第4話 池
はっぱにしずくがたくさん付いていて、かき分けるたびに水滴がぴちゃんとはねた。
ぐっと最後の草をかき分けると、途端に辺りの空気が鮮明になったような、神々しさに似た開放感がぼくをおそった。
目の前に広がるのは、池だった。
そんなに大きくはないけど、キラキラと光るそれには、飲み込まれてしまいそうな、吸い込まれてしまいそうな、目の離せなくなる不思議な力を感じた。
無意識のうちに一歩踏み出し、そのキラキラを手に入れたくなるような気持ちを感じたぼくは、慌ててぐっと両足に力を入れて踏みとどまる。
「雨兄さん、これ、なんなの?」
揺れる水面を瞳に映したまま、ぼくは尋ねる。
「綺麗だろ〜。俺のお気に入り」
兄さんは宝物を見つめるかのように目を細めた。
「いや、そうじゃなくって、なんでこんな、宝石みたいに光ってるの?!」
水面のキラキラは、はじめはなにか光が反射しているだけかと思っていた。太陽の光とか、外灯の明かりとか。
だけどよーく考えてみると、いま空は真っ黒な雲に覆い尽くされているはずだし、外灯がつくような時間帯でもない。ひょっとして、池の底にライトでもあるのかな?
「ああ……そうか」
兄さんはなぜか少し不思議そうに首をかしげた。
「少年にはそう見えるのか。」
「え、えっと?」
「宝石かぁ。いいねぇ、きっとすごく綺麗な景色が見えてるんだろうなぁ」
兄さんはぼくの手を離すと池のそばに近づき、おもむろにしゃがみ込んだ。その手でそっと水をかきまぜ、できた波紋を目で追っている。
「……兄さんには、どんな景色が見えてるの?」
兄さんは少し考えるような素振りを見せた。
「うーん、水色? ……なんだろ、水の上に、薄い氷が張っているみたいな」
「へぇ……?」
薄い氷かあ。ぼくのとは違うけど、それもすごくキラキラしていそうだなぁ。
「いいね、きっとすごくキレイな景色が見えてるんだろうね!」
ぼくは兄さんの隣にしゃがんで、さっきの兄さんのまねっこをしてみた。すると兄さんはふっと口元を緩めて、また水面に視線を落とした。
「なあ少年」
「なあに?」
「俺に何か、言いたいことがあるんじゃないか」
のどの奥がヒュッと鳴った。寒くもないのに体が震えている。
……ああやっぱり、なにもかもお見通しなんだ、この人には。
薄々感じていた。なんとなく、ぼくの様子がいつもと違うことに、気づいているんだろうなって。それでも、ばれないように精一杯ふるまったはずなのに。
「実はここはなあ、ウソがつけなくなる場所なのさ〜。少年はいったい何を隠しているのかな〜」
そう言う兄さんの声色はすごくわざとらしくて、少し笑ってしまった。
「…………あのね、ぼく、転校するんだって」
「うん」
「ひっこさなきゃいけないんだって」
「うん」
じわ……と目尻に涙が浮かんでくる。
「そうしたらもう……兄さんに、会えないよね」
「……うーん、どうだろう!」
「えっ」
ガラッと雰囲気を変えて言う雨兄さんに、ぼくは思わず呆然とした。
うそでしょ兄さん、ぼくけっこう本気で泣きそうだったのに。
「え、えっと、あれ、も、もしかしてそんなことないの? そんなことあるよね?」
混乱しながら尋ねる。涙はすっかり引っ込んでしまっていた。
「それはまあ、少年次第かなあ」
「ええっ、なにそれ?! どういうこと?!」
「少年が俺のこと、キモチワルイって思わないかどうかってこと」
「ええっ?」
兄さんが目を伏せて言うが、申し訳ないくらいまったくわけが分からない。ぼくはさらに混乱する。
「なんの話か知らないけど、ぼく、雨兄さんのこと気持ち悪いなんて思わないよ」
雨兄さんの顔を覗き込んで答えると、兄さんは静かにぼくの目を見つめた。
「……まあ、引っ越してみれば、わかると思うよ」
*
「お〜少年〜、まぁた背が伸びたか〜?」
「成長期だもん。久しぶり、雨兄さん」
もう少年なんて歳じゃあないんだけどな。
目線よりも少し下にいる兄さんを見下ろす。
もうすっかり背を越してしまった。声も、中学三年あたりから、すっかり男らしい声に変わってしまった。少しだけ兄さんに近づけたみたいで嬉しかったな。
まあ、報告したら、やけにしょんぼりとした表情で「少年がかわいくなくなった……」とか言われたのでぶっ叩いてやったけど。
もう子供じゃないのだ。僕は、もう。
なのに……あなたは変わらないね、兄さん。夢の中で見た兄さんと、何一つ変わらない。
僕はそれを見るたびに、あなたが遠い人のように感じて、悲しくなるんだ。
「最近は学校でなにしてるんだ?」
高校生になってからの僕と兄さんの話題は、主に僕の学校生活についてだ。
小さい頃と違って、家のそばに鬼ごっこやかくれんぼができるスペースがなくなってしまったため、僕らはほとんどの時間を会話に費やすようになった。不思議と、兄さんとの会話は飽きることがない。
「体育祭が近いから、毎日放課後まで練習ばっかりやってるよ。というかやらされた。すごく疲れた」
「あっはは、そうか! 昔は鬼ごっこで散々俺を苦しめたのになあ?」
「ほんと、あの頃の体力が恋しいよ……」
中学まではまだ良かったが、高校に入ってからはみるみる衰えてゆく体力を止めることができなかった。体育の授業だけではどうにもならないことを痛感している。
失って初めて感じる、運動は大切だった……。
「ははは、当日が楽しみだな。雨降るかな? 俺も見たい」
「正直それが兄さんの願いだとしても来てほしくないかな……無様だから」
「ええ〜」
「それに、仮に雨になったとしても、そのときは体育祭自体が中止になると思うよ」
「そっかぁ……。なあ少年、ありったけのふれふれ坊主作れよ」
「なにそれ?」
「てるてる坊主を逆さにして、中に土詰めるんだ。雨になるおまじない」
「話聞いてた?」
兄さんがケラケラ笑った。