成金令嬢と蔑まれた私が、誠実なあなたに恋をした
我がクレマ―家は、このヴェルク王国において男爵位を賜る家であると同時に、商家としても名を馳せている。
王都でも屈指の資産を持つ大商会を営み、貴族社会にもそこそこ顔が利く。
もっとも、歴史ある商家と比べればまだまだ新参者だ。
だからこそ、父には野心がある。
『もっと上へいき、やがてはヴェルク王国一の商家となり、国を裏から動かせるほどの力を有する』
その野心を、娘である私――アディーレも理解しているし、応援もしている。
私だけじゃない。我が家の子どもたちはみんなそうだ。
二人の兄も私も、幼い頃から帳簿を読み、父の側であらゆる取引のやり方を学び、家業に関わってきた。
母は箱入りの子爵家のお嬢様だからそういった方面には疎いけど、穏やかな性格で高位の貴族のご婦人方にも気に入られていて、それが我が家の発展の後押しにもなっている。
そしてこの商家の跡継ぎである長兄だけでなく、次兄も私もそれぞれ家業の一つを任せられている。
ちなみに私の受け持ちは、融資や投資を管理する部門。
数字を読む力が兄妹の中で私が一番長けていて、この部門で出している利益は年々右肩上がりだ。
そんなある日、父から、私の婚約者が決まったと淡々と告げられた。
それ自体には特に驚かなかった。
さらなる富と権力を手に入れるために有力貴族と婚姻関係を結ぶことは、もっとも手っ取り早く、そして必要なことだ。
長兄と次兄も、それぞれ子爵家と伯爵家のご令嬢との婚姻関係を結んでいる。
けれどそんな私が自分の婚約者の名前を聞いた瞬間思わず耳を疑ったのには、理由がある。
「相手はグランシュタイン家の嫡男だ」
「……っ、それは本当なんですか?」
「当然だ、私が嘘をつくはずがなかろう」
グランシュタイン家は、この国の中でも由緒正しい、古くから続く家。そして、二代前の陛下の妹君が嫁がれた、侯爵家でもある。
一方で我が家は男爵家。
家格があまりにも違い過ぎる。普通であればまず成立しえない婚姻関係。
だが、それがグランシュタイン家ということであれば、確かになくはない話なのだろうとは思った。
何故ならあの家は、現状火の車だから。
才に恵まれたとは言い難い現当主が小さな失敗を積み重ね、決定打として投資に失敗した結果、多額の借金を抱え込んだという話は、すでに社交界でも噂になっていた。
だからこそ、膨大な額である借金を返済するために我が家が資金を貸し、侯爵家は代わりに貴族中枢との太い繋がりを我が家に与える。
分かりやすい。実に分かりやすい取引。
私が将来置かれる立場は、次期侯爵夫人といったところか。
正直、高位貴族の礼儀作法にはあまり自信はないが、必要ならば身に着ける覚悟はできている。
それに父の野心は、私自身の野心でもある。
だから、婚約の話を断る理由はなかった。
「分かりました。お受けします」
そう答えた私に、父は満足そうに頷いた。
……ただ一つ、問題があるとすれば。
婚約相手のユリウス・グランシュタインは、社交界の宝石と呼ばれるほどの美貌の持ち主だ。
そして――相思相愛の幼馴染がいることでも有名だという点だった。
しかもその幼馴染もまた、同じ侯爵家の令嬢で、社交界の花というあだ名を持つ美しい女性だ。
……ああ、面倒くさいことになりそうだ。
頭が少し痛くなるのを感じる。
その不安が決して杞憂ではなかったことを、私はすぐに思い知ることになる。
◆
ユリウス・グランシュタインと私の婚約の話は、彼本人と顔を合わせるよりも早く貴族社会に知れ渡った。
とくると、当然のようにこんな噂が立つ。
「幼馴染を引き裂く、成金の悪役令嬢よ」
「金で名門侯爵家に入り込もうだなんて、汚いやり方だわ」
――まあ、そう見えるよね。
母と共に呼ばれた知り合いの伯爵家のお茶会に参加した際、そんなふうに小声で囁く令嬢たちの声が耳に入る。
面白いくらい予想通りだ。
ユリウスと、彼の幼馴染であるグリュンベルト家のクラリッサ侯爵令嬢。
二人は仲の良さだけでなく、並んだ姿も美しいと社交界でも有名だった。
ユリウス様との婚約が決まる前、二人が並んでいるのを見かけたことがあるが、その時、私は素直に思ったものだ。
――お似合いだな、と。
だからといって、彼に特別な感情を抱いていたわけではない。
単に整ったものを見た時に浮かんだ率直な感想だ。
対する私自身の容姿だけど、決して悪くはないと思っている。
ただ、社交界の花と称されるクラリッサと比べれば、ごく普通だ。
あちらが薔薇や百合、蘭のような華やかな花なら、私はもっと控えめな、名も知られぬ花だろう。
それは自信の有無とは別の話だ。客観的に見て、そうだろうと思うだけ。
そもそも、私たちクレマー家にとって大切なのは見た目ではない。
まずは才覚があるか。
そして、家業の一角を担い、重要な場面で正しい判断を下し、たとえ誰かに批判されようとも上へ行く覚悟があるかどうか。
かといって我が家は、人様に言えないような汚い手を使うことはない。
今回の婚約だって、我が家は多大な資金をグランシュタイン家に投入するのだ。これは正当な取引である。
それでも見ようによっては、金に物を言わせて愛しい二人を引き裂く悪役に見えるのだろう。
……私とて、恋しい相手と引き離す形になったことに、罪悪感がまったくないわけではない。
けれど現実問題、我が家が資金を出さなければ、ユリウスが侯爵家の嫡男としての立場を保てたかどうかも怪しい……どころか、間違いなくグランシュタイン家は取り潰しとなる。
仮に私でなくとも、同じ理由で別の誰かが婚約者に選ばれていただけだ。
だから私は、傍観者でしかない令嬢たちの視線と言葉に屈することなく、背筋を伸ばし、むしろそんな声などまったく堪えないとばかりに微笑みを浮かべる。
ちなみにこれは、母様から教わったことだ。
『悪いことをしていないのなら、決して顔を下に向けてはなりません。堂々と、自信を持って笑っていなさい』
両親の婚約は政略的なものだったらしい。
が、吹けば折れそうな体躯をしている母様だけど、内面はとても芯が強い人なのだ。
なるほど、あの父様の伴侶なだけある。
そして――ついに、例の婚約者と顔を合わせる日がやってきた。
◆
その日、私と両親は、グランシュタイン侯爵邸を訪れていた。
侯爵家の屋敷は、外観だけを見れば歴史を感じさせる荘厳な建物だ。
