02-06
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志恵が自習室に入ると、広い室内にはかなりの人数が集まっていた。皆それぞれにノートや参考書を広げてはいるものの、顔を寄せ合ってはひそひそと会話を交わしている。大きな窓からは雨の音が響き、お喋りの内容は志恵の所まで聞こえてはこない。
何処に座ろうかと志恵がぐるり部屋を見渡していると、こっちこっち、と手招く姿が目に入った。志恵の友人である一〇三号室の戸村彩花だ。その向かいには戸村の部屋の後輩である月岡と、そしてクリスの姿もあった。志恵がそそくさと近付くと、戸村が笑顔で話し掛けてくる。
「待ってたよ。電話、お母さんから? ね、明日の生物の予習、一緒にやろ?」
「うん、久し振りの電話だったから、つい話し込んじゃった。──いいよ、わたしもやろうと思ってたとこだから。代わりに漢文の復習付き合ってくれる?」
「まっかせなさい、お安い御用だよ」
志恵は戸村の隣に座り教科書とノートを広げた。戸村はこの学園にしては珍しく文系が得意だ。理系の学部志望の志恵とは、互いを補い合える良い関係だった。勉強を抜きにしても気の合う、志恵にとっての数少ない友人だ。
──それにしても、人が多い割に今日の自習室は静かだ。雨音があるとは言え皆のお喋りが耳に付かない。不思議に思いながらも志恵が勉強を続けていると、戸村がこっそりと耳打ちしてくる。
「ねえ知ってる? 桜谷さんの事」
「え、桜谷さんがどうしたの? 何かあったの?」
「……見てよあれ」
小声で問い返すと、戸村が今居る場所から一番遠い部屋の隅をシャープペンシルの後ろで指し示す。そこには──ぐすぐすと顔を覆って嗚咽を漏らす桜谷聡美と、桜谷を慰めているらしき仲間の姿。
「あれ、……どうしたの、桜谷さん……?」
人目もはばからず悲しみを撒き散らす桜谷に若干引きながら、志恵が呟く。すると、戸村がひそひそと理由を教えてくれた。
「志恵ちゃん、二組の長船君が飛び降りようとした事、知ってる?」
「ああ、うん。わたしも見てたよ、日本史の眞柴先生が助けるところ。それと桜谷さんに何か関係あるの?」
「桜谷さんね、長船君の事、前からずっと好きだったんだって。なのに告る勇気が出なくって、うじうじしてる間にホラ、長船君が死のうとしたでしょ」
「へえ、長船君みたいなのがタイプだったんだ、意外……。えっ、それで何で桜谷さんが泣くの? 助かったんだから喜べばいいのに」
「それがさあ」
戸村は一旦言葉を切り、ちらと周囲を窺う。桜谷達以外の二年生は皆、桜谷から離れた席でひそひそと小声で噂話に興じていた。きっと皆、自分達と同じ事を話しているのだろう──志恵は下世話な気がして少し心が沈んだが、それでも好奇心は止められなかった。
「自分がもっと早く勇気出して告ってれば、長船君も死のうなんて思う事も無かったかもって、後悔して泣いてるのよ。なんか呆れちゃうよね。OK貰って両想いになるの前提かよって、自意識過剰過ぎない?」
「えっ何ソレ……よく分かんない。後悔するぐらいなら、今からでも告白すればいいのに」
「ね、志恵ちゃんもそう思うよね。なんか雰囲気で悲しんでるだけっていうか、悲劇のヒロイン気取りっていうか……」
ねー、と零す戸村に、志恵は曖昧に頷いた。本当に意味が分からない。例えば、長船君が亡くなったと言うのであれば、後悔したり嘆き悲しんだりするのも当然理解が出来る。しかし実際には彼は助けられ、今も生きているのだ。喜びこそすれ、悲しむ理由が何処にあると言うのだろうか。
すると勉強をする振りをしながら話を聞いていたのだろう、戸村の後輩である月岡が、身を乗り出して割り込んで来た。
「私思ったんですけど、逆にこれってチャンスじゃないですか? 『ずっと好きだったけど今迄言えなかった。でも、あなたが死んだら悲しむ人間がここにいるって、分かって欲しくて』みたいに告ったら、ガチでイケるんじゃないですか? ってか絶対イケますよコレ」
「あっそれ本気でイケそう。つっきー天才!」
「いやーそれほどでも、って彩花先輩、褒めても何も出ませんよう」
戸村と月岡の会話に志恵はふうと溜息をつく。視界の端に映った桜谷は、まだぐずぐずと鳴いていた。──後悔するぐらいなら、告白でも何でも今からやれば良いのに、と志恵は改めて苛立ちを覚える。普段はあんなに傍若無人に振る舞っているのに、構って欲しいのが見え見えの態度にも余計に腹が立った。
桜谷から視線を外し、志恵は勉強へと取り掛かる。しかし色々な事が気になって、全く集中出来ずにいた。取り留めも無い考えがぐるぐると脳内を巡る。
──恋愛、か……。自分が誰かに恋をした記憶など、志恵には無い。あんな風に思い込んで泣けるのだから、恋って凄いんだな、と漠然と志恵は思う。でも──。
「長船君を助けた時の眞柴先生、格好良かったよね」
何の気無しに漏らした言葉に、戸村が食い付いた。
「おっ、志恵ちゃんも眞柴先生ガチ恋勢? でも競争率高いよ、大変だと思うなあ」
「え、いや、そんなんじゃ……。好きになるとかそういうの関係無くって、ただ単にって話だよ」
「でも志恵ちゃんって今迄そんな恋愛とかの話全然した事無いでしょ。だから珍しいなーって、もしかして初恋!?」
「だから、そんなんじゃ無いってば」
戸村の追求を否定しながらも、ふと志恵は思い出す。それは、体育の授業中に瘴気に囚われそうになった、あの時の事。
──わたしを助けてくれたあの手。大きくて、熱くて、力強くて。ぼんやりとしか覚えてはいないけれど、ずっと忘れられない、あの手。あれは誰だったのだろう……。
そう考えた瞬間、拍動がトクンと大きく跳ねた。もしかしてわたしは、あの手の持ち主に恋をしているのだろうか──志恵はシャープペンシルの先端を眺めながらぼんやりと思いを巡らせる。
自分自身が分からなくて、はっきりした答えなど無くて、志恵はそっと睫毛を伏せた。
激しく降っていた雨はいつの間にか弱まり、雨音は啜り泣くような響きで窓を打ち続けていた。
──そして、長船が遺体となって見付かったのは、その翌朝の事だった。
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