02-04
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間一髪、──空覇の手が少年の足に届く。ぐっと強く細い足首を握り締める。しかし──。
投げ出される身体。風に乱れる髪。空覇が、少年もろとも宙に浮く。少年を捉えたまでは良かったが、このままでは二人揃って墜落死だ。遠く、歪む悲鳴がさざなみのように聴覚を奪う。
咄嗟に動かした爪先が、──屋上の縁を捉えた。ギリギリの所で両の足が縁に引っ掛かる。助かった、と空覇が思ったのも束の間。
「っ、く──」
途端、ガクン、と少年と自身を合わせた全体重が空覇の足に掛かった。衝撃と痛みに呻きが漏れる。血が逆流する。脂汗が一気に噴き出し宙に散る。
落下が止まる。足先と手に力を籠め、空覇は一旦大きく息をついた。少年の身体は力無くだらりと垂れ、掴まれていない方の足がぷらんと揺れた。
「……大丈夫か、おい。──ああ、意識が無いのか」
そのままの体勢で声を掛けるも、少年からの返事は無い。弛緩したその様子を見るに、どうやら気絶してしまったようだ。それならそれでいい、下手にパニックを起こされるよりはマシだ──と空覇はもう一方の手も使って少年の足を手繰り寄せ、そして片腕にがっしりと少年の腰を抱え直す。
空いた腕で壁の出っ張りを掴み、少しでも負荷を分散させる。流石に足は動かせそうも無い。この体勢から自力で屋上へと戻るのは不可能だろう。助けが来るまで保てば──と思っていた所に、騒がしい声と複数人の慌てた足音が届いた。
「眞柴先生、大丈夫ですか!?」
火ノ宮の声だ。他にも数人の気配がし、丈夫そうなロープがするすると下りてくる。空覇は片手で器用にロープを少年の腰にぐるぐると回し、口と手で堅く結んだ。
「取り敢えず俺は大丈夫だ、先にこいつを引き上げてくれ!」
言うや否やずるずるとロープが引かれ少年の身体が引き上げられてゆく。おーえす、おーえす、という野太い掛け声は男性体育教師のものだろうか。間も無く再度垂らされてきたロープを腕に巻き付けると、空覇は屋上へと大きな声で呼び掛けた。
「おーい! 自力で上がるから、ロープを何処かに固定するか、しっかり持っててくれ!」
「え、自力で!? え、ええと──あ、はい! オッケーよ!」
慌てたような火ノ宮の返事があった。空覇は確認の為に一度ロープをグイと引くが、動く様子は無い。問題無さそうだと判断して、空覇は両手でロープを手繰り巻き取りながら、無事屋上の縁へと身体を引き上げた。
見るとロープはフェンスの支柱に結んだ上で火ノ宮が自身に巻き付け固定していた。ロープを解きひらりフェンスを乗り越えた空覇に、火ノ宮は安堵の息をつきながらロープを片付け始める。他に二、三の教員の姿が見えた。皆一様にほっとした表情を浮かべている。
「ホント、無茶よね。よくやるわ……二人共が無事で良かった」
火ノ宮の言葉は非難めいてはいるが、その口調は明らかに気遣わしげだ。纏めたロープを肩に担いだ火ノ宮に、空覇は口の片端で笑いながら身体の様子を確かめる。
「そう言わんでくれ。咄嗟の事で勝手に身体が動いちまったんだ。……で、例の生徒は?」
空覇の問いに、少年を抱え上げた男性教員が野太い声で答えた。逞しい腕の中で少年はぐったりと弛緩し、目を閉じたままだ。
「気を失っているだけで、足首に痣が出来た以外は外傷は無さそうだ。ありがとう、眞柴先生。こいつはこのまま医務室へ連れていくよ」
「そうか、なら良かった。頼んます」
「……あなたはいいの? 眞柴先生。足とか腕とか痛めてない? 一応医務室で診て貰ったら?」
少し心配そうな火ノ宮の視線に、空覇は肩を竦める。多少の痛みはまだ残っているものの、大した影響は無い。直ぐに元に戻るだろう。
「俺はまあ、問題無えな。大袈裟にする程の事じゃねえし、休んでりゃ大丈夫だ」
