一話(序章)
この日大学の体育舘で、アルティメットレスリング同好会による、タイトルマッチが開催されようとしていた。
単なるショープロレスではなく、ガチンコ志向で行われているこの同好会の試合は、プロ並みの高度な技や迫力に定評があり、人気を集めている。
そんな同好会の中でも、一、二を争う天才レスラー同士の闘いというだけあってか、四角いリングを囲むように設置された無数の座席は、すでに沢山の学生たちで埋め尽くされていた。
マイクを持った実況担当の田口は、ざわめく観客席を横目にしながら、同じく同好会の部員である、レフェリーの増田と共にリングへ上がる。
増田はわりと筋肉質な男だったが、田口と同様に小柄なせいか、実際に試合をするよりも、このような脇役を担当させられることのほうが多かった。
そのためこの日も、いつものように任されていた仕事には慣れた様子で、大きなタイトルマッチといえども、田口と同じく、それほど緊張した素振りは見せていない。
その増田と共に、リングの中央へと向かった田口は、喉の調子を確かめるように数回咳払いをしたあと、右手に持ったマイクを使って司会を始める。
「えー只今より、アルティメットレスリング同好会のメインイベント。無差別級のタイトルマッチを執り行います」
「よっ、待ってました! 早くしろー!」
若い男女の様々な歓声が耳に響く中で、田口はいつも通りに司会を進めていく。
「それでは青コーナーから、挑戦者の入場です。身長百七十五センチ七十キロ、伝説のマスクマン、エル・パラダイスの子孫を名乗るルチャリブレマスター。パラダイス・キッド!」
黒が基調で、銀色の装飾が施された覆面を被り、黒いロングタイツを穿いたマスクマンが、身軽な動きでトップロープを飛び越えてリングに上がってくる。
この試合の挑戦者である、坂口拓が扮するパラダイス・キッドは、軽快なアクロバットを披露しながら、チャンピオンの入場を待っていた。
彼が続ける華麗な動きを、じっと眺めていた田口は、今日の動きはいつにも増して、キレがあるなと感心する。
パラダイス・キッドこと坂口は、程よく引き締まった肉体にバランスが取れていて、身体能力が高く、華麗な空中殺法が得意なレスラーだった。
坂口はとても負けず嫌いで、プロレス馬鹿といった印象を持つ、比較的単純な性格の男だが、他人を寄せ付けないほどの練習量を毎日こなす、努力家の一面もあった。そうした努力の積み重ねにより、プロ顔負けの多彩な技術を身に付けている。
そのため彼は、この同好会の中でも、トップクラスの人気を集めていた。これだけの動きが出来れば、多くのファンが付くのも納得だな、と田口は思っていた。
坂口は素顔もどちらかといえば男らしいイケメンの部類で、決して悪くはないのだが、試合に出場する時には、いつも同じ覆面を被っている。何故ならそれには、彼なりのこだわりがあったからだった。
坂口が好んで使用しているマスクは、十年以上も前に引退している、メキシコのプロレスラーが被っていたものと、同じデザインのものである。
エル・パラダイスという名前の、それほど人気は無かったが、玄人受けする往年の名選手のマスクだ。坂口はそのマスクマンに、強い憧れを抱いているらしい。それゆえ彼の子孫を名乗り、彼のマスクを被って、ずっと闘い続けている。
観客からの声援を受けながら、リング上でのウォーミングアップを終えたパラダイス・キッドこと坂口は、青いコーナーのほうへと戻り、だらりと背中を預けていた。
田口はその様子を確認すると、事前に決められた段取りに合わせて司会を進める。
「続きまして赤コーナーから、チャンピオンの入場です。身長百八十五センチ百キロ、豪腕破壊王の異名を持つ最強のレスラー。真壁丈!」
明るめの短い茶髪で、精悍な顔の下に顎髭を生やした筋骨隆々の男が、観客からの大きな声援を受けながら、リングに近づいてくる。
黒いショートタイツを穿いているチャンピオンの真壁丈は、筋肉質な長めの足を使い、セカンドロープをまたいでリングに上がってきた。
この真壁丈という男は、天性の恵まれた大柄な体格に加えて、格闘家としての類いまれなるセンスも感じさせる、まさに最強のレスラーだった。田口はこの同好会に入部して以来、彼が負けたところを、まだ一度も見たことがない。
