第6話 沢田と兄さん
練習が終わり、校内の生徒はもうほとんど下校していた。
わずかに降っていた雨はすっかり止み、鮮やかな橙色が空を覆っている。
再び合流する前に雨が止んでしまったため、あの後兄さんとは何も話せなかった。聞きたいことがたくさんあるのに。
「……帰るか」
少しの時間でいいから、また雨が降らないだろうか。そう思い教室で時間をつぶしていたが、さすがにそろそろ先生に注意されそうな時間になってしまった。
ため息とともに鞄を持ち上げ、教室の戸を開けたところで、僕は誰かとぶつかりそうになった。
「うわっ!」
「わっ……え、沢田?」
「えっ、天霧くん?! まだ帰ってなかったんだ」
「こっちのセリフ。あ、ていうか沢田、今日の練習で――」
「おーい、下校時間はとっくに過ぎてるぞ! さっさと帰れ!」
突然の体育教師の怒声にビクッとなる。
僕と沢田はそっと顔を見合わせ、「はーい……」と弱々しく返事をした。
「あはは、びっくりしたねぇ……」
「うん、まあ……」
沢田の提案で、僕らはそのまま一緒に帰ることになった。ちらっと横目で表情をうかがってみる。
「……沢田、今日のリレー練習のとき、なに見てた?
「えっと……、な、なに? なんのこと?」
不自然な間が空く。沢田は視線を地面に落とした。
「見えてたでしょ、雨兄さん」
僕がきっぱりと口にすると、沢田はうつむいたまま表情を硬くした。
「……あの人さあ……なんも、変わってなかったんだけど……」
絞り出すように沢田が言う。
「おれ、最後にあの人に会ったの、本当に前なんだよ。十年とか、そのくらい。ねえ天霧くん、十年も立ったら、さすがに人って変わるものだよね?」
「そうだね。でもあの人は変わらないんだ。……もしかしたら変われないのかも。僕ももう十年近く一緒にいるけど、服装すら、変わっているのを見たことがないんだ」
まるで時間が止まっているかのよう――――その言葉は喉元でとどめた。
沢田は黙ってしまった。瞳にこらえきれない戸惑いが映っている。
沢田の言いたいことはよくわかる。僕も昔は、それが『おかしいことだ』と認識していた。
引っ越したときもそうだ。
『キモチワルイって思わないかどうかってこと』
言われたときはどういうことかわからなかった。でも、引っ越してから初めての雨の日を迎えたとき。今までと何一つ変わらない様子で、兄さんは僕の前に現れた。
喜んだよ。喜んださ。嬉しくない訳がないから。
それにしても――それにしてもだ。その異様さは、幼い僕でも全身で感じた。痛いほどに。
違和感はいずれ恐怖に変わり、家でひとりでいると、得体の知れないなにかが僕の中を這いずり回って、かき乱すような感覚に襲われた。僕はあの頃、確かに兄さんが少し怖かった。
でもそれは一時的なもので。
引っ越し先に兄さんがいることが『異様』だというのならば、それが当たり前のことになってしまえば、『異様』はなくなる。だってそれが『普通』なのだから。
まあ……思考を放棄したとも言えるけど。
「話を聞くに、沢田が兄さんと会っていたのは、短い間のようだけど」
「あ、うん、そうだよ。小学校……二年くらいのときかな。一ヶ月くらいして、急に会いに来てくれなくなったんだ」
「そうか……」
今でも見えているということは、兄さんは自ら沢田の前から消えたのだろうか。
というのも、どうやら一部の人間にしか雨兄さんの姿は見えないらしいのだ。だから授業中に窓から兄さんが覗いていても、僕以外の誰も気に留めることはない。
沢田は僕よりも席が前方のため、集中している授業中は目に入らなかったのだろう。
それに気づき、僕は兄さんが幽霊のようなものかと考えたが、手をつないだときに感じる温かい体温が、兄さんの生を物語っていた。
「天霧くんは、ずいぶんと長く兄ちゃんといるんだね」
「そう……だね。うん、そう。引っ越し先にもついてきたし」
「引っ越し先?」
「前はもっと田舎に住んでたんだ」
「そうなんだ。いいなぁ、気に入られてるんだね。おれ、兄ちゃんに何かしちゃったのかな。だから見放されちゃったのかなって、ずっと気になってたんだ」
「確かに気になるな……」
どういう条件で兄さんに会えるのか、どういう条件で一緒にいてくれるのか。
「……そういえば、兄さん、体育祭を見に行きたいって言ってたな」
「え? でも兄ちゃんは雨の日しか現れないよね? ああ、だから雨兄さんって呼んでるのか」
「正解。兄さん、ふれふれ坊主ってのを作るんだって」
「ふれふれ坊主? あはは、あの人、けっこう子供っぽいところあるよね」
「ふふ、まあそう簡単にはいかないと思うけどさ」
「そうだね」
沢田は苦笑いを浮かべた。
「でも、会えたらいいな」
そして、少し寂しげな表情で呟いた。
「……そう」
と、なんだか少し気まずい空気のまま別れた僕らだが。
それは、約一週間後、体育祭本番のことだった。




