03-09
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志恵は殴られる事を覚悟し、身を固くしてその時を待った。──しかし、いつまで経っても桜谷の拳は飛んでは来なかった。
「おい、何しようとしてたんだ。暴力沙汰はいかんぞ」
代わりに降って来たのは、聞き覚えのある男性の声。志恵が恐る恐る顔を上げ眼を開けると、そこにあったのは──振り上げられた桜谷の腕を捻り上げ、困ったような笑みを浮かべた長身の男の姿だった。志恵は驚きに目を見開く。
「あ、わ、若城先生……!?」
それは志恵のクラスである二年一組の担任、数学教師の若城だったのだ。若城は眞柴空覇程ではないにしても比較的背が高く、爽やかな雰囲気の若い男性教師である。
一瞬呆気に取られた桜谷だったが、直ぐに苛立ちのままに若城を睨み、拘束された腕をばたつかせる。上げた叫びは悲鳴じみていたが、しかし非難の色をも帯びていた。
「ちょ、何するのよ!? 離して! やめてってば! 殴らない、殴らないから!」
「本当か? 本当にもう殴らないんだな? 暴れるのも逃げるのも無しだぞ」
「ホントだってば! 大人しくするから! ああもう、何で私がこんな事されなきゃいけないのよ!」
そして若城が手を離すと、桜谷はふーと大きく息をつきその場にしゃがみ込んだ。周囲の仲間達がおろおろする中、桜谷はしかし未だに志恵と若城を交互に睨んでいる。若城は地べたに座り込んだままの志恵が大事そうに抱えている子狸にちらり眼を遣ると、大体の事情を察したようだった。
「何があったにせよ、暴力はいかんだろう。処分を受けたい訳じゃなかろうし。……二組の桜谷だったな。息抜きは構わんが、行き過ぎは良く無いな」
「でもっ、あっちが先に……!」
反論しようとした桜谷を制し、若城が志恵を見た。志恵は頷くと絹田さんを抱え直し、ゆっくりと立ち上がる。
「あの、……たまたま通り掛かったら、桜谷さん達がこの子を虐めていたから、わたし、つい」
「虐めてなんて! 一緒に遊んでただけで!」
「尻尾持って逆さに吊すのは、遊んでるって言わないと思う……! それを証拠に、あんな苦しそうな声で鳴いてたじゃない!」
「それはあんたがそう思い込んでるだけで、喜んでたかも知んないでしょ!? あんたに狸が何言ってるかなんて分かんの!?」
「──ストップ! ストーップ!!」
再びヒートアップしそうな二人の間に、若城が割って入った。──たったこれだけの遣り取りだけでも、どちらの言い分が正しいかは一目瞭然だった。仲間達もそれを理解しているのだろう、気まずそうに少し離れた位置から見守る事しかしていない。劣勢に気付いていないのは桜谷だけという状態だ。
ただ、若城は志恵が桜谷達から執拗な嫌がらせを受けている事も知っている。正論で桜谷を叩き潰す事も出来たろうが、そうすると自身の目の届かない所で志恵にどんな報復があるか──若城はそれを危惧した。故に、若城は無難な解決法へと舵を切る。
「……桜谷。お前の言い分も分からなくはない。ただ、桜谷が羽々木に暴力を振るおうとしていたのも事実だ。どんな理由があっても暴力はいかん。お前だってこんな事で問題を起こしたくはないだろう?」
「で、でも……」
まだ唇を歪める桜谷に、若城は更に一歩近付く。そして先程よりも小声で桜谷に提案を持ち掛けた。
「お前が矛を収めるなら、俺は何も見なかった事にしておいてやろう。担任に報告もしない。……これでどうだ」
「え……」
「お前の、羽々木へのちょっかいは目に余るんだ。もう少し行動を慎め。新学期早々、問題児としてマークされたくはないだろ?」
桜谷はギリッと奥歯を噛んだ。一瞬若城を睨むが、しかし渋々ながらも若城の言葉に頷く。その様子に若城は安堵し、そして志恵にも声を掛ける。
「羽々木も、結局は殴られずに済んだ訳だし、許してやってくれるか?」
「わたしは、その……ええ、勿論です。この子が無事ならそれで」
「そうか、良かった。──なら、もうこの件はこれで終わりだな。二人とも、それでいいな?」
