02-09
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上がる水飛沫がキラキラと、ライトの光に照らされダイヤの如く輝いた。広い室内には生徒達の声が響き、清廉な瑞々しさが満ちている。
「驚いたよ、クリスちんこういうの興味無いかと思ってたから。声掛けたのも駄目元気分だったし」
「身体動かすのは嫌いじゃないし、それに自分、水は結構好きかも」
「ふぅん、部活入る程じゃないけど、時々こうやって遊びたいって感じなのかな? 私もそういうの分かるから、良ければいつでも付き合うよ」
仰向けで器用に水を掻きながら、夜刀八千代はのんびりと笑う。隣で犬掻きで泳ぐクリスも、ありがと、とばちゃばちゃしながら頷いた。
二人は今、学園指定の水着を着用して温水プールを訪れていた。プールは体育館の地下に存在し、気温も水温も適切に保たれていて一年中泳ぐ事が可能だ。水泳部以外の一般生徒にも開放されており、放課から十九時半まで使用する事が出来る。
クリスは当初、プールには一人で来るつもりでいた。調査の為に志恵を誘うのは気が引けたし、何より眼鏡を外さなければならない水泳を志恵は好まないと思ったからだ。髪の色と無表情でクラスの中で浮いていたクリスは、志恵以外に誘えるような人間を思い付かなかった。
しかし終業ホームルームの直後、不意に隣の席の少女が話し掛けて来たのだ。少女の名は夜刀、腰までの黒髪をお下げにした痩せ気味の地味な生徒である。
「ね、乙さん。私これからプール行こうかと思うんだけど、良ければ一緒に行ってみない? 一人だとちょっと勇気出なくて。あ、でも乙さんていつも部屋の先輩とよく一緒にいるよね? 誘っちゃ迷惑だった?」
「……ううん、迷惑じゃない。それに自分もプール行ってみたいって思ってた。あ、クリスでいいよ、名前」
「ホント? じゃあクリスちんって呼ぶね! 私の事も八千代でいいよ」
よくよく話を聞いてみると、どうやら夜刀は前々からクリスに興味を持っていて、しかし話し掛ける勇気が出ずうずうずしていたのだそうだ。寮の部屋は二階であり接点も少なく、仲良くなれるタイミングは無いかと様子を窺っていたのだと言う。
二人は揃って寮へと戻り、水着や着替えを用意すると早速プールへと赴いた。本日は水泳部の部活動は無いものの、それなりに賑わっているようだ。それでも大きなプールは混んでいるという程では無く、こうしてのんびりと泳いでいても誰かとぶつかるような心配は無さそうだった。
ちなみに水着はいわゆるスクール水着といったタイプのもので、帽子に入ったラインが学年色となっている。色からすると来ているのは一年生が大半だった。全体的には女子の方が多いが、男子も少なからず居るようだ。
「クリスちん、いつも先輩とべったりだから来てくれないかと思ってた。声掛けて良かったよ。これからも宿題とか勉強とかでも話掛けていい?」
「全然構わない。自習の時は先輩同士が仲良いから隣の部屋の月岡さんと居る事も多いけど、来てくれて平気だから。何なら三人で一緒に勉強してもいいし」
「あ、月岡さんね。そっか、隣の部屋なんだ。そうだね先輩同士が友達だとそういう繋がりも出来るよね」
のんびりぱちゃぱちゃ泳ぎながら取り留めの無い話をする。風呂程は温かく無いが、ぬるめの水温が心地良い。
「八千代ちゃんの先輩はどんな人? 二一五号室だから……確か、落地先輩、だったっけ。髪短くて身体おっきい人だよね」
「そうそう、合ってる合ってる! うちのセンパイね、ちょっとノリが体育会系って言うか……別に悪い人じゃないんだけど、真っ直ぐで熱くて、なんか合わないっていうか……。声でっかいし」
「ああ、それは自分も苦手かも。元気過ぎる人に振り回されるのってちょっと自分駄目かな」
「だよねー、合う合わないってあるよね。いいなあ羽々木先輩って大人しくて穏やかそう。あ、ちょっと嫌がらせとかされてるのは可哀想っていうか不憫だけど……」
そんな会話を交わしながらゆったりと泳ぎ、二人はプールの奥、一番深い部分へと差し掛かった。入口近くの側と違いこちらは水深が深く、今のクリスでは足が立たない程だ。
──ぞわ、と不意にクリスの背に悪寒が走る。慌ててクリスは夜刀へと声を掛けた。
「八千代ちゃん、ここ自分足立たないから、あっちに戻るか一旦水から上がってもいい?」
「あ、ホントだこっち思ってたより深いね。じゃあ一度上がる? ずっと水の中だったしちょっと疲れたかも」
そう言って笑うと夜刀は仰向けのまま側面の壁へと方向を変えた。そして壁にぶつかる直前くるりと身を翻し、縁を掴むとよいしょとプールサイドに身体を引き上げる。
クリスもばちゃばちゃと泳ぎ、水色の壁に到達した。しかし──ぬるり、と浸かったままの脚が気持ちの悪い感触に包まれる。
あれは、土か──。ちらりと見た水底は黄土色の粘い泥に変化していた。その中から伸びて来るのは無数の腕、腕、腕。大きな、小さな、細い、太い、男の、女の、子供の、老人の……数え切れない程の腕が伸ばされ、クリスの脚を掴もうと集まって来る。
「クリスちん、だいじょぶ?」
声に眼を遣ると、夜刀が少し心配そうな表情で手を伸ばしてきた。躊躇せずクリスはその手を握る。選ばれなかった無数の腕達から失望めいた思念が伝わって来る。うんしょとクリスの身体が引き上げられ、脚がぬるりとした泥から抜け出した。
「ありがと、八千代ちゃん」
「別に大した事してないよ。クリスちんは律儀だなあ」
そうして笑う夜刀には、自分がクリスの危機を救ったなどという自覚は無いのだろう。まあ、先程の光景が見えていなかったのなら当然だ。クリスはぷるぷると頭を振り、ぺたんとプールサイドに座るとふう、と息をついた。
視線を向けたが、もう水底は通常通りの水色に戻っている。手どころか瘴気すらも見当たらない。とすると、ここは恒常的な『門』ではなく、周囲の瘴気が偶然凝ってしまった故の現象だったのだろう──とクリスは結論付ける。
「どうする、クリスちん。もうちょっと泳ぐ? それとももうやめとく? 私はどっちでもいいよ」
夜刀が帽子を搾りながら言う。顔を上げたクリスは壁の上部に設けられた時計に目を遣った。思ったよりも時間が経っている。そう認識した途端、くぅ、とクリスのお腹が小さく鳴った。
一瞬驚いた夜刀だったが、一呼吸の後に思わずといった感じで噴き出した。
「あは、クリスちんオナカすいた? ね、じゃ夕飯食べに戻ろっか、確か今日は肉じゃがだよ!」
「うん、泳いだらお腹空いたみたい。肉じゃが美味しそう、八千代ちゃん一緒に食べよ」
あははと笑う夜刀の台詞に、クリスも口端を緩めながら頷いた。よいしょと立ち上がると、先程とは逆にクリスが夜刀に手を差し出す。
「じゃ、行こっか」
「うん」
まだ少し笑みを残しながら、夜刀がクリスに手を引かれて身を起こした。そして手を繋いだまま二人はプールサイドを歩き出す。
煌々と照る光は、透明な水面をただ煌めかせていた。
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