白を基調とした石造りの建物は手入れが行き届いており、門構えも堂々としている。
けれど――中に足を踏み入れて、すぐに違和感を覚えた。
広さのわりに、使用人の姿が驚くほど少ない。
それだけじゃない。
廊下も応接間も綺麗に掃除されているが、どこか物足りない印象を受ける。
無作法に見えないように静かに視線を巡らせていた私は、理由に気づいた。
調度品も最低限なのだ。それどころか、ほとんど何も置かれていない。
かといって、元からなにもなかったわけではないようだ。壁には、明らかに何かが飾られていたであろう跡がいくつも残っていたから。
なら考えられるのは……金策に困り、少しずつ、価値のあるものから手放していったのだろう。
出されたカップもお茶も同じだった。
飾り気のない真っ白なカップは、量産品だ。
紅茶も決して粗悪品ではないが、我が家で日常的に口にするものより、明らかに等級が下だ。
やがて扉が開き、グランシュタイン家の現当主フレディー様の後ろに見えた青年を目にした私は、思わず息を呑んだ。
間近で見る彼は、これまで見てきたどの令息よりも圧倒的に美しい。
直接的な会話はしたことはなくとも、その姿を見たことはある私ですら、視線をしばらく彼から外せなかった。
淡い金色を含んだ白銀の髪は、磨かれた水晶のように光を受けて輝き、深い蒼の瞳は冷たさはなく、光の角度で色合いを変えるサファイアのようだった。
顔立ちは整いすぎているほどなのに、どこか柔らかい。
着ている服は、正直に言えば侯爵家の嫡男としては驚くほどに質素だった。けれどそんな事実など気にもならないほどに、彼の美貌は圧倒的だった。
――彼が、ユリウス・グランシュタイン。社交界の宝石と称される、私の婚約者。
私と視線が合った彼は少し緊張したように、それでも相手が男爵家であるにもかかわらず、奢った感じでもなく、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。ユリウス・グランシュタインです」
「アディーレ・クレマーです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
互いに形式的な挨拶を交わし、向かい合って腰を下ろす。
それからは両家の親も交えて簡単な雑談をした後、二人で仲を深めるという名目で彼と二人で、庭を散策することになった。
庭は、ぼうぼうと雑草が生い茂っていることはなかった。
けれど植えられている花の数は最小限で、石畳の歩道から見えない位置にある花壇には何も植えられず、寂しい景色が広がっていた。
その景色の中にあっても、ユリウス様の美貌は色褪せない。
それだけではない。
グランシュタイン家では侯爵家らしくきちんとした礼儀作法を受けていたんだろう。
さきほど紅茶を飲んでいる姿を見た時にも思ったが、指先や背筋の伸び方、所作の一つ一つが繊細で美しい。
私もマナー講座を受けているが、正直今のままでは高位貴族の未来の夫人としては足元にも及ばない。
経緯がどうであれ、私は彼の婚約者になったのだ。
容姿を大輪の薔薇にすることは難しいが、少なくとも所作や振る舞いは美しくあらねば。
これから先のクレマー家の発展のためにも、ユリウス様のためにも、無様だと笑い物にされるわけにはいかない。
私は歩きながら、口を開く。
「ユリウス様。今の私のままでは、成金令嬢と噂され、隣に立つあなたの評判にすら傷を付けることでしょう。ですので、お願いがあります」
「お願い、ですか?」
「はい。あなたの隣に立つのに見劣りしないよう努力します。なので、私の振る舞いにダメなところがあれば、遠慮なく言っていただきたいんです。それに、可能ならばダンスの練習にもお付き合いいただければありがたいのですが」
私のダンスは形にはなっているが、ただそれだけ。
「私は婚約者として、あなたの足を引っ張る真似はしたくありませんので。その代わり、と言ってはなんですが、必ずやグランシュタイン家を私が立て直します」
父様がこの家に私を寄越す理由はいくつかあるが、一番は私の腕を見込んでのことだろう。
私はここで足を止め、まっすぐにユリウス様を見据える。
「正直に申し上げます。クレマー家がいくら資金を投入しようとも、今のままではまた同じことが起こるでしょう。当主のフレディー様がそういった方面にあまり才覚がないのは周知の事実ですが……。失礼ながらユリウス様も、あまり得意ではないかと」
ユリウス様の瞳が大きく見開かれる。
私は自分で言ったとおり、非常に失礼なことを口にしている自覚はある。
だけど、グランシュタイン家のこれまでの経済状況や、ユリウス様が二年前に卒業した王立学園での成績表を取り寄せて色々と照らし合わせた結果、私自身がそう結論付けた。
が、ユリウス様は怒らなかった。
代わりに小さく息を吐く。
「そうですね、アディーレ嬢の言う通りです。……父も僕も、数字は本当に得意ではありません」
ユリウス様は少しだけ目を伏せ、続ける。
「母が亡くなってから、僕も学園で学んだ知識を総動員して父とこの家を支えようとしました。ですが……どうしても上手くいかなくて。数字の読み違いや、相手の言葉を鵜呑みにしてしまったりと、結果的に損を出してしまうことが多かったんです。情けない話ですが」
「すみません、ユリウス様を責めたいわけではないのです。ただ、大切なことなので、もしユリウス様が分かっていないのならはっきりお伝えするべきかと思いまして」
肩を落とすユリウス様に、私は慌てて謝罪する。
この感じからして、ユリウス様は自身とそれを取り巻く状況を、きちんと理解しているようだ。
しかし、状況的にどうしようもないことなのは私も分かる。
フレディー様もユリウス様も兄弟はいない。侯爵家を存続させるために、彼らがこの家を継ぐのは必然だった。
そして、政略的な繋がりでフレディー様が迎えた妻はそっち方面の能力に長けていたらしいが、残念ながら数年前に病で亡くなっている。
その頃から見る見る間にグランシュタイン家の財政は悪化していったのだ。
「人には向き不向きがあります。それは仕方のないことです。だからこそ、私がグランシュタイン家にやってきました。ユリウス様達の苦手な部分は、全てこの私が補います。代わりに、私は高位貴族らしい振る舞いが上手くできる自信が今はありませんので、私のサポートをしていただけると助かります。……偉そうな言い方に聞こえるでしょうが、持ちつ持たれつ、対等な関係を築きたいと考えていますので」