志恵と桜谷は同時に頷いた。但しその表情はまるで違っていた。志恵は緊張と不安を残し、桜谷は悔しさと憎悪に歪んでいた。それでも桜谷は無言できびすを返し、足早に去って行く。仲間達が心配げに後を追い掛ける。
桜谷達の背中を見送り、若城ははあっと安堵の息をつく。志恵は若城に向き直ると軽く頭を下げた。
「あの、若城先生。ありがとうございます」
「いや、──すまんね。羽々木には少し不満が残る決着だったかも知れんが、あまりこじらせるとマズいと思ったもんでな」
「いえ、充分です」
そして志恵の腕の中で絹田さんがきゅう、と鳴いた。若城は珍しげに子狸を覗き込む。
「で、こいつは一体どうしたんだ? 飼ってるって訳じゃないんだろうが」
「その、敷地内に迷い込んで来たみたいで。懐かれちゃったんですけど、別にわたしが飼ってるって事じゃないです。面倒見られる訳じゃないし、時々こうして遭って遊ぶだけで」
「そうか。動物と触れ合うのは悪い事じゃないが、しかし狸に限らず、野生の動物にはノミとかダニとかがいるかも知れんから気を付けろよ。手とか服とかちゃんと洗うんだぞ」
「あ、はい。気を付けます」
素直な志恵の返事に若城は満足そうに頷き、そしてちらと左腕に嵌めた腕時計を確認する。そういえば今日の若城は授業時のスーツとは違い、上下揃いのジャージである。不思議そうな志恵の視線に気付き、若城は照れたように笑った。
「この後、プールの監視係を頼まれててな。そんなに似合わないか? ジャージ」
「いえ、その……いつも先生はパリッとしたスーツ姿なので、何だか新鮮で」
「そうか。ははは」
ひとしきり他愛も無い会話を交わし、そして若城は、そろそろだな、と体育館へと向かおうとする。しかし数歩の所でピタリ足を止め、そうそう、と振り返った。
「そうだ羽々木、九頭先生って医師を知っているだろう? ホラ中央の大きな病院で副院長やってる……」
不意に出た、およそ予想もしていなかった人物からのその名前に、志恵はヒ、と思わず息を飲んだ。若城はそれに気付かなかったようで、更に言葉を続ける。
「家族ぐるみで仲が良いんだってな? 今度話す機会があったら、是非とも宜しくと言っておいてくれ、と理事長から直々に伝言があったぞ」
「っ、え、え……なん、で」
驚愕に言葉も出ない志恵に訝しみながらも、若城は流ちょうに喋り続ける。
「どうやら九頭医師はここの卒業生で、毎年多額の寄付をしてくれているらしいんだ。来年度には息子さんも此処へ入学するらしいし、ますます繋がりが深くなるだろうからって──」
「……っ」
「ま、何にせよ、そういう事だ。よろしくな、羽々木」
「──は、い……」
志恵はそれだけを絞り出すので精一杯だった。表情を凍らせたまま若城を見送る。
──この学園へ来たのは間違いだったのだろうか。自分が選んだようでいて、もしかして、選ぶように仕向けられていた……? 志恵の心が疑問で埋め尽くされる。ぎゅ、と胃の底が冷えた手で掴まれたように鈍く痛む。
きゅう、と腕の中で鳴き声が聞こえた。絹田さんが心配げに志恵を見上げている。そのつぶらな瞳はまるで心の中を見透かすようで、志恵はくしゃりと強張っていた表情を崩した。
「うん、ありがとう、絹田さん。大丈夫だから……わたし、大丈夫だから」
志恵はそっと絹田さんを抱き締めた。小さなぬくもりが広がり、心地良い毛並みが頬を撫でる。ちりちりと鈴が鳴り、ざわついていた心が落ち着いてゆく。
まだ不安は胸の内を毛羽立たせている。でも、もう──目を逸らしているだけじゃ駄目なんだ、と自身を叱咤する。大丈夫、自分はやれる。現にさっきだって、絹田さんを守れたじゃないか──。
志恵はゆっくりと深呼吸をする。不思議な事に、絹田さんからは獣の臭いではなく、草木の爽やかな匂いがした。ちりちりと鈴の音が風のように涼やかで、──大丈夫、自分はもう大丈夫。きっと前を向いて歩ける──そんな静かな決意を胸に、志恵はそっと瞳を閉じて大きく息を吸い込んだのだった。
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