雪ウサギ
野兎はどうにも気になって仕方ありませんでした。月明かりに照らされた雪原の遠くに見える、二つの赤い点と緑の線、最初はそれだけの存在だったのです。けれども近づいてよく見てみると、もうそれだけでは済まない存在になってしまいました。
こんもりと丸く固められた雪、その先端に付けられた二つの赤い実と二枚の緑の葉、それはまるで赤い目と緑の耳を持つウサギ、そのものでした。自分の頭の半分の大きさもない雪ウサギ、もちろん野兎はそれが作り物に過ぎないことを十分に承知していました。生きてもいないし、食べるにしてもせいぜい小さな実と粗末な葉だけ……野兎にとってほとんど無価値に等しい物であるのは明らかなのに、不思議とその側を離れたくないという想いに野兎の心は捕らえられてしまったのです。
野兎は何をするでもなくしばらくそのウサギを眺めていました。が、やがて元来た方向へと走り出しました。夜が明ける前に自分のねぐらに帰るためです。
ねぐらへ戻った野兎は、どうしてあの雪ウサギがあんなに気になったのか考えていました。愛らしい目とピンと伸びた耳……ふと、野兎の頭に懐かしい顔が浮かびました。
「あの娘に似ている」
母兎の元を離れてから、野兎はずっとひとりで生きていました。昼間は眠り、日が沈んでから食べ物を探して野原を駆け回る毎日。寂しい気持ちも次第に薄れ、ひとりでいることにも慣れ始めた頃、野兎はあのウサギに出会ったのでした。広い雪原の中にある一際大きな良い匂いのする樹、その樹の側にいたその娘は、近づいてくる野兎に気づくとすぐに逃げてしまいました。その時は野兎も敢えて追おうとはしませんでした。
翌日、野兎がその樹に行ってみると、やはり昨日のウサギがいました。けれども今度は野兎の姿を見てもは逃げようとはせず、樹の皮をかじり続けていました。野兎はその娘の側に行くと、同じように皮をかじりました。しばらくかじり続けた後、何も言わずにその娘は去っていきました。次の日はもうその娘はいませんでした。
野兎が再びそのウサギに会ったのは数日後の雪の夜でした。荒れた天気が何日も続き、野兎はなかなか食べる物を見つけられずに、ひどくお腹を空かしていました。
その日も空は雲に覆われ雪が降り続いていました。野兎は意を決して日が沈まぬうちにねぐらを出ました。夜になれば星も月の明かりも届かぬ雪原は真っ暗です。そうなればただでさえ乏しい食べ物を探すのは一層困難になってしまいます。今日こそは何としても何かを口にしたかったのです。
野兎は薄暮の雪原を駆け巡りました。けれどもねぐらの近くにある草も葉も既に食べつくされていました。雪の降る中、遠くへ探しに行く元気はありません。どこへ行く当てもなくさまよった後、野兎はいつもの樹の根元にやってきました。空腹と疲労で、もはや皮をかじる気力すらない野兎は、ただ、目を閉じてその場にうずくまり、じっとしていることしかできませんでした。
どれくらいそうしていたでしょうか。野兎が閉じていた目を開けるといつの間にか夜空は晴れて月が出ていました。そして野兎は自分の隣に、あのウサギがいることに気づきました。自分の体を寄せて同じようにじっとしていたその娘は、口にくわえた赤い細長いものをそっと雪の上に置きました。
野兎にとっては初めて見るその赤い根のようなものは、それでも食べられることはすぐにわかりました。何の迷いもなくかじると、口の中に広がる甘い香り。今まで食べたことのないその美味しさは、野原に生えている草や葉とは全く別のものでした。夢中でかじり続け、すっかり食べ切ってしまった野兎が顔を上げると、もう、その娘の姿はありませんでした。そしてそれがそのウサギを見た最後でした。
「そうだ、あの娘に似ているんだ」
野兎は気に掛かっていた理由がようやくわかりました。今日見かけた雪ウサギはあの優しいウサギにとてもよく似ていたのです。今晩もう一度あの雪ウサギの所に行ってみよう、夜が明けると共に眠くなってきた頭の中で、野兎はそう決めました
