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大粒の雨が激しく窓を叩く。寮の部屋で一人窓際の机に向かう少女は、参考書を見ながらノートにシャープペンシルを走らせていた。
少女──羽々木志恵はちらと時計に目を遣ると、ふうと軽く溜息をつき筆記具を手放す。時刻は二十二時半を少し回ったあたりだ。厚いレンズの眼鏡を外し、志恵はうーんと背を反らして大きく伸びをする。緩く一つに結んだ長い黒髪がさらりと流れ、ちりん、と髪を結ぶ組紐に下がった鈴が涼やかな音を立てた。
春休み中の寮は静かだった。全寮制の進学校である私立八色学園の女子寮には、通常ならば百名を超える生徒が共同生活を送っている。しかし三年生が卒業を迎え、更に在校生も大半が帰省した長期休暇中の寮には、およそ十名程の生徒しか残ってはいない。
志恵には帰省出来ない理由があった。他の残留組も同様なのだろう、食事や点呼の際に合わせる顔には一様にどこか寂しげな表情が貼り付いていた。しかし互いに事情を訊くような野暮な真似はしない。残留組のみならず、この全寮制の高校に通う生徒の半分程は、何らかの事情を抱えているのだから。
「ふう、……もうちょっと、区切りのいいとこまで終わらせてから寝ようかな」
再度軽く息を零すと、志恵は眼鏡を掛け直して再びノートへと向かう。後少しで三月は終わりを迎える。二年生に上がる前に、出来るだけ勉強に関する不安箇所を取り除いておきたかった。雨はいよいよ強さを増し、文字を記す筆記具の音すら掻き消してゆく。
──ざわざわ、ざわ、ざわざわ。
雨音に混じって薄く声が聞こえる。志恵は意識を勉強へと集中させ、意図的にそのさざめきを気の所為だと思い込む。
女子寮には今、寮母や寮監の教師を含めても十数人しかいない筈だ。志恵の居室がある一階に生徒は三名しか残留していない。普段ならいざ知らず、さざめきが起こる程の人数が存在していないのだ。
そもそもそれ以前に、──シャープペンシルの音が聞こえない程の雨音の中、囁くような声が聞こえる事、そのものがおかしいのだ。
だからきっとそれは人ならざる者の、声なき囁きなのだろう。志恵は薄ら寒さを感じながらも声を無視し、筆記具を動かし続ける。大丈夫だ、いつも通りに何も聞こえない振りをし続けていればその内やむ筈だ──そう心の中で自身に繰り返し言い聞かせる。
──くすくす、ざわざわ、くすくす。
ざわめきが大きさを増す。志恵の努力を嘲笑うかのように、囁きに笑い声が混じる。汗がこめかみを伝う。震えそうになる指を握り込み、強く奥歯を噛み締める。不安と恐怖が徐々に増してゆく。不必要に指先に力が籠もり、ポキリ、とシャープペンシルの芯が折れた。
「っ、あ……」
集中力が途切れる。思わず声が漏れる。囁きが、笑い声が耳をくすぐる。ぞわ、とうなじの毛が逆立つ。鼓動が速度を増す。部屋の隅で、ぬるりと凝った闇が蠢く。
──その瞬間、閃光が部屋を白く染めた。
「ひっ……!」
大気を裂くが如き低い唸りが走り、次いでドォン、と遅れて轟音が夜を揺るがせた。空気をびりびりと震わせる雷鳴に、志恵は小さく悲鳴を上げる。思わず筆記具を放り出し頭を抱え机に突っ伏す。
志恵は特段雷が怖いという訳では無い。しかし近くで轟く雷鳴に、流石に恐怖を感じずにはいられなかった。二度、三度と落雷が続き、心細さに身を固く縮こまらせる。落雷の影響だろうか、部屋の照明とデスクライトが瞬きの後に消灯する。いや増した雨音と雷鳴の隙間にはまだ姿無き者の笑い声が聞こえている。
「やだ、もう……何でこんな、わたしばっかり……」
雷光だけが時折照らす部屋の中、無意味な泣き言が口をつく。今日はもう布団を被って寝てしまおうか、そんな考えを巡らせていた志恵の耳に、──突如それは届いた。
コン、コンコン。コン、コン。
最初それはドアのノックのように思われた。雷による停電が起こった事で生徒が不安がっていないか、寮母なり寮監なりが巡回に来たのだろうか、志恵はそう考えた。思わず身を起こそうとして、しかし──そうでは無かった事に、志恵は気付いた。
上げた顔の前には大きな窓がある。僅かに開いたカーテンの隙間──そこに、黒い人影が映っていたのだ。コンコンというノックの音は、ドアではなく窓を叩く音だと、志恵は気付いてしまった。
「っ、ひ、あ、あっあああ……!?」
再び閃光が視界を灼く。雷を背に浮かび上がったその影は、長い髪をぼさぼさに乱し、八色学園の制服であるセーラー服を身に纏った──女生徒の姿に見えた。逆光で見えない筈の眼が、じっと志恵を凝視している。
コンコン、コン──窓を叩く音は明瞭で、まるで直接心臓をノックされているかのように志恵の鼓動を跳ねさせる。恐怖で奥歯をガチガチと鳴らしながらも、志恵はその影から視線を外せない。
そして硬直したままの視界の中、──不意に、影が笑った、気がした。
『おいでよ、こっち、おいでよ』
それは雷鳴にも雨音にも掻き消される事無く、志恵の耳に流し込まれた。どろりと粘い囁きが目の前の影から発せられたものだと、一瞬遅れて志恵は理解し、息を飲む。
『おいでよ、こっち、おいでよ、いっしょに、いこうよ』
コンコン、くすくす、コン、ざわざわ、コンコン──ノックの音とざわざわくすくすというさざめきが、影の言葉と混じりボリュームを上げる。頭の中に直接響く音に、がたがたと全身を震わせながら志恵は涙を瞳に滲ませる。
『──いこうよ、ねえ?』
「……っ、あ、あっあああ、あぁああああぁああっ!」
一際強い閃光が迸った瞬間、──志恵は何もかもを放り出して立ち上がり、弾かれたようにベッドへと走った。椅子が倒れた事にすら気付かず、二段ベッドの下段へ飛び込み布団へと潜り込む。
もう何もかも限界だった。頭から布団を被り、固く眼を閉じて両手で耳を塞いだ。カチカチカチという奥歯の鳴る音と激しい拍動が耳の奥でうるさい程に響いている。眼からはほろほろと涙が零れ、頬を伝いシーツを濡らした。
「──もう、やだ。わたし、何も悪い事してないのに……!」
耳にこびりつくさざめきと影の声が、志恵の心を嘲笑う。強い雷鳴が遠くに聞こえる。
どれ程の時間そうしていたのだろうか。心はもう限界だった。恐怖に疲れ夢か現実化も判然としなくなった頃、志恵の意識はいつの間にか気を失うように昏い闇の中へと、沈んでいったのだった。
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