02-02
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四限目終了のチャイムが鳴ると、教室棟には一気にざわめきが満ちる。昼休み、昼食の時間だ。生徒達は束の間の休息を満喫すべく、揃って移動を開始する。
生徒達の昼食は寮の食堂に用意されている。また職員や教員の食事も同様にそれぞれの職員寮で摂るのが決まりだ。例外は寮母や寮監などの生徒寮に常駐するスタッフで、彼らは自室のある生徒寮で生徒達と共に食事をするのだ。
故に男子寮の寮監である眞柴空覇は男子寮へと向かうべく、教室棟の廊下を進んでいた。
「あっ眞柴先生! 今日のお昼はあんかけ焼きそばらしいっすよ」
「おっそうか、楽しみだな。でも早く喰いたいからって廊下は走んなよ」
空覇を追い越して寮に急ぐ男子生徒達と短い会話を交わす。余程腹が減っているのだろう、注意したそばから小走りになり去ってゆく生徒達の背中を見送りながら、そこでふと空覇はこちらへと向かって進んで来る一人の女子生徒に目を留めた。
女子生徒は調子が悪そうに顔を伏せ、頼り無い足取りで廊下の隅を歩いている。そしてその背中からは澱んだ黒い瘴気が漏れ出ていた。行き交う生徒達を器用にかわしながら、空覇はその女子生徒に近付き抑えたボリュームで声を掛けた。
「大丈夫か。体調悪そうだぞ」
「あ、……え、と。眞柴先生……? そ、その、大丈夫です、別に病気とかじゃ……」
「いいから、ちょっとこっちに来い」
生徒達の波を避け、空覇は近くにあった無人の教室へと女子生徒を引き入れた。どうやらそこは使われていない空き教室のようで、がらんとした中には机や椅子が無造作に置かれている。後ろ手にドアを閉める空覇の意図が見えず、女子生徒は戸惑いの目で窺うように空覇を見上げた。
「えっと、あの、先生……?」
「いいから向こう向け。それでちょっと触るけどじっとしてろ、いいな?」
「え、えええ、え」
顔を赤くしますます戸惑う女子生徒の背中に空覇は手を伸ばす。もやもやと湧く瘴気に空覇の手が触れた瞬間、闇めいた気配は霧散し跡形も無く消えてゆく。それに連動するかのように、緊張していた女子生徒の肩からも強張りが抜けていった。不思議そうに振り返る女子生徒の顔色は、先程よりも幾分かマシになっている。
「せ、先生、一体……? 急に身体が楽になったんですけど」
「ん、まあ、ただのおまじないみてェなモンだ。あ、まだもうちっとじっとしてろ」
言いつつ空覇はセーラー服の襟を捲る。するとその内側に、一枚の紙が貼られていた。両面テープで固定されたそれはノートを切って作ったもののようで、しかしその表面には黒いペンで奇怪な紋様が描かれている。
──やはりか、と毒づきながら空覇はその呪符をむしり取った。くしゃりと手の内で握り潰し、ポケットへと放り込む。最後にセーラー服の肩から背中に掛けてをパンパンと軽く払い、そしてポンポンと女子生徒の肩を叩いた。
「よっし、これでもう大丈夫だ。ホラ、もう行っていいぞ」
「え、その、……あ、ありがとうございます」
「ホラ早く行かねェと、昼飯食べる時間無くなっちまうぞ」
釈然としない表情で礼を言う女子生徒を促し、空き教室を出る背を見送る。おぼつかなかった足取りには力が戻り、俯いていた顔もしっかりと前を向いていた。
ポケットの中には握り潰した呪符が四枚も溜まっている。空覇は肩をすくめ、何事も無かったかのように歩き出すのだった。
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八色学園の敷地は、ぐるり周囲を高い鉄柵で囲まれている。