目を覚ますと、まん丸の月が既に昇り始めていました。野兎はすぐにねぐらを出て雪原を駆け出しました。あの日以来、赤い根を貰ったお礼がしたくて、野兎は毎晩樹の根元に行っていました。けれども、一度も会えることはありませんでした。今日こそはあの時のお礼をしよう、そう決意して走り続ける野兎の向かう先は、雪ウサギの居る場所ではなく、雪原の外れでした。
南側に向かってなだらかに広がる斜面、それは子兎の頃に見つけた秘密の場所でした。以前来たときは、まだ出ていなかったけど、今なら……祈りにも似た想いを抱きながら野兎は斜面の雪を掘りました。自分の身の丈と同じくらい掘り進み、そこに小さな芽を付けた緑色の茎を見つけたとき、野兎は思わず喜びの声をあげそうになりました。前歯でその茎を折り、口にくわえると、斜面を駆け上って、再び雪原を駆け出しました。向かうのはあの雪ウサギの所です。
雪ウサギは昨晩と同じように広い雪原の中にポツンとうずくまっていました。乱れた息を整えもせず、野兎は口にくわえた緑の茎をその前に置きました。まん丸の月はもうだいぶ高く上がり、淡い光を雪の上に投げ掛けていました。その光を浴びて野兎は目の前の優しい顔をした雪ウサギをじっと見詰めていました。
「ふふっ……」
野兎の口から笑い声が漏れました。可笑しくなったのです。何も起こらない、そう、起こるはずがないのです。どれほどあの娘に似ていようと相手は雪にすぎないのですから。どうしてこんな事をしようなんて思ったんだろう、野兎は今更ながら自分の行動が可笑しくて仕方ありませんでした。ここにいるより、あの樹の下で待っていた方がいいに決まっている、あの娘を見たのはいつでもあの樹の側だったのだから……
「いつでも、あの樹の……」
ふいに野兎の頭にひとつの考えが浮かびました。雪ウサギの下に鼻先を潜り込ませ、勢いよく頭を上げると、雪ウサギは宙に舞い、うまい具合に野兎の頭の後ろに落ちました。置かれたままの緑の茎をくわえると、雪ウサギを背に乗せて野兎は一目散に雪原を駆け出しました。あの樹、あそこへこの雪ウサギを連れていけば、あるいは……
野兎は駆け続けました。不思議でした。冷たいはずの雪ウサギが触れている背中が、春の日差しに照らされているかのように温かいのです。それはあの樹の下で赤い根を貰った時に感じた温かさと同じでした。野兎は駆け続けました。空腹も寂しさも今の野兎にはありませんでした。この娘と一緒なら何も怖くない。どんな事だって出来そうな気がする、そう、あのまん丸の月まで飛び跳ねる事だって……身のうちから湧き上がってくる勇気と自信に後押しされるように、野兎は後ろ足に力を込めると、思い切り跳ね上がりました。
パァーン!
乾いた音が雪原に響きました。白い雪の上に、まるで雪ウサギの目のような赤い染みが二つできました。遠くから犬が走ってくると、倒れて動かなくなっている野兎の周りを回りながら大きな声で吠え立てました。間もなく姿を現した大柄な男の人は、肩に担いだ猟銃を置き、大きな布袋を取り出すと、野兎をその中に入れました。そして横向きに倒れている雪ウサギをきちんと雪原の上に置き直し、その横にもうひとつ、新しい雪ウサギを置きました。両手を合わせてしばらく目を閉じていたその男の人は、やがて猟銃と袋を担いで、元来た方へ帰って行きました。
二つの雪ウサギは互いに寄り添って雪原の上に座っていました。いつの間にか夜空には雲が広がり雪が降り出していました。しんしんと降る冷たい雪の中、二つの雪ウサギの顔には穏やかな喜びがありました。ようやく一緒になれた、そしてもう二度と離れることはない、そう言い合っているようにも見えました。
身を寄せ合う二つの雪ウサギの上に雪は降り積もっていきました。やがて東の空が白み始めた頃、ようやく雪はやみ、雲が切れて、暗かった雪原に光が戻ってきました。けれども、そこにはもう二つの雪ウサギも、赤い染みも、緑の茎も、犬や男の人の足跡もなく、降り積もったばかりの真っ白な雪が、昇り始めた日の光を浴びてキラキラと輝いているばかりでした。