真壁は使う技こそオーソドックスなタイプのものが多かったが、持って生まれた強靭な肉体や、観客を惹き付けるカリスマ性などが素晴らしく、同じプロレス好きとしても憧れる反面で、嫉妬を覚えるほどの天才レスラーだった。
しかし田口が以前に当の真壁から聞いた話によると、彼はそれほどプロレスに対して、情熱を燃やしているというわけでもなく、ただ単に暴れることが好きだという理由で、ずっと闘い続けているらしい。
生まれながらの暴れん坊といった印象を持つ真壁丈は、不敵な笑みを浮かべながら、大きな身体をほぐしていた。
ほどなくして、リングの中央へと集まってきた二人の人気レスラーたちに、観客からの熱い声援が降り注いでくる。
広い体育館内に一際大きな歓声が響き渡ると共に、司会を終えた田口は、リングサイドに設置されている実況席へと向かっていった。
リングの中央に立ち、宿敵である真壁丈と睨み合っていたパラダイス・キッドこと坂口拓は、気を引き締めて試合開始の合図を待った。
目の前で不敵に笑っている最大のライバルを睨み付けながら、丈とのこれまでの戦績を思い起こす。
キッドこと坂口は、この同好会に入部して以来、真壁丈だけには一度も勝ったことがなかった。今日のようなタイトルマッチのみで考えたとしても、丈には今までに、三回以上は負けている。
――だが幾多の試合や、過酷な練習を重ねる度に、こっちだって段々強くなっているんだ。だから決して、俺は諦めたりなんかはしない。俺は今日こそ、こいつをぶっ倒してやる!
キッドこと坂口は、そんな熱い思いを胸に秘めながら、丈のほうを睨み続けた。両の拳を固く握り締めて、自分の身体中に、ありったけの気合いを入れる。
やがて打ち鳴らされたゴングと同時に、キッドは動き出した。持ち前のスピードで軽快なステップを踏みながら、目の前にそびえ立つ丈との間合いを計る。
まずは挨拶代わりの力比べだと考えたキッドは、じわじわと左手を差し出して、丈と両手を組み合った。しかし当然のように、丈の凄まじいパワーで押さえつけられてしまう。
――くっ……相変わらずとんでもねえ馬鹿力をしてやがるな。それならこうだっ! 力比べでは到底かなわないと判断したキッドは、相手と両手を組み合ったまま、素早く両足で飛び上がると、丈の胸にミサイルキックをぶちこんだ。
蹴りを受けた丈が、よろけて手を離す。キッドはその隙に、再び距離をとって丈と対峙した。今度は慎重に間合いを計りながら、細かいローキックや、打撃を使って攻めていく。
キッドが放った速い右のローキックを、左の腿に受けた丈が、僅かによろける。その隙を突いて、すぐさま丈の身体を掴んだキッドは、相手をロープへ振ると共に、自らも走り出した。
キッドはロープの反動により、向かい側から跳ね返ってきた丈に合わせて飛び上がると、高い打点のドロップキックを放った。
胸の辺りでキックを受けた丈が、呻き声をあげながら後ろに倒れる。それを見たキッドは、着地した直後に素早く立ち上がると、倒れたままの丈に駆け寄り、その巨体を掴み起こした。続けて相手の背後に回る。
丈のバックを取ったキッドは、相手の腰に両腕を回すと、へその辺りで両手をがっちりとロックした。そのまま丈の身体を後ろに持ち上げて、ジャーマンスープレックスを仕掛けようとする。
だが次の瞬間、丈の反撃がキッドの顔面を襲った。相手の身体を背後から抱えたままの状態で、強烈な右エルボーを喰らわされたキッドは、頭に受けた激しい衝撃に耐えきれずによろけた。そして丈の身体を離してしまう。
その隙を突かれて、逆にバックを取られたキッドは焦るが、丈は丸太のような両腕で、腰の辺りをがっちりと掴んできた。そのまま凄まじいパワーで、高角度のバックドロップを仕掛けてくる。
不吉な浮遊感を覚えながら、後ろに向かってぶん投げられたキッドは、受け身を取ることも出来ずに、首からマットに叩き付けられた。
後頭部にかなりの衝撃を受けてしまったキッドは、どうにか立ち上がろうとはするものの、脳震盪を起こして再び倒れ込む。
――クソッ……このままじゃまずいっ。頭に残ったダメージにより、なかなか立ち上がれずにいたキッドは、丈に身体を掴まれ起こされた。続けざまに荒々しくロープへと振られたキッドに、向かい側から勢いよく走り込んできた、丈の豪腕ラリアットが襲いかかってくる。