爵位の違いだけで見れば、ユリウス様は私よりも遥か上の立場の人間だ。
けど、今回の婚約は互いに互いの足りない部分を補うための婚約だ。
なら、私とユリウス様は、どちらが上でどちらが下ということでもないと私は思っている。
この私の言葉に、ユリウス様は恐縮したように首を横に振る。
「そんな! 偉そうだなんて思いません。むしろこんな手の施しようもない我が家に手を差し伸べてくれたクレマー家には、感謝の言葉しかありません。それに、アディーレ嬢は他人の言いにくいことでもはっきりと言ってくれるので、とてもありがたいです」
勿論私とていうべき場所と人は選ぶ。
誰彼構わず、明け透けに事実を言うのが正しいとは思っていない。
しかし、私が可愛げのない婚約者であることは事実だろう。
頭の中にふと、クラリッサ様と笑い合っていたユリウス様の顔が浮かぶ。
グランシュタイン家の家計がこんなことにならなければ、結ばれていたであろう二人。私は彼女のようにはなれない。
――ここで、「あなたの幼馴染の方とまるで違っていて、今後失望させることになったらすみません」と付け加えるべきかどうか、ほんの一瞬悩んだ。
けれど私を見つめるユリウス様は、静かに微笑みながらも、覚悟の決まった目をしていた。
だから私はその台詞を呑み込むと、
「これからよろしくお願いします、ユリウス様」
「こちらこそ、お願いします、アディーレ嬢」
互いにそう言って、これから人生を共にする同志としての握手を交わした。
◆
婚約が正式に発表されてから、私の日常は一変した。
グランシュタイン侯爵邸に通い詰め、帳簿を確認し、契約書を洗い直し、過去の支出を一つひとつ精査する。
結果として、借金はすべて清算できた。
それどころか――。
「……思ったより、残りましたね」
帳簿を閉じてそう言うと、向かいに座るユリウス様と当主であるフレディー様が揃って安堵の息を吐いた。
「正直、全部消えると思っていた」
フレディー様が目を丸くすると、同じく驚いた顔のユリウス様が深く頷く。
「僕もです。アディーレ嬢のおかげですね」
そう言われるのは悪くない。
――だが問題は、ここからだった。
「で、余った分で新しい事業に投資しようと思うんだが」
フレディー様が、どこか弾んだ声で言いながら、いそいそと数枚の書類を取り出す。
「知人が紹介してくれてな。利益率が――」
「却下です」
私はそれにざっと目を通し、即答した。
二人が同時に瞬きをする。
「……アディーレ嬢? 何か問題があるのか?」
「父からこの投資の話を聞いた時、僕はかなり魅力的だと思ったんですが」
「その投資は、リスクの方が大きすぎます。現時点で手を出すべきではありません」
帳簿の端を指で叩きながら、淡々と続ける。
しかし二人は諦めない。
「これなんかはどうですか? 最近新しく知り合いが立ち上げた商会への出資です。高配当だと謳っていて、半年後には倍になって返ってくると……」
「そこは最近クレマー家や他のまともな商会が注意喚起している商会ですね。出資すればまずお金は戻ってきません。後、美味しすぎる話を持ち込む知り合いや知人は、できれば即座に縁を切ってください」
「だ、だったらこれはどうですか? 地方で新たに鉱脈が見つかったという話で、採掘権の購入を勧められているんです」
「……ワイマール山脈の金鉱山ですね。ですが金が出るという確固たる証拠はまだ出ていません」
「しかし万が一にでも出れば、当たりが大きいと考えたんですが」
「かなりの賭けになります。確証がないのにお金を投入するのは、かなりのギャンブルです。今のグランシュタイン家には余計な投資をする余裕はありません。もっと確実なところにしましょう」
他にも、どこから仕入れてきたのかと疑わしい投資話なども、全て却下しておいた。
「お二人とも、くれぐれも利回りの大きすぎる話には乗らないようにしてください。そういうのはかなりの確率でリスクが伴うか、詐欺の可能性が高いので。必ず、今のように私に相談してほしいです」
これまでの失敗を取り戻さなければと焦る気持ちも分かる。
だけど、今の二人は格好の鴨だ。
「……はい」
「肝に銘じる……」
二人が項垂れながらも、素直に頷いたのを確認してから、私は新たな書類を机の上に広げた。
「代わりに、こちらは進めます」
「……これはなんですか?」
「物流と輸送網の整備に、馬車と中継倉庫への投資ですね。継続的な収益が見込めます」
フレディー様が、ほう、と小さく声を漏らす。
さらにもう一枚、私は別の書類を差し出した。
「それから、こちらも」
「孤児院……の支援か?」
「僕が持ってきた話ですね」
ユリウス様は、侯爵家の資金繰りが苦しくなってからも、ずっとその孤児院のことを気にかけ、わずかばかりでも金銭的な援助を続けていた。
他にも、実際にそちらへ赴き、屋根の修繕や子どもたちの遊び相手にもなっていたそうだ。
孤児院や救貧所への支援は、確かに直接的な利益を生まない。
だが、社会的信用は確実に積み上がる。
それに、ユリウス様は心から孤児院の先行きや子どもたちのことを心配しているようだった。なら、利益が出ないという理由で援助を全てやめるなんてことはしたくなかった。
ただ、支援額は無理のない範囲で。それでも一孤児院を運営するのには十分すぎる額を用意する。
「結果としてグランシュタイン家の評判が良くなります。政治的な発言力も、少しずつですが確実に戻るでしょう」
「なるほどな」
「ただし、帳簿は徹底的に管理します。寄付金の用途は全て明確にし、不正があれば即座に契約解除です」
「それはさすがに厳しすぎではありませんか?」
「善意は、管理してこそ意味があります」
私はきっぱりと言い切った。
「無責任な慈善は、結局誰も救いませんから。……それに、ユリウス様が孤児院を気にかけてこられたことは、私はとてもユリウス様らしくて良いことだと思っています。だからこそ、続けるべきかと。無理のない範囲で、確実に彼らに届く形で」
私がそう言うと、ユリウス様が驚いたように瞬きをした。
そして、胸の奥から滲み出るような小さな声で、
「……ありがとうございます。侯爵家も危うかった時期にも孤児院に手を差し伸べるなんて愚かなことだと、その、否定されると思っていましたので」