柵に設置された出入り口は三つ。それぞれ正門、通用門、そして非常門と呼ばれている。南の正面にある正門には守衛が常駐し、また北西にある物資搬入用の通用門にも専用のスタッフが控えている。そして北東の門は非常用であり、厳重に鍵が掛けられ閉ざされていた。
──昼食を食べ終わり、五限目が始まるまでの僅かな時間。羽々木志恵と乙紅莉栖は連れ立って非常門近くのベンチにゆっくりと身を預けていた。
教室棟東端のベンチにはスタンド式の灰皿が設置され、煙草を吸うスタッフが時折喫煙する姿が見受けられる。しかしそこから渡り廊下を渡った先、体育館の裏手に位置するこちらのベンチには人影が無い。女子寮から体育館前を経由して教室棟へと向かう者も、わざわざこちら側まで迂回する者は皆無なのだ。
「もうちょっとしたら五時限目だね。クリスちゃんは次、何の授業なの?」
「国語……ゲンコクってやつ。その後は化学だったかな。志恵センパイは?」
「わたしは生物だよ、その次は世界史。でも今日はまだ六時限目までしか無いからマシだよね、七時限目まである日はヤになっちゃう」
今日の空は綺麗に晴れていて、適度な風もあり心地良い気候だ。取り留めの無い話をしながらのんびりしていると、不意にクリスが驚いた声を上げた。
「志恵センパイ、見てアレ。何かいる」
クリスが指刺す先、頑丈に閉ざされた非常門の外。扉と地面の隙間から何かが顔を覗かせていた。
それは柔らかそうな毛をふさふささせた小さな生き物だった。くりくりとつぶらな瞳でこちらをじっと眺めている。
「──たぬき?」
志恵が驚愕に目を見開くと、応えるようにその生き物は、きゅう、と鳴いた。
「狸? 自分、狸初めて見た。こっち来ないかな」
「ちっちゃいから、まだ子供なのかも。呼んでみようか……ね、おいで?」
ベンチから降りてしゃがみ込み、そっと手を差し出しながら志恵が呼び掛けると、きゅう、と一度鳴いてから狸が駆け寄って来る。身体と比べて大きな尻尾がもっふりと揺れていて、やはり狸に間違い無さそうだ。
狸はくんくんと志恵の手の匂いを嗅ぎ、そしてきゅうんと鳴きながら甘えるようにその小さな身体を志恵の手に擦り付ける。横からクリスが覗き込むと、きゅう、と瞳をくりくりさせながら不思議そうな顔で見上げてきた。
「うわあ柔らかい。もふもふだしふかふかで、凄く気持ちいいよ、この子」
「え、いいな志恵センパイばっかり。自分も撫でたい」
「クリスちゃんそっとだよ、そっと」
恐る恐る手を伸ばしてクリスが頭を撫でてやると、狸は気持ち良さそうにきゅうぅと鳴いた。二人でそのままもふもふを堪能するが、狸は嫌がる素振りも見せずむしろ喜んでいるようだ。
学園があるのは山の中なので野生の狸が居てもおかしくはないが、それにしてもこの子狸は人に慣れ過ぎではないだろうか。もしかしたら何らかの事情で親がおらず、人間への危機感を持たずに育ってしまったのだろうか──? 志恵はそんな事をふと思い、しかし考えても仕方の無い事だとその想像を打ち切った。
そして狸が志恵とクリスにすっかり慣れた頃、チャイムの音が鳴り響く。
「あ、予鈴だ。残念……」
名残惜しそうにクリスが立ち上がる。志恵も狸の頭を人撫でしてから顔を寄せて語り掛けた。
「わたし達、そろそろ行かなきゃいけないから。ゴメンね、またね」
狸は雰囲気から理解したのだろうか、きゅ、と鳴くと非常門の方へと掛けてゆく。門の傍で一度立ち止まると振り返り、尻尾をふさふさと揺らしてから扉の向こうへと消えて言った。
「いっちゃったね。……わたし達も行こうか」
「うん。授業始まるし」
二人は連れ立ってベンチを後にする。教室棟に近付くにつれ、喧噪が大きくなる。そんな中、志恵の髪に付けられた鈴がちりんと鳴ったが、その事に気付いた者は誰もいなかったのであった。
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