第9話 ほうれんそう
「よっ、少年」
と、それから数日後。
特にやりたいこともなく、めずらしく机に向かって勉強していたぼくは、窓からひょっこり顔を出したこの人を、無性に殴ってやりたくなった。
漫画でよく見る、カチン、という効果音は、きっとこういうときにつくのだろう。
ガラッ! と配慮のかけらもない勢いで窓を開け放つと、彼は少しビクッとした。
「な、なんだ、どうした、なんでそんな怒ってんだ……?」
「……別に、おこってないよ」
「ええー……」
しばらく沈黙が続いた。響いているのは雨音だけ。
いつかの雨音は心地よかったけど、今日のはなんだか……気まずい。
って、いや、なんでぼくが気まずい思いをしなきゃいけないの。悪いのはぼくになんにも言わずにどっか行ってた兄さんの方でしょ。
ぼくは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、兄さんにビシッと指を突きつけた。
「ほうれんそう!」
「……え」
「報連相! 報告! 連絡! えっと! なんだっけ」
「そ、相談な」
「相談!」
順番に指を三つ立てて兄さんに見せる。
「大事だからね!」
「え、はい……。も、もしかして少年、あれか? 俺がしばらく会いに行かなかったから、それで機嫌損ねちゃった感じですか?」
「……」
「しょ、しょうね〜ん、そっぽ向くなって。あっ、そうだ。ほら少年、お詫びの印にこれやるよ……!」
そんなことを言うものだから、ぼくはすこーしだけ気になってしまって、チラ……と兄さんに視線を向けてみる。
兄さんはふところをゴソゴソとあさり、おもむろに小さな箱を取り出してみせた。
「ん〜ちょっと濡れてるのは……まあ、許せよ?」
そう言って差し出された箱をしぶしぶ受け取って、ぼくはそっとふたを開いた。
すると、ぴょこん! と中から何かが飛び出してきて、ぼくは思わず「わっ」と声を上げた。なんだこれ、うねうねとした何か……、って、もしかしてこれ……。
「ぼく……?」
「おおっ、少年ならきっとわかってくれると思った! ったくあのやんちゃ坊主、人様が一生懸命描いた絵を見て『ミミズみたい』なんて言いやがって……」
……。……一瞬ミミズに見えたっていうのは、言わないほうがよさそうかな。
「えっと、まさかこれを作るためにいなくなってたの……?」
「いやぁ、それはついで」
「ついで」
「あっ、悪い意味じゃないぞ?! いなかったのは〜、ホラ、あれだ、夏休みだ」
「……もう秋になるけど」
「でもまだ夏だし!」
どんどん変な言い訳をし始める兄さんにぼくはだんだんおかしくなってきて、ついにはふふっと笑ってしまった。
しかし兄さんはそんなぼくを見てギョッとする。
理由は簡単、笑った勢いで、ぼくが泣き出してしまったからだ。
焦る兄さんをよそに、人間の感情ってこんなにごちゃごちゃに混ざるんだなあ、とぼくはどこか他人事のように考えていた。
*
目尻に温かさを感じて、僕は目を覚ました。
頬を伝って枕を濡らしたとき、ようやくそれが涙だと認識する。
目尻をぬぐい、体を起こしながらひとり頷く。
今ならわかる。兄さんはあの頃、沢田のところに行っていたのだ。どうりで来なかったわけだ。いくら雨兄さんとて、一度に二箇所に姿を現すことは不可能だろう。
それにしても、ここ最近はやけに兄さんの夢を見ることが多い。なぜだろう。
最初は兄さんと出会う夢、その後は引っ越しが決まったときの夢。そして今度は、兄さんが消えたときの夢。
なぜあの頃の日々を、また僕に見せてくるのだろう。
「なんで?」
僕は自分の身体に問いかけた。
夢を見る間、人は記憶の整理をしているらしい。ならば何らかの理由でかつての記憶が呼び起こされ、整理されているということだろうか。
確かに最近は雨が続いていて、兄さんと合う機会も増えた。沢田が思わぬ共通点を持っていたこともわかった。
でもそれだけだ。沢田のことは予想外だったが、それ以外、特に変わったことは起きていないはず。
記憶の整理――――この身体は、雨兄さんの記憶を整理しようとしているというのか? 一体なぜ? そんな必要ない。兄さんとの記憶は、いつだって完璧なのに。
なのに、整理しようとしているのか。
何より大切な、僕の、ぼくの、思い出を?
「……」
まだ寝ぼけているのかもしれない。 僕は軽く頭を横に振った。
ああそうだ、今日も変わらず学校があるんだから、さっさとベッドから出て準備をしなければ。朝からのんきに物思いにふける時間は、高校生にはないのだ。
ひとまず制服に着替えようと、僕は重たい体を動かした。