「否定なんてしません。むしろ、誇っていいことです。そして、あなたの善意を届けるために、私がいるんですから」
利益を出すことだけを考えれば、情に流されるのはあまり良くはない。
だけど、その優しさはユリウス様の長所でもあると思う。彼の優しさに救われた人たちもきっといるはずだ。
そう伝えたら、ユリウス様は、安堵と嬉しさが混ざったような表情で微笑んだ。
彼の笑顔に鼓動が一回ドクンと高鳴る。
だけど私はそれを胸の奥に押し込め、話を続ける。
「えーと……それで、切り詰めるところは切り詰めつつ、社交に必要な経費は残します。特にフレディー様とユリウス様が社交で着用する衣装にかける金額は、絶対に削りません」
「私と父のですか?」
「はい」
質素な装いが悪いわけではない。
だが、侯爵家の当主と嫡男として見られる立場であれば、最低限の格は必要だ。
「幸い、私の二番目の兄が、主に男性向けの服飾を扱う商会を管理しています。そこから融通を利かせれば、質を保ちつつ費用は抑えられますし、それに――」
私は少しだけ口角を上げる。
「着ていただくことで、うちの商会の益にもなります」
「……なるほど」
ユリウス様は感心したように息を吐いた。
ユリウス様は本人の素材が良すぎるので、彼ならばたとえ型が古くなった衣装をまとっていてもそこまで周囲も違和感は覚えないだろう。
だが、だからこそ最新の衣装や装飾品を身に纏えば人目を引くし、宣伝効果も抜群だ。
フレディー様に関しても同様だ。
ユリウス様ととても良く似ているフレディー様は、年齢を重ねても美貌は衰えることなく、男女問わず同年代の視線を独り占めしてしまえるほどだ。
「お二人の効果で注文数が増えた場合、その数に応じてこのグランシュタイン家に宣伝費を支払うという約束を既に兄とは取り付けております」
あの次兄は妹だからといって甘やかすようなタイプではない。けれど半日粘り強く交渉を続けた結果、ほぼほぼ私の希望通りになった。
衣装に関しては、三人での話し合いのすぐ後に行われた夜会にフレディー様が出席した際、目に見えてフレディー様世代の男性の注文が増えたらしい。
それ以外も、少しずつだが効果が出てきている。
グランシュタイン家の再建は、私の目論見通り少しずつ軌道に乗り始めたのだ。
一方で私はユリウス様から、約束通り礼儀作法を教わることになったのだが。
――正直に言って、彼のレベルは思っていた以上に高かった。
食事の際の所作、歩くときの姿勢、会話の間の取り方……。
どれもが洗練されていて、長年染み付いたものだと分かる。
「背筋はもう少し自然に」
「はい」
「ナイフを持つ所作は、爪の先まで意識してください。後は、緊張で体が固くなっています」
「分かりました」
特に大変だったのは、ダンスだった。
私のダンスは、ユリウス様が完璧にエスコートしてくれるからようやく見られる程度だ。
それでも、私は落ち込まなかった。
項垂れてその場で止まるなんて、非生産的だ。後悔する暇があるなら、一つでも多く吸収できるように動くべきだ。
私はユリウス様が席を外した後も、時間があれば一人で練習を続ける。
鏡の前で、何度も、何度も。
そうしていると、いつの間にかユリウス様がそばにいて、その後は再び練習に付き合ってくれた。
一方で、ユリウス様もまた、私から教わった数字の見方を思い出しながら、彼なりに真剣に帳簿に向き合っていた。
しかし、向いていない。
本当に、びっくりするほど向いていない。
頭が悪いということではないし、理解はできているけれど、詰めが甘い。
けれど、彼は逃げなかった。
私が教えた通りに、何度も見直し、首を傾げ、時には頭を抱えながらも必死についてこようとする。
ユリウス様は確かに能力だけで見るならば優秀な当主候補、とは言えない。
けれど、努力家なところや善良な心、固まった心をいつの間にか柔らかくさせてしまうような彼の持つ穏やかな雰囲気は、やはりユリウス様の長所でもある。
例えば眉間に皺が寄るほどに考えが煮詰まった時、ふとユリウス様と話しているうちに心がいい意味で解れ、自然と悩みを解決できそうな糸口を見つけた……なんてことも一度や二度じゃない。
おかげで私の受け持つ家業の方もさらに上向きになり、実績として効果が出てきている。
実際父様にも、ユリウス様の側にいるようになってからいい意味で成長してきているように見えると褒めてもらえた。
反対にユリウス様も、優しい雰囲気はそのままに、最近では以前のような甘さはなくなってきたと周囲に認識され始めていた。
そうして――気づけば私とユリウス様は自然と距離を詰めていた。
私たちの間に甘い空気はなく、築き上げられていたのは確かな信頼関係。
……恋愛的なものではない。
少なくとも、私は勝手にそう思っていた。
なぜなら彼の心の中にはまだ、幼馴染の彼女がいるように見えたから。
ユリウス様は私の前で絶対にクラリッサ様の話はしないけど、たまに、窓ガラス越しに映る私とユリウス様の姿を、ぼんやりと見つめている時がある。
そんな彼の瞳には、ちゃんと見ていなければ分からないほど、僅かな灯が揺らいで見えた。きっと彼女への断ち切れない想いを抱え、本来隣に立つ予定だったクラリッサ様の事を思い出しているんだろう。
そう考えたら、胸の奥に、ほんの小さな傷がついたような気になった。
ユリウス様はとても優しいし、彼と話すのは楽しい。
ダンスの練習だって、初めはただの作業だとまったく気にしていなかったのに、最近は彼に触れるだけで鼓動が早くなる。
そのうえ私の心拍数の上昇に気づいたユリウス様は、いつも私を気遣うように、そして安心させるように小さな微笑みを落とすのだ。
だけど……この婚約に、恋慕の情なんて挟まない。
たとえ彼の心に誰がいようと、関係ない。
私の役割はこの家を共に立て直し、クレマー家の野望を叶えることだ。
だから小さな傷なんて見えていないとばかりに、私はそっと目を瞑った。
◆
ユリウス様と婚約し、信頼関係も築けるようになった頃。
ついに、私がユリウス様の婚約者として参加する初めての夜会がやってきた。
出発前、我が家へ迎えに来た彼の装いを改めて眺め、私は思わず息を呑んだ。
礼装は白を基調とした生地で、光の角度によって縫い込まれた銀糸が浮かび上がる仕様になっている。胸元と袖口には控えめな刺繍が施されていた。
