十話
「奢ってやるから、何でも好きなもん頼めよ」
「えっ、ホントに? いいんですか?」
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます。何食べよっかな――」
春香を乗せて走り出したはいいものの、行き先を決めあぐねていた坂口は、堤防からかなり離れた大通りにあった、ファミリーレストランに寄っていた。そこで夕飯でも食べながら、これからの行き先について、彼女と相談しようと思ったのだ。
店内には家族連れや若いカップル等がちらほらいて、わりと賑わっている。奥のほうの喫煙席に、春香と対面で座っていた坂口は、嬉しそうにメニューを眺める彼女を見ながら、煙草をふかしていた。
やがて注文を決めた春香が、店員を呼んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
「ハンバーグセットください。拓さんは何にします?」
「……俺も一緒でいいや」
「じゃあ、ハンバーグセット二つで」
「かしこまりました」
すぐにやって来た若い女店員は、可愛らしい黄色の制服を着ていた。
そういえばファミレスに来るのも久々だなと、坂口は思った。こういう店には、男一人では入りにくかったからだった。
――ファミレスなんて、恭子と付き合ってた頃以来かも知れねえな。あいつも好きだったな、こういう店が。
「拓さんって、歳幾つなんですか?」
「……ああ、二十五だよ」
「そうなんだ。あたしは今年で二十二になります」
「じゃあ俺の三つ下か。大してかわんねえな。十九くらいかと思ってたよ」
「えっ、そうですか? でも実際の歳より若く見られるのって、なんか嬉しいですよね」
春香はそう言って微笑んだ。そんな彼女の笑顔を見ていると、坂口はなんだか心が癒された。
「まあ、オッサンに見られるよりはいいよな」
「ですよね。あたしもまだオバサンには見られたくないですもん」
「だよな。そういえば、歳も近いんだし、別に敬語使わなくてもいいぜ」
「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて……拓ちゃんって呼んでもいい?」
「ああ、それでいいよ」
「じゃあ拓ちゃんも、あたしのこと呼び捨てでいいよ」
「ああ、なら改めてよろしくな、春香」
「よろしくね、拓ちゃん」
そうこうしているうちに、女店員が二人分のハンバーグセットを運んできた。
春香は猫のようなぱっちりとした目を輝かせながら、いただきますと手を合わせた。鉄板の上でじゅうじゅうと湯気がたつハンバーグを、フォークとナイフで切り分ける。
続けて彼女は、肉汁が溢れる一口大のハンバーグを、柔らかそうにぷっくりとした薄紅色の唇に運んだ。
「んーっ、美味しい。あたしハンバーグ大好きなんだ。拓ちゃんは?」
「俺も好きだよ。でもファミレスで食うのは久々だな」
「そういえばあたしも、ファミレスに来るの久しぶりかも」
ニコニコしながら美味しそうにハンバーグを頬張る春香の姿を見て、ぐうっと腹が鳴った坂口も、彼女に続いてがっついた。
――運動後に腹ペコで食う飯は、やっぱり美味いな。
「あー美味しかった。あたしもうお腹いっぱい。拓ちゃんは?」
「俺はまだ食おうと思えば食えるよ。運動したあとだしな」
食事を終えた坂口は、満腹そうな春香を横目にしながら、煙草に火をつけた。
「さっきの拓ちゃんすごかったよね。あっという間にあいつらやっつけちゃってさ。まるで踊ってるみたいだった。すごいカッコよくって、あたし感動しちゃった。あれは空手とか、そういうやつなの?」
「違うよ、あれはプロレスだよ。学生時代にずっとやってたからさ。動きが身体に染みついてるんだ」
「へーそうなんだ。プロレスかぁ。覚えとこ。そういえば、まだ助けてもらったお礼言ってなかったね。ありがとう拓ちゃん。拓ちゃんが来てくれて、ホントに助かった。あのままあいつらに捕まってたら、あたしは今頃……」
話の途中で、言葉に詰まった春香から笑顔が消えた。そして押し黙った彼女は俯く。
「今頃、どうなってたんだよ。俺に話してみろよ。お前はなんであいつらに、追われてたんだ?」
「……話せば長くなるんだけど、聞いてくれる?」
「ああ、もちろん。全部聞いてやるよ」
