」
坂口は何度も嘘を重ねながら、今のはちょっと苦しい言い訳だったかもと思った。
「へーそうなんだ。じゃあ拓ちゃんは、あのマスクが大好きなんだね」
しかし春香はその嘘に、納得してくれたようだった。
「そりゃ好きだよ、あれは俺の宝物だからな。エル・パラダイスっていう名前の、憧れのプロレスラーが被ってたマスクなんだ」
「エル・パラダイスかぁ。覚えとこ。あっ、あたしもあの黒いマスク嫌いじゃないよ。銀色の飾り付けがなんかシュッとしててさ、カッコいいし」
「だろ? あのマスクの良さがわかるなんて、お前はセンスいいよ」
なんかシュッとしているという春香の曖昧な表現が、坂口にはよくわからなかったが、あのマスクが誉められるのは、素直に嬉しいと思っていた。
朝食を終えた坂口は、春香と並んでソファーに座りながら、テレビを見ていた。どうやら昨日のアキラたちとの一件も、ニュースにはなっていないようだった。
「ねえ拓ちゃん。拓ちゃんに一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
「……ん? なんだよお願いって」
「あたしも拓ちゃんみたいに強くなりたいんだ。だからあたしに、プロレス教えて」
「教えてやってもいいけど、俺があいつらにやったようなやつは無理だぞ。あれは経験者でもかなり練習しないと出来ない技だし」
「うん、それはわかってるよ。だから、あたしにも出来る簡単なやつを教えて」
「簡単なやつか。よし、じゃあ教えてやるよ」
「やったぁ。ありがとう拓ちゃん、あたし頑張って覚えるね」
笑顔で小さくガッツポーズをした春香を見ながら立ち上がった坂口は、彼女と共に部屋の中央辺りへ移動した。何も置いていない広めのスペースに立ち止まり、そばにいる春香に指示をする。
「じゃあ、後ろから襲われた場合の対処法を教えてやるから、まずはそこに立ってろよ」
「うん、わかった!」
春香は元気よく返事をすると、坂口が言った通りにした。坂口はすぐに彼女の背後に回る。
「よし、じゃあ、今から俺がお前に抱きつくから、とりあえずは暴れるなよ」
「うん、わかった!」
坂口はじっと立っている春香のスレンダーな身体を、後ろからぎゅっと抱き締めた。彼女の柔らかさと、綺麗な長い茶髪から漂ってくる、シャンプーのいい匂いを感じながら、次の指示を出す。
「こうされると、動けないだろ? でも頭を上手く使えば、脱出出来るんだよ。で、どうやるかっていうと、まずは自分の頭を前に振ってから、勢いをつけて後ろの相手に、思いっきり頭突きをするんだ」
「うん、わかった! じゃあ、やってみるね!」
春香はそう言うと、すぐに実行した。勢いをつけて迫ってきた春香の後頭部を、後ろにスウェーしてかわした坂口は、彼女の身体を解放する。
「そうそう、そんな感じだよ。そうすると顔面に頭突きを喰らった相手が、身体を離して鼻の辺りを痛そうに押さえるから、そこでサッと振り返るんだ」
「うん、わかった! えっと、このまま振り返ればいいんだよね」
その場でくるりと振り返った春香を見た坂口は、鼻の辺りを両手で押さえた。そのまま彼女に次の指示を出す。
「そしたら相手の股間を狙って、思いっきり蹴りあげるんだ。そうすれば――」
「うん、わかった! えいっ!」
話の途中で放たれた春香の強烈な金蹴りを、股間に受けた坂口は、呻き声をあげながら悶絶した。それを見て慌てた彼女が、心配そうに近寄ってくる。
「ご、ごめん拓ちゃん、痛かった? 大丈夫?」
「あ、ああ、だ、大丈夫だよ。こ、こういうのはさ、容赦なくやらなきゃだめだから、お前は全然悪くねえよ。だ、だから、謝んなよ」
坂口は激しく痛む股間を両手で押さえながら、春香に言った。
「うん、わかった! じゃああたし、今の技練習するね!」
返事をした春香は、坂口から少し離れた所に行くと、背後への頭突きからの振り返って金蹴りを、一人で何度も繰り返していた。坂口はその様子を眺めながら、股間を押さえて何度もジャンプしていた。
やがて痛みがおさまった頃、春香が再び坂口に近づいてきた。
「ねえ拓ちゃん、他の技も教えて!」
「ああ、じゃあ基本的な絞め技のヘッドロックを教えてやるよ」