華美ではないけれど、生地もデザインも上質なものだと一目で分かる。
その上今の彼の衣装は、金の混じる白銀の髪と蒼い瞳の色彩を邪魔することなく、むしろ更に美しく引き立てている。
ちなみにこれを選んだのは私の次兄だ。もちろん、フレディー様の衣装もだ。
割引をしてもらったとはいえかなりの額を支払い、しかも驚かせたいから当日まで私は見るなと言われ。
これで払った金額ほどの価値がなければどうしてくれようかと思っていたけど……なるほど、次兄の目利きは確かだった。
「とてもお似合いです」
率直にそう告げると、ユリウス様は少し驚いたように目を瞬かせ、それから照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。……アディーレ嬢も、とても綺麗です」
私が選んだのは、落ち着いた深紅のドレスだった。
社交界の花になれるほどの派手な華やかさはないけど、自分に似合うものは自分でよく分かっているから、満足している。
ユリウス様と並んだ時にも大きく見劣りすることはないはずだ。
その時、ふとユリウス様が私を見つめる視線が、まるで愛しい人に向けるもののように柔らかく、真剣味を帯びているような気がした。
なんとなくむず痒さを感じた私は、視線を逸らす。
……勘違いなんてしない。
そう、自分に言い聞かせながら。
その後二人並んで会場へと足を踏み入れたが、入った瞬間空気が変わり、大勢の視線がこちらに集中するのが分かった。
やはりユリウス様は目を引く。
彼がいるだけで皆がほうっと息を吐きながらユリウス様を見つめ、視線を離せなくなる。
衣装も相まって、今日は特にその存在感が否応なく際立っていた。
磨き上げられた宝石に魅了されたように、人々が次々とユリウス様に近付く。
「相変わらずお美しいですね。それに、今日の衣装は見事な仕立てで」
「ちなみにその衣装は、どちらのもので?」
彼らの反応と会話から、宣伝効果は抜群だと分かる。
今回の判断は大正解だった。
だけど、ユリウス様への賞賛と同時に、低くひそひそとした声も確かに耳に届く。
「……釣り合わないわ」
「さすが成金ね」
「本来なら、あの方の隣に立つのは……」
これまでも、どこかのお茶会や公の場に出るたびに囁かれてきた言葉。
今日は私たち二人が初めて公衆の面前で並び立つ姿を見せたためか、普段以上にその声は多く聞こえている気がする。
以前なら、ただの雑音として、うっとおしいなと思うだけだった。
けれど――今はズキリと胸が痛む。
それでも私は笑顔の武装を解かない。
背中を丸めることなく、まっすぐな姿勢を保ち、まだ何かを小声で言い合う令嬢たちに対して、微笑みを浮かべたまま視線を向ける。
すると彼女たちは、バツが悪そうな顔になりながら私の視界から消えた。
これからユリウス様と共にいると、下手をすれば生涯ああいう言葉を投げかけられるのだろう。
色んな感情がわずかに零れ、私は思わず小さく息を吐いた。
その時――ぎゅっと手を握られた。
驚いて顔を上げると、ユリウス様と目が合う。
彼はいつものように柔らかな微笑みを浮かべている。
けれどその奥に、怒りと揺るがない意思が宿っているように見えた。
ユリウス様は私を蒼の瞳に映したまま、静かに口を開いた。
「誰が何と言おうと……あなたは、僕の大切な婚約者です」
私は一瞬だけ言葉を失う。
彼の耳にも私に対する彼女たちの評価が聞こえていたのだろう。
いや、言葉だけではない。他の人たちからも、似たようなことを言いたげな視線はずっと感じている。
ユリウス様はそれを受け止める私を見て、私のために怒ってくれているようだった。
一番辛いのは、愛しい人と結ばれなかったユリウス様自身のはずなのに。
彼の優しさが、私の胸の奥をきゅっと締め付ける。
けれど私はそれを表情には出さずに彼に微笑み返すと、握られた手を握り返した。
「……ありがとうございます」
と、その時だった。
場の空気を切り替えるように、音楽が流れ始める。同時に、夜会の中央へと人々が集まっていき、パートナーと手を取り合い踊り始める。
私達も彼らに倣い歩き出して中央へ進むと、あらゆる視線がこちらに注がれているのが分かる。
練習はした。以前よりはちゃんと踊れるようになった自信はある。
それでもほんの少しだけ、緊張で体が強張る。
するとユリウス様が、私にだけ聞こえる声で言った。
「大丈夫です」
短い一言だったけど、たったそれだけで、不思議と私の肩の力が抜けた。
これまでの努力を、無駄にはしない。
呼吸を整え、私はユリウス様の導きに身を委ねながら踊りはじめた。
私はユリウス様の婚約者だ。
文句を言う隙なんて、与えない。
そんな気持ちで最後まで踊り切ると、小さく拍手が起こった。
驚いたような表情の人々を見て、私は及第点は取れたようだと理解し、ほっと胸を撫で下ろす。
次期侯爵夫人として、少なくとも、ユリウス様に恥をかかせることはなかったらしい。
その後も二曲続けて踊った後、火照った体を冷ますべく、私とユリウス様は会場の端へと移動する。
「どうでしたか?」
私は、先ほど給仕からもらったグラスの水を口に含みながら、尋ねる。
「お世辞はいりません。正直に言ってください」
ユリウス様は少し考える素振りを見せたが、柔らかい表情はそのままに答える。
「一曲目と二曲目の中盤、それに最後の曲の初めで、ほんの少しだけステップが乱れていました」
「やっぱり見抜かれていましたね」
他にも何点か口にするユリウス様。
私が分かっていたところもあったが、気付いていない部分もあって、なるほどと頷く。
「ご指摘ありがとうございます。次は、より完璧を目指しますので」
「ですが、最初に比べれば格段に美しくなっています」
ここでユリウス様は、ふぅと小さくため息をつく。
「あなたの上達ぶりには目を見張るばかりです。短期間でここまで上達するなんて」
「それはユリウス様が手伝ってくれたからです」
「僕がいない間も、忙しい時間の合間を縫って一人で練習していましたよね?」
「それは、まあ。できないことをできないままにしておくのは、悔しいですから」
私の答えに、ユリウス様は尊敬のまなざしを私に向ける。
「あなたは、本当にすごい方ですよ。何事にも屈しない強い意志を持ち、自分の意見がはっきり言えて、このグランシュタイン家を建て直せるほどの才覚がある女性で」
