第5話 練習
今日も今日とて体育祭の練習である。僕は体育館のすみに並んで、リレーの順番待ちをしていた。
窓に目を向けると、雨粒が窓枠にあたってパラパラと弾ける様子が見えた。
「最近雨が多いね」
「そうだなあ」
窓越しに間髪入れずに返ってくる返事に、思わずため息がこぼれた。
「ねえ兄さん……いつまでいるつもり?」
「フル尺」
「勘弁して」
これまでも兄さんが、雨の日の授業に顔を出してきたことはあったが、今日みたいに全校生徒が集まるような場に顔を出してきたのは初めてだ。兄さんに会えるのは嬉しいが……正直、練習は見に来ないでほしかった。
そんな僕の心情などつゆ知らず、兄さんは体育館の窓からひょっこり顔をのぞかせて、生徒たちの練習風景をそれはもう楽しそうに眺めている。
あちこちで「頑張ろう!」「もう一回!」という掛け声や、チームを鼓舞する声が飛び交っている。いつもならただ鬱陶しいだけの前向きな言葉。今日はそのおかげで、こっそり兄さんと会話することができている。
と、ここで人の波が大きく動き始めた。どうやら次の競技の練習が始まるようだ。
「うわ、もう次じゃん……」
「おっ、次かあ! 応援しててやるから頑張れよ〜!」
いや、練習なのに頑張ってもな……。
ため息を吐きながらラインに立つ。隣に並んだのは、同じクラスの沢田と隣のクラスの佐藤だ。確か佐藤は運動部に所属していて、それなりに足が速かったはずだ。正直一緒に走りたくない。
どうやら佐藤と沢田は友人のようで、ひょいと片手をあげて挨拶をした。
「よっす〜沢田っち。練習とはいえ、負けないっすよ〜」
「はいはい、それはこっちのセリフだよ佐藤。天霧くんも、同じクラスとはいえ、手加減しないよ」
と、沢田は僕にも声をかけてきた。なんとも優しい奴だ。
ちなみに天霧は僕の苗字である。
「あ、はい。よろしく」
端的にぎこちなく返す。
それどころじゃないんだよなぁこっちは。
窓の外で笑顔で手をぶんぶん振っている雨兄さんの姿をとらえ、僕は静かにため息をついた。
兄さんが見ている手前、最下位をとって無様な姿を晒すわけにはいかない。それに、あからさまに全力を出していない走りを見せたら、後で散々文句を言われるに違いないだろう。
仕方ない、少しは頑張るか……。
とはいえ、別に運動が好きなわけでも得意なわけでもないから、期待しないでください、兄さん。
「……」
「……沢田っち?」
ふと隣から不思議そうな佐藤の声がした。
見ると、スタートを知らせるホイッスルが鳴り、後ろからリレーの走者が迫ってきているというのに、沢田はまるで魂が抜けたかのように呆然と、ただ一点を見つめていた。その瞳には動揺の色が浮かんでいる。
「にいちゃん……?」
震えた声で絞り出された言葉は、どうやら佐藤には聞こえなかったようだが、幸か不幸か僕の耳にははっきりと届いた。
まさかと思って彼の目線の先をたどると――――そのまさか、雨兄さんに突き当たる。
兄さんもこちらをじっと見ていたのだから気づいているのだろう。さっきまで振っていた手は、胸の辺りで行き場を失ったかのようにさまよっていて、僕に向いていた視線は、僕の隣に注がれていた。
「おいっ、沢田!」
一向に動かない沢田にとうとう追いついた走者が、脱力したその手にバトンを押し付ける。
「あっ、ご、ごめん」
バトンを受け取って沢田はようやく走り始めた。一足先にバトンを受け取った佐藤はもうコースの向こう側で独走している。
僕もすぐにバトンを受け取り、走り出す。すっかり最後尾になってしまったが、せめて一人くらいは抜かそうと、懸命に足を動かす。
程なくして沢田に追いついた。沢田は足こそしっかり動かしているものの、その視線はちらちらと兄さんのいる窓に向いている。あまり集中できていないようだ。
それは僕も同じことで、脳裏に、兄さんが沢田を見る目が浮かんできて、さっきからそれをなんとか打ち消すので精一杯だ。
沢田は雨兄さんを知っているのか? 兄さんは沢田と会ったことがあるのか? 溢れ出る疑問は疑問を呼び、脳内はぐちゃぐちゃのラクガキ帳のようだ。
浮かんでは消える考えを振り払いたくて、僕は勢いよく硬い体育館の床を蹴った。