悲しそうな顔をして、見つめてきた春香に対して坂口が頷くと、彼女は重い口を開いた。
「……さっきの白いジャージの奴はね、アキラっていって、あたしの元カレなんだ。それでね――」
吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた坂口は、時折相槌を打ちながら、春香の話を真剣に聞いた。彼女は自分の身の上話をまじえながら、坂口に語り続けた。
春香は幼い頃に両親を事故で亡くして、親戚の家に引き取られたらしい。その家には彼女より二つ年上の、男の子がいたという。春香はすぐにその子と仲良しになり、サトシという名の彼のことをサト兄と呼んで、実の兄のように慕っていた。
だが彼女が高校三年生になった頃、その家でサト兄と二人っきりになった春香は、突然彼に押し倒されたらしい。必死で抵抗し、なんとか逃げ出した彼女は、後日そのことを親戚に相談した。
その日を境に、優しかったサト兄が、春香を一切無視するようになったという。そして彼は、両親とも全く話さなくなったらしい。
親戚はそんなサト兄を見て、息子が変わってしまったのは、あんたが家に来たせいだと春香を責めた。その言葉にとてもショックを受けた彼女は、次第に居場所を無くしていった。
その後春香は、高校を卒業すると同時に、荷物をまとめてその家を飛び出したという。真っ直ぐ駅へと向かった彼女は、なけなしの小遣いでキップを買い、電車でこの県に来た。
独りぼっちで夜の町を、あてもなくさまよっていたところで、春香はアキラから声を掛けられたらしい。
人当たりが良かったアキラに優しくされた彼女は、彼の部屋に転がり込んだ。一緒に暮らしながら、色々と面倒を見てくれるアキラに、段々惹かれていった春香は、自分を好いてくれていた彼と付き合ったという。
それからしばらくの間、彼女はアキラと楽しく暮らしていた。しかしある日の夜に、春香は彼から仕事をクビになったと告げられた。土建屋で働いていたアキラが、現場監督と殴り合いの喧嘩をしたらしい。
その日から、優しかったアキラは変わってしまったという。
無職になった彼は、今まで彼女の世話をしたことを恩に着せて、春香を無理矢理キャバクラで働かせた。そのくせ自分は、毎日不良仲間と遊び呆けていたらしい。
彼女はアキラに文句を言ったが、その度に暴力を振るわれ、給料のほとんどを奪い取られたという。
そんな生活がずっと続いて、耐えられなくなった春香は、アキラに別れを告げて、何度も逃げ出そうとした。だがその度に、彼に連れ戻されてしまったらしい。
その後も日を追う毎に、アキラの金遣いはどんどん荒くなり、彼女はある晩彼から風俗で働けと命令された。春香は必死で拒否したが、アキラは彼女に無断で話を進めていたという。
そしてついにこの日、春香は風俗に売り飛ばされそうになったのだ。
部屋から連れ出される寸前に、身の危険を感じた彼女は、アキラがトイレへ入った隙に、急いで逃げ出す準備をした。
大きめな茶色のショルダーバッグに、着替えと大事なヘソクリ等を詰め込んだ春香は、それを持って部屋から出ようとしたという。
しかしちょうどトイレから出てきた彼に、見つかってしまったらしい。その後部屋から連れ出された彼女は、アキラのワンボックスの助手席に、強引に押し込まれた。
春香は大事なバッグを両手に抱えながら、なんとか車から逃げ出そうと、チャンスを窺っていたという。
運転席に座ったアキラは、彼女を逃がさないために、不良仲間に電話をした。やがてバイクでやって来た三人の不良たちが、ワンボックスの後部座席に乗り込むと、車は走り出した。
そしてアキラは、風俗店に向かう道中の堤防道路で、突然車を停めたという。どうやら道を間違えたらしいアキラが、相手先に電話を掛けている隙をついて、春香は助手席から外に出た。
だがすぐに気付かれ、車で追い回されたという。困った彼女は堤防道路を降りて、川原のほうへと走った。それでも追いかけてきたアキラたちを見て、絶望していたところを、駆け付けた坂口に救われたというわけだった。
「そうだったのか。お前もまだ若いのに、色々大変だったんだな……それで、これからどうするつもりなんだ?」
話を終えて、俯いている春香を見つめながら、坂口は訊ねた。