「手放しで褒められると……恥ずかしいですね」
「恥ずかしがる必要はありません。僕は本気でそう思っています。だからこそ、僕は……」
ユリウス様が何かを言いかけ、不意に言葉を切る。
「ユリウス様?」
表情に影が落ち、わずかに目を伏せた彼を不思議に思い声をかけると、ゆっくりとユリウス様の顔が露になる。
そして、意を決したように口を開いたユリウス様だったが――。
「ごきげんよう、ユリウス」
突然すぐ近くで聞こえてきた可憐な鈴の音のような声に、私とユリウス様が自然とそちらへ顔を向ける。
するとそこには、腰まである艶やかな金の髪をした、この会場のどの令嬢たちよりも華やかで美しく――そしてユリウス様と並び立っても劣らない美貌の人物、クラリッサ・グリュンベルトが立っていた。
彼女は、私の存在など最初から視界に入っていないかのように、ユリウス様へ一歩距離を詰める。
「久しぶりねユリウス。……あなたが夜会に姿を見せると聞いて、どうしてもお話ししたくて」
親しげな口調でユリウスと距離を詰めようと彼に近付くクラリッサ。
周囲の視線が、私たちにじわりと集まるのを感じる。
同時にひそひそと、声が聞こえる。
「……やっぱり、あちらの方がお似合いよね」
「さすがは社交界の宝石と花と呼ばれたお二人だわ」
確かに、久しぶりに並んだ二人の姿は、とても絵になっている。私ですら率直にそう感じてしまった。
だけど、今の彼の婚約者は私だ。
それに……ダンスが始まる前、私の手を握りながらユリウス様が言ってくれた言葉を思い出す。
『誰が何と言おうと……あなたは、私の大切な婚約者です』
だから、負けを認めて絶対に無様な姿なんて見せたくなかった。
けれど、私は、ユリウス様がまだクラリッサ様に気持ちを残していることも知っている。こうして話しかけられた今、ユリウス様の顔は嬉しそうに緩んでいるのかもしれない。
怖くて彼の表情を確認できず、私はぎゅっと奥歯を噛みしめる。
その間にもクラリッサ様が、さらに一歩踏み出し、ユリウス様の腕へと手を伸ばす。
私は、反射的に彼女の手をユリウス様に触れさせまいと腕を伸ばしかけ……その瞬間、ユリウス様が、穏やかな、しかしはっきりとした声で口を開いた。
「グリュンベルト侯爵令嬢。公の場でそのような距離感は控えてもらえませんか?」
彼の声に、私とクラリッサ様の動きが止まる。
私がゆっくりと隣へ視線を向けると、そこには私の想像とは違った顔をしたユリウス様の姿があった。
温和なユリウス様にしては珍しく表情は硬く、クラリッサ様を視界に収める青の瞳の温度も普段よりも低く感じた。
そんな彼に戸惑ったように、クラリッサ様が声を上げる。
「え……何を言っているのかしらユリウス。私たちは幼馴染よ? 別にこれくらい普通でしょう?」
「今、僕は婚約者のアディーレと一緒にいます。彼女にあなたとの関係を誤解されたくはありませんので。それに、隣にいるアディーレの存在を無視するのは、失礼だと思いますが」
ぴしり、と音を立てて空気が固まった。
クラリッサ様は一瞬言葉を失ったように見えたが、すぐに形ばかりの微笑みを浮かべる。
「……そうでしたわね。失礼しました」
そして、ようやく私の方へ視線を向けると、彼女は優雅に礼をする。
「クラリッサ・グリュンベルトですわ。ユリウスとは、幼い頃からの知り合いですの」
言外にはっきりと、ユリウス様への優越感が滲んでいる。
けれど私は表情を変えず、静かに一礼した。
「アディーレ・クレマーです。ユリウス様の婚約者です」
わずかに、クラリッサ様の目が細められる。
「……そう。婚約者、ね」
その声には、明らかな含みがあった。
クラリッサ様は、再びユリウス様へ向き直ると、社交界の花と呼ばれるのにふさわしいと思える、艶やかな微笑みを浮かべた。
「正直に申し上げますわ。私は、あなたが、他の方と婚約されるとは思っておりませんでしたのよ? だって、私とユリウスはとても仲が良かったんですもの。将来の話だって出ていましたでしょう?」
次にクラリッサは見下す視線を私に向ける。
「彼は、本来なら私の婚約者になるはずだった方ですの。家が傾いたからと引き離され、近づくなと父に言われただけ。ですが、今はもう状況が違いますもの。だってグランシュタイン家は持ち直し、ユリウスはこんなにも輝いているんですのよ? やっぱり彼だけが、この私を引き立たせられる唯一の人間ですわね」
そして彼女は、とんでもないことを口にした。
「ですから――この方を、返していただけませんこと?」
あまりの傲慢な物言いに、私は一瞬言葉を失う。
けれどすぐに持ち直すと、彼女に問いかける。
「……ご自分で何を言っているのか、お分かりなんですか」
まるで、ユリウス様をアクセサリーかペットと勘違いしているかのような台詞だ。
それに対しクラリッサ様は、笑顔だけはとびきり美しいものを浮かべて答えた。
「当然、分かっていますわよ。私は私の美しい持ち物を返してほしいだけですの。男爵家ごときが持つには贅沢すぎますでしょう? 美しさだけは誰にも劣らないユリウスは、私の隣でこそ輝くんですもの」
彼女は、自分の言葉は何も間違っていないと信じて疑っていないようだった。
それにクラリッサ様は、私のことを格下に見ているけど、同時にユリウス様のことだって見下している。
――ああ、私自身を馬鹿にされることよりも、何倍も腹が立つ。
けれど、私が返すよりも先に答えたのはユリウス様だった。
「グリュンベルト侯爵令嬢、返すもなにも、僕とあなたは初めからそのようだ間柄ではありません。それに、あなたと婚約するつもりもありません。僕の婚約者は、ここにいるアディーレだけですから」
ユリウス様の静かで迷いのない声に、クラリッサ様が、信じられないものを見るように目を見開く。
「……どうして? なぜそんなことを言うのかしら。だって私はあなたのことが好きなんですのよ? ユリウス、あなたも同じ気持ちだったでしょう。グランシュタイン家も元に戻りつつあり、なおかつ今のあなたでしたら問題なくお父様も認めてくれますわ! ねえ、今なら間に合いますわ。ユリウス、私を選んでくれますわよね?」
けれどユリウス様はクラリッサの台詞に静かに首を振ると、
「グランシュタイン家が持ち直したのは、アディーレの力です。あなたの言う元に戻った状況は、彼女が作ったものです。それに、僕が輝いて見えるのも全て、アディーレのお陰ですから」