坂口はそう言うと、春香のそばで中腰になった。そして彼女に指示をする。
「じゃあ、まずは俺の頭を左腕で脇に抱えてみな」
「うん、わかった!」
春香は中腰のままでいる坂口の頭に細い左腕を回して、脇に抱えた。坂口は彼女の程よく膨らんだ胸を間近で見ながら、次の指示を出す。
「そしたら右手と左手をがっちり組んで、抱えた頭を力一杯締めあげるんだ」
「うん、わかった! やってみるね!」
坂口の頭を左脇に抱えたままで、がっちりと両手を組んだ春香が、ぎゅっと力を込めた。彼女は坂口の頭を必死で締めあげているようだったが、坂口には春香の技よりも、ぎゅっと顔に密着したおっぱいの感触のほうが効いていた。
昔の彼女と別れてから、ずっと女に飢えていた坂口は、柔らかな彼女に締めあげられながら、ムラムラと興奮してきた。そんな坂口の股間が、もっこりと膨らんでくる――こ、このままじゃまずいっ。
「な、なあ春香、そ、そろそろ離してくれるか?」
「うん、わかった!」
坂口は固くなった股間を両手で押さえながら、春香に言った。すぐに技を解いた彼女は、そんな坂口の姿を見ると、心配そうな顔をした。
「拓ちゃん、さっきのまだ痛むの? 大丈夫?」
「あ、ああ。ちょっとな。シャワーで冷やしてくるから、お前は自主練でもしててくれよ」
「うん、わかった!」
坂口はなんとか春香をごまかすと、股間を両手で押さえながら、バスルームに移動した。そのまましばらく頭を冷やして、勃起がおさまるのを待つことにする。
これ以上春香とじゃれていると、どうにも我慢が出来なくなりそうだと思った坂口は、彼女に今日の練習はこれで終わりだと告げた。春香はそれを了解すると、また今度教えてねと笑った。
その後ソファーで一服していた坂口は、隣に居た春香から、この辺に雑貨屋はないかと訊ねられた。坂口はあるけどなんでと聞き返す。
彼女は昔から可愛い雑貨屋が大好きで、将来自分の店を開くのが夢だと言った。そのため時々雑貨屋巡りをして、自分なりに勉強しているという。
そして春香は立ち上がると、バッグから取り出してきた手帳を坂口に見せた。そこには可愛らしい手書きのイラスト付きのお気に入り雑貨や、彼女のオリジナルのデザインなどが沢山書かれていた。
それを見て悪くないと思った坂口は、春香を誉めた。彼女は笑顔で喜んだあと、拓ちゃんの夢はなに? と訊ねてきた。
坂口は、小さな頃からずっとプロレスラーになりたかったと答えた。春香はなんでならなかったのと聞いてくる。坂口はそのせいで親に勘当されちまったし、他にも色々あったと言った。
「あんなに強い拓ちゃんなら、いつかきっとなれるよ」
「……ああ、そうだな。さてと、今日は暇だし、良さげな雑貨屋連れてってやるよ」
「ホントに!? やったぁ。ありがとう、拓ちゃん」
話を終えた二人は、普段着に着替えて出掛ける準備をした。坂口は昔の彼女が使っていた、予備のフルフェイスを春香に渡して一緒に部屋を出る。
風を切ってバイクを飛ばし、目的の雑貨屋がある繁華街へと向かった坂口は、付近にバイクを停めると、彼女と共に歩き出した。
繁華街を行き交う多くの人々とすれ違いつつ、二人はおしゃれな雑貨屋を目指していく。
「着いたぞ。ここだよ」
「へーここかぁ、なかなか可愛いお店だね!」
目当ての雑貨屋に辿り着いた坂口は、無数の商品が所狭しと置かれた店ではしゃぐ春香を横目にしながら、店内にあったプロレス雑誌を読んでいた。
――このメキシコのレスラーの技は、なかなか使えそうだな。
その後ハンバーガー屋で軽い昼食をとり、近場にある雑貨屋を一通り巡ったあとで、二人はアパートのそばの定食屋に寄り夕飯を食べた。
春香とのデートを終えた坂口は、彼女を一晩だけ泊めるつもりであったが、自分になついてくる春香を突っぱねることが出来ずに、結局アパートに連れて帰る。
この一日で彼女との仲は随分とよくなったが、坂口には兵藤を倒すという任務があった――このまま春香が部屋に居るとなると、流石に隣県のあいつを倒すには、色々と動き辛いな。
そう判断した坂口は、しばらくは株の情報を集めるふりをして、別の近場の悪党を、探すしかないと考えていた。