第3話 転校
「……転校」
ぼくはお母さんが言った言葉をくりかえした。
「ええ。お父さんが転勤になったの。早めに荷物をまとめておいてね」
うん、と力なくうなずく声は、果たしてお母さんに届いたのだろうか。
ぼくは重い足取りで自分の部屋に向かい、呆然とドアを開け放った。入口に佇んで部屋を見渡してみると、いたるところに兄さんとの思い出があふれていた。
雨の中むちゅうで探した四葉のクローバーの押し花、誕生日に作ってくれたしずく型のしおり……。
ぼくはしおりをそっと手に取った。
いつからだったか。放課後にひとり公園で本を読む習慣が無くなったのは。
別に本を読むのが特別好きだったわけではなくて、周りの音や声を遮断するためのぼくなりの方法のひとつだっただけだが、兄さんと出会ったことでそれは変わった。兄さんがおすすめしてくれる本を読むのはワクワクしたし、兄さんと読んだ本の感想を言い合うのも楽しかった。
なにより、もうひとりじゃないぼくは、ひとりで本を読む必要が無くなった。それが嬉しかった。
「行きたくないな。転校、やだな」
心の声をポツリと漏らしてみると、いよいよ悲しくなってきた。しまった、これは心の中にとどめておくべきだった。
目元を濡らし始めた涙に指先で触れる。ひんやりしめった感触は雨粒を思わせ、無性に外に出たくなった。
ぼくは玄関に走った。
靴もしっかりはけていないうちに扉を勢いよく開け、外に飛び出した。踏みしめる地面はカラッと乾いていて、ポカポカと照らす日差しはぼくの気分を余計に下げた。
それでもむちゅうで走り続けた。公園に……いつもの公園に行きたくて。
見慣れた景色が目の前に広がった。古びたブランコとすべりだい。
ぼくは膝に手をつき、肩で息をする。とつぜんの全力疾走に、同級生と比べて一回り小さい体が疲労をうったえていた。
少し呼吸が楽になったころ、いつもは使わないすべりだいの階段に足をかけた。一段、また一段とのぼるごとに、さびついたすべりだいはギシギシと悲鳴をあげた。
背筋の凍る思いでてっぺんにたどり着いたぼくは、遠くに見えた、小さいようで大きい町の景色に息を呑んだ。
しばらく呆然と見とれていると、ふと、景色の片隅に大きな灰色の雲が浮かんでいるのが見えた。どっからどう見ても雨雲だった。雲は風に乗ってぷかぷかとこっちへ近づいてきている。
「帰らなきゃ。きっとすぐに雨が降ってきちゃう」
急いで下に降りようとしたけれど、少し立ち止まる。
まてよ、雨が降るっていうことは、それってつまりこれから雨兄さんに会えるかもしれないんじゃないか?
そう考えて、すぐに首を横に振る。ぼくはお母さんになんにも言わずに家を飛び出てしまった。それだけで確実に怒られるだろうに、加えてびしょぬれで帰ってきたとなれば、かなり大変なことになるに違いない。絶対に今から急いで帰るべきだろう。
ああでも……兄さんに会いたいな……。
絶対に帰ったほうがいい。でもきっと……今から走ったって間に合わない。
ぼくはそう結論づけ、ひとまず下に降りようと、すべりだいをすべった。座るとズボンが汚れてしまうから、しゃがんで靴の裏ですべった。
地面に足を下ろすと同時に、鼻先にポツンとなにか冷たいものがあたった。続いて頭、肩に、ポツポツとつぎつぎに同じ感覚がした。
「雨……! もう降ってきちゃったんだ」
ぼくは急いですべりだいの下に駆け込んだ。屋根になる部分はわずかで、その場しのぎにしかならない。あともう少しでも雨が強くなったら、ここにも雨が入ってきてしまうだろう。
どうしようかと様子をうかがっていたとき、
「少年」
と、声がした。ぼくは目を見開いて、後ろを振り返る。
「……」
公園の奥のほうは、木々が連なって林になっている。危ないから近づくな、とふだん言われているところだ。
そのうちの一本の木の幹に片手を置いて、その身を隠すように雨兄さんは立っていた。いつもは雨に濡れた兄さんの顔がはっきり見えるが、今日は影が覆っていて、表情がよくわからない。
でも雨兄さんだ。よかった、会えた。会いたかったんだ。
そうだ、転校のこと、引っ越しのこと、兄さんに言わないと。でも言いたくないな。言ったら兄さんはなんて言うだろう。
兄さん。ねえ兄さん。
どうしてこっちに来てくれないの?
「に、にいさ……」
雨が、ぼくらを隔てている。そんなふうに感じた。いつもはそんなこと、絶対に思わないのに。いつもは、ぼくと兄さんのかけはしになってくれるはずなのに。
「少年」
「……」
「……おいで。この雨は、長く降らない」
落ち着いた様子でそう言って、兄さんはぼくにくるりと背を向け、林の奥に歩いていってしまう。その背中がやけに遠く見えた。
「あ……ま、まって!」
ぼくはまだらに降る雨と、少し濡れてしまった服を見て、それからだんだん遠くなる兄さんの背中を見る。それから――。
それから、雨の中に勢いよく駆け出した。
ぐんぐん近づく兄さんの背中に飛び込むように抱きつくと、兄さんが「うおっ」と小さく叫んだ。仕方ないなあというふうに肩をすくめた兄さんは、腰に回っているぼくの手を優しく外し、代わりに大きな手で握ってくれた。
いつもと変わらない様子の兄さんに安心して、ぼくもそっと兄さんの背中から離れ、横に並ぶ。
「……雨兄さん?」
「ん〜?」
「どこにいくの?」
「ん〜……ヒミツの場所、かなぁ」
「ひみつ?」
「そういえば、傘はどうした? 濡れたらお母さんに怒られるんじゃないか?」
「うん……でも、雨兄さんに会うほうが大事だから」
「……そうかぁ」
それっきり、雨兄さんは黙ってしまった。ぼくも特に何か話すわけでもなく、ぼくらの間に沈黙が流れる。でも代わりに雨がたくさんおしゃべりしてくれていた。
沈黙の中に響く雨音がひどく心地いい。それはきっと、隣にいるのが雨兄さんだからだ。そんなことを頭の片隅で思う。
しばらく歩くと、前方に少し背の高い草むらが見えた。ちょうどぼくの背ぐらいの高さだ。
「少年の背じゃあ、ほとんど見えないか」
兄さんがケラケラ笑った。
「こっち」
くい、と手を引かれるままに、ぼくは草むらに入っていった。