するとクラリッサは、唇を噛みしめた後縋るように言った。
「だけど私はあなたのことが好きなんですのよ……」
「……すみません。でも――僕の気持ちはもう、あなたにはありません」
その一言で、すべてが終わった。
クラリッサ様はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げる。
「……そう」
そして冷えた微笑みを浮かべたクラリッサ様は、最後に吐き捨てるように、
「ご立派ですわね。この私を振るだなんて。――結局浅ましくもお金に尻尾を振った、顔しか取り柄のない男ということかしら。あなたなんて、こちらから願い下げですわ!」
そう言うと、くるりと踵を返してその場を去る。
だけど――彼女の言葉に、私の中でたまりにたまった何かが弾けた。
「お待ちください、グリュンベルト侯爵令嬢!」
そして気づけば、私は公の場にもかかわらず彼女を大声で呼び止めていた。
周囲がざわめく中、私は一歩踏み出し、真正面から彼女を見据える。
「今のお言葉、訂正してください」
「あら、どの言葉のことかしら」
「ユリウス様に関する全ての言葉です」
ユリウス様の顔が一級品なのは確かだ。
だけど、顔しか取り柄がないのかというと、それは絶対に違う。
私は知っている。
彼は家を守るために覚悟を決めて私と婚約をした。それに、苦手なことから逃げずに努力を重ね、少しでも変わろうとしている。
人のよさだって、侯爵家の主としては欠点かもしれないけど、私はそれを人として劣っているとは思わない。
短期間しか一緒にいない私でさえ、ユリウス様のいいところはたくさん知っている。
それなのに、私以上に長く接していた彼女が、そんな風にユリウス様の事を侮辱するのが許せなかった。
「もう一度言います。先ほどの言葉、訂正してください!」
「な、何よあなた……」
クラリッサ様は、私の圧に怯えるように一瞬目を見開き、後ずさった。彼女が下がる分、私も一歩近付く。
けれどもう一歩足を踏み出しクラリッサの腕に手をかけ強く掴もうとした時、私の肩にそっと手が置かれた。
「……アディーレ、もういいんです」
「っ、ですが」
こんなの納得できないと言わんばかりに私が口元を歪めたら、ユリウス様は私の手を取り、静かに言った。
「帰りましょう、アディーレ。それに……これ以上ここにいても、奇異の目に晒されるだけですので」
ユリウス様の言葉に、私はようやく今の状況に気づく。
いつの間にか鳴っていた音楽は止み、会場中の視線がこちらに向いていた。
やってしまったと固まる私を連れて、ユリウス様はその場を後にする。
背後でクラリッサが何か言いかけた気配がしたが、彼は一度も振り返ることはなかった。
ざわめきが遠ざかり、誰もいない静かな回廊へ出たところで、ようやくユリウス様は足を止める。
中庭に面しているためか、火照った体に夜気が心地よく触れる。
同時に、私の頭も冷静になった。
――少し、いや、かなりやりすぎてしまったかもしれない。
そう思った途端、胸の奥に遅れて後悔が押し寄せた。
「ユリウス様、さきほどは申し訳ありませんでした」
私は彼から手を離すと、その場で一礼する。
「私は、次期侯爵夫人となる立場でありながら、あのような公の場で感情を露わにしてしまいました」
感情のままに声を荒げるなんて、ユリウス様の婚約者以前に、男爵令嬢としても、商家の娘としても失格だ。家族に知られたら、らしくないなと呆れて頭を抱えられるだろう。
けれど返ってきたのは、穏やかな声だった。
「どうしてあなたが謝るんですか?」
顔を上げると、ユリウス様は困ったように、けれどどこか嬉しそうに微笑んでいた。
「あなたは、僕のために怒ってくれたんですよね? ……そのことは、とても嬉しかったです」
「ですが……」
「それに謝るというのなら、むしろ僕の方です」
ここでユリウス様は少しだけ視線を逸らすと、唇を歪める。
「過去のことで、あなたに不快な思いをさせてしまいました。僕が不甲斐ないばかりに」
さっきのユリウス様の様子や今の彼の表情を見ながら、私は、これまで口にしてこなかった疑問を、ふっと口にした。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
私は覚悟を決めるように息を整え、思い切って尋ねた。
「本当に……クラリッサ様を選ばなくて、後悔はありませんか? 彼女は……あなたの想い人だったのではないんですか?」
ユリウス様は、しばらく黙り込んだあと、静かに口を開いた。
「確かに、幼い頃から一緒で、気心が知れていて。……正直に言うと、僕は昔、彼女のことを好きだと思っていました」
胸がわずかに疼く。
やっぱり、過去に二人が並んでいた時に浮かべていたユリウス様の微笑みは、間違いなくクラリッサ様に向けられていたのだ。
分かっていたことだけど、改めて言葉で聞くと、胸がずんと重くなる。
けれど、彼の話にはまだ続きがあった。
「でも今になって振り返ると、それが本当の気持ちだったのかどうか……分からなくなるんです。周りの大人たちが、ずっと言っていたんです。お似合いだし、将来は婚約者同士になるだろうって。幼かった僕は、自然とそういうものだと思い込んでいたのかもしれません」
それに、と、いったんユリウス様は言葉を区切ると、ふっと笑った。
「グランシュタイン家が傾いたと知れ渡った時……彼女の方から言われました。――顔は好みだからもったいないけれど、将来性のない男に付きまとわれていると噂を立てられたら困るからもう近づかないで、と」
「なっ……!」
仮に、父親からユリウス様に近づかないよう命じられていたとしても、ユリウス様の心を傷つけることをなんとも思っていないようなひどい言い方だ。
再度彼女への怒りが再燃しかけたが、対するユリウス様は冷静な面持ちだった。
「その言葉を聞いた瞬間、終わったんです。僕の中で、彼女への想いは」
ユリウス様は静かに息を吐いた。
その横顔には、未練の影など一つもない。だけど彼の顔色は、少しだけ暗い。
ユリウス様はガラスに映る私の姿を見つめ、言った。
「……けれど、心が軽くなったわけではありませんでした。 アディーレと出会い、あなたを知っていけばいくほど尊敬すると同時に、アディーレに自分はふさわしい人間なのか、と。こうして並んだ姿を目に映すたびに、ずっと思っていました」