そうはさせるかと、なんとか頭を下げてそれをかわしたキッドは、そのまま目の前のロープに向かって走った。キッドは続けてロープの反動を利用すると、反対側から同じように跳ね返ってきた丈のほうへと駆け寄っていく。
そして跳び箱を飛ぶように高く飛び上がったキッドは、迫りくる丈の首をがっちりと両足で挟むと、高速で身体を後ろに反りながら、捻りを加えて投げ飛ばした。
キッドが得意とする、ハリケーンラナを喰らった丈は、もんどりうってマットに倒れた。
――ざまあみろ、バカ野郎! それを見たキッドは、すぐさま近くのコーナーへと移動すると、トップロープに登った。直後に右手を高く振り上げて、観客へのアピールをする。
そして高く飛び上がったキッドは、素早く捻りを加えた宙返りを繰り出しながら、倒れたままの丈に、強烈なボディプレスを喰らわせた。
渾身の大技である、360度シューティングスタープレスを決めたキッドは、そのままフォールの体勢になる。すぐに駆け寄ってきたレフェリーの増田が、力一杯マットを叩いた。
しかし、カウントツーで丈にフォールを返されてしまった。舌打ち混じりで丈より先に立ち上がったキッドは、掴み起こした丈のバックを取ると、羽交い締めを仕掛けた。
――このままぶん投げて、一気に倒してやる! キッドは間髪入れずにそう気合いを込めると、身体を後ろに反りながら、必殺のドラゴンスープレックスを決めようとする。
この技は羽交い締めで腕と首を極めたまま、後ろにぶん投げるというかなりの大技だ。これを決めれば流石に丈であっても、マットに沈むだろうと、キッドは考えていた。
だが丈の重い身体が、どうしても持ち上がらなかった。直後に丈の馬鹿力で、羽交い締めを外されてしまったキッドは、顔面への強烈なナックルパートを喰らわされた。
丈の拳を顔に受けて、呻き声をあげながらよろけたキッドは、丈に荒々しく身体を掴まれたあと、勢いよくコーナーへと振られてしまう。硬いコーナーに背中を激しく打ち付けたキッドは、ぐったりともたれかかった。そこに追いうちのケンカキックが迫ってきた。
「ぐおあっ……!」
助走をつけた丈の強烈な右足を、顔面に喰らわされたキッドの視界が、ぐらぐらと揺れる。
丈は続けざまに、キッドをトップロープに担ぎ上げた。軽々とキッドの身体を持ち上げた丈が、最上段からのブレーンバスターを仕掛けてくる。
「がはあっ……!」
背中側から、全身を激しくマットに叩き付けられてしまったキッドは、蓄積したかなりのダメージにより、立ち上がることが出来ずにいた。キッドはそのまま丈にフォールをされる。
再び駆け寄ってきたレフェリーの増田が、力一杯マットを叩いた。
――クソッ……まだ負けるわけには、いかねえ! カウントスリーが入る寸前で、キッドはなんとか右肩を上げてフォールを返した。しかし、すぐに反撃出来るほどの力は残っていなかった。
自分より先に立ち上がった丈により、掴み起こされたキッドは、観客に向かって行くぞと叫んだ丈に、バックを取られる。
そしてキッドは、丈の強烈なジャーマンスープレックスを二連発で喰らわされたあと、とどめの豪腕ラリアットで首を刈られた。
丈の必殺コンビネーションをまともに受けてしまったキッドは、その後のフォールを返すことが出来ずに、カウントスリーで敗北した。
勝敗が決した体育館には、勝者である丈を讃えるコールが、いつまでも響いていた。
大きな試合を終えて、同好会の部室に戻ったキッドこと坂口は、自分を倒した丈から声を掛けられた。
「フッ、まだまだだな、拓」
「ちっ、うるせえよ」
不敵な笑みを浮かべながら言った丈に対して、坂口はそう毒づくことしか出来なかった。
その後部室に入ってきた彼女の恭子も、坂口に慰めの言葉を呟く。
「拓ちゃん惜しかったね、もう少しだったのに」
「いや、俺はこのままじゃ、あいつには勝てねえよ」
この日の試合により、改めて丈との力の差を痛感させられた坂口は、なんとか丈に勝つ方法はないかと考えていた。
――チクショウ。あそこでドラゴンを仕掛けちまったのが、今日の敗因だ。ちょっと焦り過ぎたか……もっとじっくりと攻めるべきだった。でも、やっぱりあいつを倒すには、本場のメキシコで修行するしかねえよな。俺はいつの日か、あいつに勝ちたい。
拳を固く握り締めながら、そう思った坂口は、再び丈に負けた悔しさを、いつまでも噛み締めていた。