じゃあ行きますか、と一同は屋上から撤収した。野次馬の生徒達を掻き分け散らしながら職員棟へと歩みを進める。
──不意に、ゴロゴロという地鳴りにも似た音が響いた。空覇が空を見上げると、あれだけ晴れていた空に黒い雲が広がり始めている。こりゃひと雨来そうだな──と空覇は眉を顰めるのだった。
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その後は仕事どころでは無かった。医務室の医師や教頭に事情を聞かれ、職員棟を出たら出たで今度は生徒達に囲まれた。諸々で疲れ切った空覇は、全てを投げ出して風呂でゆっくりする事にした。
「かあーッ、やっぱデッケェ風呂はいいなァ!」
という事で男子寮の風呂である。空覇の隣には数日前と同じように大乃国広が浴槽に浸かってのんびりと湯を堪能していた。
「でも良かったっすよ、二人とも無事で。長船君もゆっくり休めば、死のうなんて考えなくなるんじゃないっすかね」
「ああ、あいつ長船って名前だったんだな。……そだな、死んじゃア何にもならねえよ。生きてりゃ何とかなるんだからさあ」
湯船の縁に背を預けながら空覇がぼんやりと言う。そうっすよね、という大乃の呟きを聞き流し、空覇ははあと大きく溜息をついた。あ、そう言えば、と大乃が思い出したように声を上げる。
「そいや眞柴センセ、噂になってるっすよ。なんか先生に背中をマッサージされると体調が途端に良くなるとか」
「ああ、アレか──」
空覇は呪符を剥がしてやった生徒達の事を思い出した。マッサージ、成る程。確かにそう見えなくも無いだろう。しかし続く大乃の言葉に、空覇は目を剥いた。
「だから今眞柴先生、『ゴッドハンド眞柴』って呼ばれてるんすよ」
「何じゃそりゃア!?」
「ははははは!! ゴッドハンド!! 神の手っすよ!! マジパネェっすよ!!」
「クソダセェ名前付けんなよ!? 言い出したのお前か!? お前なんだろ!?」
「やだな違うっすよははははは!!」
そうしてひとしきり湯を堪能した後、二人は揃って風呂を上がった。大乃は身体を洗うのも早いが身体を拭くのも早い。ちゃっちゃと学内着を着込むと早々に風呂場を去って行った。
空覇は脱衣所で鏡を見ながらゆっくりと髪を乾かしていた。毛量が多く肩より長い黒髪はドライヤーを当てるのも一苦労だ。普段はタオルドライだけで済ますのだが、今日は何となく丁寧にしたい気分だった。
「あ、眞柴先生──」
そこへどやどやと入って来たのは、八色雷火達三年生の集団だった。まだ早い時間だが、気分転換がてらに一風呂浴びに来た、といった感じなのだろう。皆は空覇に挨拶をすると、他愛ない会話を交わしながら浴室へと入って行った。
──脱衣所に一人だけ残っていた雷火が、すっと空覇の斜め後ろに近寄った。空覇は鏡越しに雷火と目を合わせ、ドライヤーのスイッチを切る。
「……あまり、出過ぎた真似をしない方が身の為です」
「呪符の事か、長船を助けた事か、その両方か?」
「どちらもです。……まあ、あなたは止めても聞かないでしょうけど」
鏡越しに雷火が空覇を睨み付ける。空覇は手櫛で髪を整えながら鼻で笑う。
「よく分かってんじゃねェか。ちなみにそれは、警告か、それとも脅迫か?」
「ただの、忠告ですよ」
それを最後に、雷火はきびすを返し服を脱ぐと浴室へと入って行った。空覇はふうと溜息をつく。
──やはり、あいつからは呪詛の匂いがする。
空覇は浴場を出、階段を昇ると再度溜息をついた。空を黒雲が覆い、強い雨が降り始めている。遠くで雷が光り、遅れて音が響いた。
「今晩は荒れそうだな……」
ぽつり呟いた言葉は、雨の音に掻き消され何処にも届かずに消えてゆくのだった。
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