私はここでようやく、ガラスに映る私たちの姿を見た時のユリウス様の表情が浮かなかった理由を知る。
けれど彼の言葉に、私は思わず一歩踏み出した。
「そんなことはありません!」
自分でも驚くほど、強く、はっきりした声が出た。
それでも私はその勢いのまま、続ける。
「確かにユリウス様は不器用ですし、放っておくとすぐ人を信じてしまいますし、数字の読み方もまだまだです。だけど……ユリウス様は逃げません! 苦手なことから目を逸らさず、何度でも向き合おうとする方です。それに、私はユリウス様に何度も助けられました。ダンスや礼儀作法の教師役としてだけではありません。あなたはいつだって、私の心を支えてくれています。だから、そんな悲しいこと、言わないでください!」
言いながら、胸の奥で、これまで形にならずに靄になっていたものがようやく言葉になる。
――ああ。そうか。
私とは全くタイプの違うユリウス様。
けれど私はいつからか、彼のことが……。
胸の奥から溢れた言葉を、気づけばそのまま口にしていた。
「好きです。私はユリウス様を、お慕いしております」
言葉を吐き出した瞬間、胸が熱くなる。
ユリウス様の心にクラリッサ様がいるならと、この婚約に感情なんて挟まないと一線引いて、彼が好きだという気持ちに気づかないふりをしていた。
きっと私自身が傷つきたくなかったから。
だけど、そうじゃないなら、私はもう自分の気持ちを隠すことはできなかった。
ユリウス様は私の告白を聞いた途端、顔を伏せる。
そのせいで彼の表情は読み取れず、不安になる。それでも私は、彼から目を逸らさずにまっすぐ見つめていると、ゆっくりとユリウス様が顔を上げた。
浮かんでいるのは嫌悪でも困惑でもなく。
喜びを滲ませた、けれどわずかに不安の色があった。
ユリウス様は小さな声で言った。
「……僕なんかで、本当にいいんですか」
その言葉を聞いた瞬間、
「――いいに決まっています!」
叫ぶように私は答える。
「私は、あなたの努力も、優しさも、覚悟も、全部知っています。なにも卑下するところなんてありません! いいですか、あなたが思っているより、ユリウス様は、ずっと強くて、ずっと素敵な方なんですから!」
私の好きな人のことを卑下するような物言いは、私が許せない。たとえそれが本人だとしてもだ。
「……僕はこれまで、そんなふうに言われたことがありません」
「なら、これからは私が言います。何度でも、あなたが自分を疑う暇がなくなるくらいに」
そう言って微笑むと、私は彼の手を取りぎゅっと強く握る。
すると驚いたように彼の蒼い瞳が揺れ、次の瞬間、静かに握り返される。
「……ありがとうございます」
そしてユリウス様は、ほんの少しだけ私の方へ身を寄せると、私にしか聞こえない小さな声で、告げた。
「アディーレ、僕もあなたのことが――」
言葉を聞いた瞬間、私の息が止まった後、胸の奥が一気にほどけて、私は堪えきれずに微笑んだ。
◆
後日、夜会での一件は、想像以上の速さで社交界に広まった。
クラリッサ・グリュンベルト侯爵令嬢が、婚約者のいる相手に執拗に迫ったにもかかわらず盛大に振られた――という噂は、瞬く間に人々の口の端にのぼった。
これまで社交界の花と称されていた彼女だったが、その名声は、静かに、しかし確実に色褪せていった。
夜会に招かれる回数も目に見えて減り、彼女の周囲からは少しずつ人が離れていったと聞く。
もっとも、名門グリュンベルト家が揺らぐほどではない。
いずれ彼女も再び社交界に姿を見せるだろう。
けれど――ユリウス様の隣に立つことは、もう二度とない。
一方で私とユリウス様はその後、予定通り結婚し、それをきっかけにクレマー家はさらに多くの商機を得た。
もちろんグランシュタイン家の再興は順調……どころか、財もかなりの額になっている。
けれど、私にとって嬉しいのはそれだけではなく――ユリウス様との関係が順調なことだった。
◆
結婚してからしばらく経ったある日の午後。
私は屋敷の庭で、咲き始めた花々を眺めていた。
「アディーレ」
背後から名前を呼ばれ、振り返ると、ユリウス様が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
彼の手には、香り高い紅茶の入った、繊細な柄の描かれたカップがある。
「あなたの好きな茶葉が手に入りましたので。あとは、孤児院の子どもたちが焼いたクッキーも一緒に」
「ありがとうございます。私ユリウス様のお茶も、あの子たちの作るお菓子も大好きなんですよね」
受け取った瞬間、カップからふわりと優しい香りが広がる。
彼の淹れる紅茶はいつも絶品だ。
お茶うけに出たクッキーは、口に入れた途端、素朴で温かな甘さがふわりと広がる。
子どもたちが心を込めて作ったその味は、バザーでもお祭りでもすぐに売り切れてしまうほど評判がいい。
最近は、彼らに手に職をつけてもらうために、このお菓子作りを小さな商いとして形にする計画を進めているところだった。
そして、その計画の発案者、ならびに中心になって動いているのはユリウス様だ。
私も計画書の最終確認をしているけど、随分と丁寧にまとめられている。
彼自身も手応えを感じているのか、どこか自信に満ちた表情を見せるようになっていた。
少しずつ変わっていくユリウス様だけど、こうして二人でおしゃべりをしながら飲む時間が、私はとても好きだった。
そんな気持ちが漏れ出し、自然と頬が緩んでしまったのだろう。
ユリウス様が不思議そうに首を傾げる。
「……何か、いいことでもありましたか?」
「いえ。ただ……幸せだなと思っていただけです」
「幸せ、ですか?」
「はい。クレマー家をもっと大きくするために、それにこの家を発展させるべく働く日々も好きですけれど……こうしてあなたと過ごす時間も、同じくらい大切で、好きだなとしみじみと嚙み締めていました」
言いながら私は隣の彼の肩に自分の頭を置く。彼の温もりを感じて胸が満たされていると、
「……僕も、同じ気持ちです」
そう言って、ユリウス様の腕がそっと私の肩に回された。
春の風が吹き抜け、花びらが私たちの足元に舞い落ちる。
静かで穏やかな幸福がいつまでもありますようにと願いながら、私はそっと目をつぶって幸福な心地に身を委ねた。