「どうすればいいか、わかんない。あたし、どこにも行くところがないから……」
顔を上げて答えた彼女の表情は、相変わらず沈んでいた。両親がいない春香には、帰る場所が無いのだろう。
「そっか……まあ、とりあえず今日はどっかのホテルにでも泊まってさ、ゆっくり休んだらどうだ? 金が無いなら、俺がなんとかしてやるし」
「……ありがとう拓ちゃん。でもね、一人になるのはやだ。一人で居たら、またあいつらに見つけられちゃいそうだし……あたし今夜は、一人で居たくない」
春香は華奢な身体を震わせながらそう言った。おそらく今頃になって、先ほどの恐怖がぶり返してきたのだろう。坂口はそんな彼女に、どんな言葉を掛けたらいいのか、悩んでいた。
「こんな時に親がそばに居てくれたら、あたしのことを抱き締めて、慰めてくれるのかな……」
目に涙を浮かべながら、春香は呟いた。彼女は死んだ両親のことを、思い出しているのかも知れないと、坂口は思った。
「……まあ俺も、ずっと前から親に勘当されててさ。居ねえようなもんだから、お前の寂しい気持ちはわかるよ。だけどさ、居ねえもんをいくら頼ってもしょうがねえんだよ。独りぼっちなら、自分が強くなるしかねえんだ。だからお前も、頑張って強くなれよ」
坂口は自分なりの言葉で、春香にエールを送った。手のひらで涙を拭った彼女が、坂口をじっと見つめてくる。
「……じゃああたしも、拓ちゃんみたいに、頑張って強くなるから、拓ちゃんのことを頼ってもいい?」
「ああ、いいぜ。俺に出来ることなら、何でも協力してやるよ。偶然とはいえ、せっかく知り合ったんだしな」
沈んだままの春香を、なんとか元気付けてやろうと思った坂口は、そう言って胸を張った。
「じゃあ、今晩あたしを拓ちゃんの部屋に泊めて。拓ちゃんと一緒に居れば、安心だし」
「そ、それはちょっと、まずいだろ。俺たちはまだ知り合ったばっかだぞ。そ、それに、よく知らない男の部屋にほいほい泊まるってのは、よくねえよ」
春香の言葉を聞いた坂口は動揺した。しかし彼女は、真剣な顔で続ける。
「何がまずいの? だって拓ちゃんはあたしを命懸けで救ってくれたんだし、悪い人なわけないじゃん。あたしはそんな拓ちゃんだから、泊めてって頼んでるんだよ。変な人だったら、こんなこと頼まないもん。だから、お願い!」
そう言って手を合わせた春香に押された坂口は、無造作な頭をかきながら腹をくくった。
「……ちっ、わかったよ。しょうがねえな」
「やったぁ。ありがとう、拓ちゃん」
ようやく笑顔が戻った春香を見た坂口は、まあ乗りかかった船だし、仕方ねえかと自分を納得させた。
「高速乗るから、しっかり掴まってろよ」
「うん、わかった!」
春香を連れてファミレスから出た坂口は、彼女と共にバイクに跨がった。ぎゅっと身体にしがみついている春香の温もりを感じながら、坂口はバイクを飛ばして隣県を出ると、そのままノンストップでアパートへと帰宅した。
「バイクって、気持ちいいね。なんかスカッとした。また乗せてね」
「ああ、また今度な」
春香と話しながら、暗い部屋の中に入った坂口は、すぐに明かりをつけた。
「まあ適当にシャワーでも浴びて、今夜はゆっくり休めよ。あのベッド使っていいからさ」
「うん、ありがとう。でも拓ちゃんはどこで寝るの?」
「俺はソファーで寝るからいいよ」
「なんか悪いな、あたしは拓ちゃんとなら、一緒に寝てもいいよ」
「ちょっ、何言ってんだよ。そ、そんなわけにはいかねえだろ」
平然とした顔で、かなり大胆な発言をする春香を見ながら、坂口は焦った。
「えっ、拓ちゃんもしかして変なこと考えてるの? あたしはあのベッドに、二人並んで寝たほうがいいかなって思っただけだよ」
「か、考えてねえよ。あ、あのベッドは二人じゃ狭いし、俺はソファーで寝るのに慣れてるからいいんだよ。お、俺のことは気にせず使えよ」
「そっか。じゃあお言葉に甘えて、使わせて貰うね」
「ああ、ま、まあ楽にしろよ」
純情そうな可愛らしい顔をしているわりには、意外とはっきりものを言う春香に少々面喰らいながら、坂口はソファーに腰掛けた。
その後交代でシャワーを浴び終えた二人は部屋着に着替えると、おやすみの挨拶を交わして、それぞれの場所で眠りについた。