03-02
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「──は? 狸……?」
「そう、たぬき。もふもふふかふかでかわわなの。絹田さんって名前」
「お前ら、名前まで付けたのか……」
乙紅莉栖は小さな背を一杯に伸ばし、得意気に狸を眞柴空覇の眼前に掲げて見せた。狸は怖じる事も無く、きゅう、と挨拶のように鳴いてみせる。
空覇は咥え煙草のままじっと狸を凝視する。まだ子供なのだろうか、きゅ、と小さく首を傾げる姿が愛らしい。もっふりとした尻尾が揺れる度に、ちりり、と尻尾の根元に結ばれたリボン飾りの鈴が鳴るのだった。
──事の発端はとある昼休み。羽々木志恵とクリスがいつもの体育館裏のベンチで寛いでいた時の事だった。数日前に見掛けた子狸が、きゅう、と鳴きながら姿を現したのだ。
子狸は臆する様子も無く、もっふりした尻尾を揺らして二人に駆け寄って来る。志恵もクリスも狸を抱き上げてそのふさふさした毛並みを堪能し、そして志恵は、そういえば、とポケットからある物を取り出した。
「これ、この子に似合うかなって裁縫クラブで作ってみたんだ。ホラこのブロンズ色のリボン、クリスちゃんの髪色みたいで可愛いでしょ。これと金色のリボン合わせたら、絶対この子の茶色の毛並みにピッタリだと思って」
「わわ、これ志恵センパイが作ったんだ。可愛い、綺麗」
それは蝶結びと金色の鈴をアクセントに仕立てられたリボン飾りだった。志恵の手作りで、真鍮色の幅広のリボンと金色の細いリボンを組み合わせ、髪などに結べるようにしたものである。
志恵は子狸の尻尾の根元にそれを結ぶと、ホラ、と形を整えて見せた。上品な色使いが子狸の茶色とよくマッチし、尻尾を動かす度にちりんと鳴る小さな鈴がとても愛らしい。子狸は嬉しげに尻尾を振っては鈴をチリチリと鳴らし、キュウキュウと志恵やクリスに身体を擦り付けては何度も鳴いた。
「喜んでる、良かった。そうだ志恵センパイ、自分この狸さんの名前、この前からずっと考えてたんだ」
「へえ、クリスちゃんが? どんな名前?」
「えっと、たぬきはたぬきだから、それを逆にしてきぬた。絹田さん。どう、絹田さん」
きゅ! きゅ! と子狸は絹田という名前に反応した。どうやら気に入ったようである。
「いいんじゃないかな、絹田さん。本人も喜んでるみたいだし」
「じゃあ、絹田さんで決定。よろしくね」
そうやって二人と一匹がわちゃわちゃしていると、ふらりと空覇が咥え煙草のまま現れた。どうやらはしゃぐ声が気になって、喫煙所のベンチから様子を見に来たようだ。
「あ? 羽々木に乙か……何やってんだお前ら」
するとクリスはがしっと絹田さんを抱え、どうだ、と言わんばかりに空覇の眼前に持ち上げて見せたのだ。これには空覇も驚いて思わず煙草を落としそうになった。
──そして事の経緯を志恵から聞いた空覇は、成る程なァ、と絹田さんを受け取りまじまじと観察する。まだ冬毛のままの毛並みはふさふさと柔らかで、その瞳はくりくりと愛らしい。しかし──。
べしっ! と絹田さんが右前脚を空覇の目の前で振り抜いた。突然の事に呆気に取られ、そして一拍置いてから空覇は何が起こったのかを認識する。
「あっ、え、あ、煙草……!?」
そう、咥えたままだった火の点いた煙草を、絹田さんが払い飛ばしたのだ。視線を遣ると弾き飛ばされた煙草はほど近い地面に転がっている。空覇は足を伸ばして靴底で火種を踏み消すと、吸い殻を拾いポケットから出した携帯灰皿へと突っ込んだ。
「ん、まあ確かに生徒の前で加え煙草は良くねェか。──お前は随分と賢い奴みてェだな。コイツ、ただの狸じゃねェな……?」
空覇がそう言って頭を撫でてやると、きゅう? と鳴いて絹田さんは空覇に頬を擦り寄せた。そんな光景に志恵は目を丸くし、クリスは口角をほんの少し下げて手を伸ばす。
「眞柴先生って、動物結構お好きなんですか? イメージだと犬とか猫とか苦手っぽいのに……」
「ん? ああ、そうだな、動物は割と好きだな。猫も飼ってたし、何なら狸も以前世話してた事あるし」
空覇は志恵の疑問に答えながら、ホレ、と必死で手を伸ばしてくるクリスに絹田さんを手渡してやる。もふもふした絹田さんのお腹に頬擦りするクリスに笑みを零し、空覇は再び新しい煙草を咥えた。
──ふと、志恵の視線に気が付いた。志恵の眼は空覇の顔ではなく、大きな手を見ていた。長くしなやかな指、広い手の平、整った爪……。空覇の手を見る志恵の瞳が揺れているのを、空覇は見逃さなかった。
「──どうした、羽々木」
「あ、……いえ、何でも」
かぶりを振る志恵の髪につられ、ちりり、と銀の鈴が鳴る。その音は絹田さんにあげた普通の鈴とは違い、純銀ならではの柔らかい音がする。──そして、それに続くかのように、キィン、と似た音が響いた。
「眞柴先生、それ、何だか普通のライターと音が違いませんか……?」
それは空覇のライターが立てる音だった。蓋を開けた際の澄んだ音に続き、カシィン、という蓋を閉じる響きが手の中で零れる。いずれの音も何処か柔らかで、丁寧に作られた楽器を思わせた。志恵の知っているライターはもっと鋭く、耳に障る音がした筈だ。
「ああ、こいつは純銀なんだ。親友が以前、誕生日プレゼントにくれたモンでな」
「だから……。わたしの鈴も銀で出来てて、音が何だか似てるなって」
「成る程な。──銀には魔除けの効果があると言われてる。大事にしろよ」
頷く志恵に笑みを零すと、空覇は煙草を吸い込んだ。黒い巻き紙に金の吸い口の煙草は志恵が初めて見る種類のもので、匂いも何だか普通の煙草とは違ってさほど臭くないように思われた。
トク、と志恵の拍動が強まる。口許を覆うように煙草を持つ空覇の手から視線が外せない。
わたしを助けてくれたのは、この手だろうか──? その手に触れれば、分かるのだろうか。志恵の心が揺れる。サァ、と風が吹き抜ける。髪が靡き、チリ、とまた鈴が鳴る。
志恵が思い切って一歩踏み出そうとした、その矢先。キーンコーン、と予鈴が響いた。
「お、もうそんな時間か。──またな、羽々木。おい乙、授業ちゃんと出ろよ」
はーい、というクリスの声を背に、空覇は手をひらひらさせながら去って行く。志恵は小さく頭を下げ、そしてぎゅっと両手を握った。勇気を出せなかった自分に苛立ち、唇を噛む。
「……志恵センパイ?」
少し首を傾げるクリスに志恵は首を振り、何でもないよ、と呟いた。二人で絹田さんを見送り、教室棟へと歩き出す。
ざわめきに飲み込まれる。喧噪が心を覆い隠す。──志恵の高まった拍動は誰にも気付かれる事無く、日常めいた非日常に埋没してゆくのだった。
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